縮刷版2000年12月下旬号


【12月31日】 下衆とまで呼ばれてるんだからよほど酷いことでも言ってるのかなと思って「エスクァイア」の2月号を買ったけど、樋口泰人さんと柳下毅一郎さんの対談「アメリカ映画、その現在と未来」を読んでもどこが青山真治監督の逆鱗に触れたのかが分からず、人の気持ってやっぱり他人には容易に計り知れないものだってことを実感する、分かり合える日なんてこないよララア。想像するに例えばサンダンス映画祭から出て来そーなこじんまりとして「だいたい20代とか30代の男女のグループが出てきて、くっついたり離れたりして、最後は大団円、みたいな」映画を唾棄してるなんて言い切ってるあたりとか、俳優が映画を撮っているのか撮らせてもらっているのかってな部分を突っ込んだ「俳優がエゴを満足させるために映画会社がアメ玉をあげるっているか。ちょっといやな感じがするんです」と揶揄ってるあたりとか、直裁的なんでビビッと来るのかもしれない。

 それよりやっぱり「結局パロディの対象になっているっていうのは、様式化されて成長が止まってしまったことですよね。で、アメリカ映画って言うときに出てくるのが、ワイオミングだのモンタナだっていうのはアメリカ映画もとっくに終わっているのかなって」と言ってる部分の方がストレートに青山監督の関心を逆なでしているのかも。何しろ同じエスクァイアで青山監督、「妄想のハイウェイ90」ってタイトルで当のワイオミングとモンタナを訪ね歩いてるルポを書いていて、「アメリカ映画」という枠組みが仮に未だ人々の関心を引きつけているとしたら、その中心にあるのがワイオミングでありモンタナなんだろうかということを考えている人らしいから。あるいは松竹大船調に日本映画の原風景を見るとしたら日本映画も終わったと見るのかそれでも日本映画って言った時に浮かぶ松竹大船調への憎しみと裏腹の郷愁を考察すべきなのか、って違いになるのかな、ならないかな、うーん映画は別に趣味じゃないんで分からない。

 ワイオミングだモンタナだって言われても行ったことが無いと全然ピンとこないんだけど、アメリカ的、って言った時にやっぱり浮かぶ風景ってのは青山さんの記事で甲斐裕司さんが撮った荒野を真っ直ぐに伸びるハイウェイであったりレトロなサインが掲げられたドライブインとかモーテルであったりカウンターのあるレストランであったりするんだろーか。日本的、と言った時だってそれは東北的なのか東京的なのか京都的なのか大阪的なのか広島的なのか沖縄的なのか、人によって判断が分かれるところで、けれども映画で言う時の日本的にどことなく松竹大船的なものを思い浮かべるコンセンサスあるいは共同幻想があるよーに、アメリカ映画的と言ったら浮かぶのがワイオミングでありモンタナなのかもしれない。松竹大船にしてもワイオミングモンタナにしても、それを形式と唾棄するか郷愁と慕うかで判断もきっと分かれるんだろう。立場の違いに寄る見解の相違なのだとしたら、双方の立脚点への想像を働かせても、なかなかに相容れない事なのかもしれない。評論って難しい。

 ちなみに僕がアメリカで行ったことがある街のうち1カ所は「ウォルトディズニーワールドリゾート」のあるフロリダのオーランド。市街地は整備された近代都市で、「ウォルトディズニーワールドリゾート」の方は湿地と森を開拓して作った人工的な施設だったりするから、モンタナとかワイオミングの雰囲気とはちょっと重ならない。映画関連では「MGMスタジオ」なんかがあるけれど、どっちかって言うとワイオミングでもモンタナでもなく南北戦争とか西部劇とか言ったってな雰囲気だからなあ。映画を介して日本人が見た「アメリカ的」なるものと、当のアメリカ人にとっての「アメリカ的」なる風景ってのも違うのかなあ。もう1カ所のサウスダコタは何しろアメリカでも田舎中の田舎と言われる州だけあって、マウントラシュモアのある辺りなんかもう100メートルもメインストリートを歩けばそこは荒野、なだらかな丘の向こうにはなーんにもなくって、山から見下ろした周囲のほとと360度が無人の原野ってんだから全然ワイオミング的モンタナ的じゃない。強いて言えばコスナー的? 「ダンス・ウィズ・ウルブス」はサウスダコタで撮ったそーな。

 20世紀遺産を訪ねる旅も今日が最後、なんでとりあえず日本の原風景として有る程度のコンセンサスが得られるかもしれない浅草まで出て、そこから「ROX」に回って日本人が心に浮かべるヒーロー像の中心にあるだろー御方の顔を見に行く、そーです「ウルトラマン」です。絵草紙とかくらいしかなかった19世紀から一転して本に雑誌にラジオに映画にテレビとメディアが発達した20世紀は、それぞれのメディアに山ほどのヒーローが誕生した言うなれば「ヒーローの世紀」でもあった訳で、もちろん世代によって丹下左膳だったり力道山だったり長嶋茂雄だったりしたかもしれないけれど、40前の世代にとって多かれ少なかれ頭のてっぺん近くに位置するヒーローが来るだろーことは、あながち的はずれではないと思う。あるいは双璧として「仮面ライダー」が挙がるかな。

 何より凄いのは長嶋がオヤジの、力道山が老人のヒーローでしかないのに対して「ウルトラマン」は誕生から30年以上が経過したにも関わらず、子供にとっても現役にヒーローだってことで、「ROX」の中にある「ウルトラマンランド」だかには大晦日だってのに家族連れが結構な数詰めかけていて、「ウルトラマンティガ」のサイン会と撮影会を楽しみにして待っている。「ティガ」のサインって一体どんなだろうってな興味はさておき、登場した「ティガ」と応援で登壇の「ダイナ」に浴びせる歓声の大きさを聞くにつけ、その偉大さをひしひしと感じると同時に、「ウルトラマン」を死なせなかった円谷プロダクションの意志と信念に改めて感じ入る。本当だったら敬意を表して砧にある円谷プロの前で記念撮影と行きたかったけど遠いんで浅草にさせて頂きました。21世紀にも何とかって「ウルトラマン」が登場とか。これなら22世紀までも生き延びそーだね。

 本郷から東大へと回って安田講堂を見物、学生運動終焉の象徴って意味も少しはあるけれど、どちらかと言えば20世紀を良くも悪くも支え蔓延った官僚企業人外交官に一部政治家なんかを送り出した場所って意味もあっての見物で、20世紀という棺が覆われよーとしている現在、果たしてこの場所は聖地として讃えられるべきなのか、悪しき場所として唾棄されるべきなのかをあれやこれやと考える、決して入れなかった(入ろうともしなかったけど)やっかみなんかじゃなく。少なくとも今もその権威に衰えはあんまり見られない以上、21世紀の日本を支えるなり崩壊させるのもこの安田講堂を仰ぎ見た人たちってことになりそーで、結果訪れるだろー22世紀に日本は一体どーなっているのか、楽しみでもあり不安でもあるけれど、どっちにしたっれ自分には関係なさそーなんで、まあ適当にやって下さいとだけ言っておこー。生きてたらどーしよ。

 あちらこちらで時間を潰してから丸の内へと回って「東京ミレナリオ」を見物、まあ綺麗、けど初詣じゃないんだから一方通行を通り抜けて終わりってのもちょっとつまらない。東京国際フォーラムでライブなんかを聴きながら時間つぶし、六本木にあるK2とかって店で唱ってるらしー一群による70年代80年代に流行ってたアメリカンポップスを聴いていると昔見ていた「ベストヒットUSA」を思い出す、小林克也さんの吠え声も同時に浮かんで来る。アース・ウィンド・アンド・ファイアーの「ファンタシー」とかビージーズの「ステインアライブ」とか聴いてると懐かしすぎて涙が出てくる、でも唱ってるお姉さんの開いた胸元からこぼれそーに揺れるバストを見ていると嬉しくって笑みが出る、ライブ見に行こーかな。集団で西城秀樹の、じゃないビレッジ・ピープルの「YMCA」を演ってくれたのを見て体が動きそーになるのはやっぱり西城秀樹のおかげですby森奈津子。

 頃合いを見計らって皇居前広場へ。さすがに派手なカウントダウンイベントなんかやってなくってシンと静まりかえった中をポツン、ポツンと立っている警察官の姿が護られ過ぎている皇室ってな雰囲気を醸し出す。皇紀とかはともかくとして少なくとも1000年以上は続いている日本の皇室が多分、存続を問われて大きく揺れたのはやっぱり1945年の敗戦ってことになるんだろーけれど、当然なのかそれともどーゆー訳なのか生き残ってしまってかれこれ50余年、もはや存続と問うことすら困難な、21世紀の訪れを盛大に祝うことなんてはばかれるくらいの存在に奉られてしまった。20世紀最後の皇居前広場は二重橋への入り口は閉鎖され向こう側には一般参賀を控えて白い記帳のテントが暗闇の中に建ち並ぶ。向こうにあるだろう宮城は当然見えず、21世紀の訪れをどう迎えようとしているかなんて当然のことながら伺い知ることはできない。次の100年、東京は、皇居は、日本は果たしてどうなるのか。やがて迎える22世紀も同じ光景が広がっているのか。変わっていて欲しくないとも思うし、変わった姿にも興味はある。結果は見られないけれど、これだけは願おう、日本で、日本人として22世紀を迎える人がいるだろうことを。


【12月30日】 20世紀最後の「コミックマーケット」へ。21世紀を間近に控え、海上に築き上げられた人工島の上に建つ、巨大な台形が中空に浮かぶ未来的な空間の中で、パピルスの時代から数千年の歴史を持つ前近代的な紙の媒体がやりとりされててるってな錯綜具合が何とも奇異に映るけど、側を走る電車はリニアじゃないしチューブの中を通ってもおらず、島はドームに覆われて快適な温度に調節されてるなってこもなくまるで冷蔵庫の中の様。車は内燃機関から排気ガスをまき散らし、誰も体にフィットした銀色のスーツを着てもいなければ頭からアンテナを出してもいない辺りを見るにつけ、21世紀なんてものは所詮は2000年12月31日の翌日でしかないんだってことを深く思う。けど耳の横にあてた小さな箱で遠く離れた人と自由に会話してるのってのだけは21世紀的かもね。

 そもそもが21世紀的なら一カ所に何十万人もが集結なんてしなくてもネットとか電波とかでビュンビュンと作品が送られて来てるはずだから21世紀なんてもののたいしたこと無さはおして知るべし。相変わらずの人混みの中を並んで入場しては東館へと出向いて運び込んだ本の束の上に座ってせっせとその名も”西暦2000年、いったい岡田斗司夫はナニをやっていたのか? モノマガに連載されている「オタク日記」を読むと、なにやら「『フロン』の3章を書き直した」とか書いてあるが、いったいぜんたいその「フロン」というのは何なのか? 噂によると昨年秋頃から合ゴンとかインタビューとか、やたら女性関係が賑やかになっていたらしいけど、それは本当に次回作のためたのか? というわけで20世紀最後のコミケ新刊本がこの本、題して「『フロン』とはナニか? 年末スペシャル全てお見せしましょう!」”とゆー同人誌を手売りしていた岡田斗司夫さんを観察したり本を買ったり、人垣から唐沢俊一さんの姿を見たり昨晩新宿で呑んでいたのに頑張って出勤の間嶋健太さんに挨拶したりして西館へ。

 SFの島とかのぞいて慶応大学SF研究会の角川春樹事務所とか早川書房とか徳間書店とか東京創元社とか朝日ソノラマとかのSF関連編集者インタビューが掲載されている実に会誌っぽいタイトルロゴの会誌「ホライズム24」を買ったり紺野キタさんの「サリーガーデンズ」で新刊の「COTTON」(ホコホコしてくるオチが良いっす)を買ったり4階の企業ブースで小中千昭さんが脚本を担当しているCGアニメ「マリスドール」のプロモーションビデオをもらったり赤井孝美さんの会社のブースで「星雲賞」受賞記念テレカに使われているエロいラフィールじゃない女の子が表紙で「電撃アニメーションマガジン」にも載ってる川澄綾子さんのコラムに挿し絵なんかも読める「2000赤井孝美オシゴトブック」を買ったり。折り込みのミニポスターでラフィールが”だっちゃ”な格好して「ソビーク」通いをして良い感じ。何か4月29日には東京文具共和会館でホンマもの(?)の「ソビーク」もあるみたいだし”だったちゃ”のラフィールとか歩いてると嬉しいな。

 あまりの寒さにファッションタウン辺りに非難して漫画とか雑誌を立ち読みしてから終幕を迎えるべく再び「東京ビッグサイト」へ。SF関係は大森望さんさいとうよしこさんは見たけどアミン大統領写真集とかクンサー写真集とか不思議な同人誌を見つけて来るあたりが青山真治監督にニヒリストと呼ばれる所以なのかもしれないし、全然関係ないかもしれない柳下毅一郎さんは見かけず。三々五々と帰途につくも臨界副都心線は駅前で長蛇の列が出来る混み様で、これだったら西葛西までタクシーに便乗させてもらえば良かったと後悔したけど後の祭りなんで気を取り直して終点の「東京テレポート」駅まで歩いて始発だから当然ガラ空きな電車に乗って「国際展示場前」から乗って来た人たちがギュウギュウ詰めになる様を見てほくそ笑む、歩いた分だけ馬鹿みてるのはこっちだったりするんだけど、そーゆーことは気にとめない、とめてたまるか。

 会場の外にあるベンチで冷え冷えになりながら上巻を読み終えた冲方丁(うぶかた・とう)さんの「ばいばい、アース」(角川書店、上下各2800)の下巻を3時間ほどかけて一気に読了、長い割には文章の割かしな平明さっていゆーかヤングアダルトっぽさに山場なんかの作り方の巧みさもあってスラスラと読めるのは良い。内容については耳が長かったり毛が生えて足りする人たちが住んでいる国で唯一顔に毛も生えてなければ耳も尖っていない女の子が剣士となって敵に会っては敵と倒し見方に会ってもこれを倒し、恋いをし友情を育み裏切りにあり別離に悩み、とにかくいろいろなものと戦い自らの運命をつかみとる、言われるところの「ビルドゥングス・ロマン」だけど、世界観を構築している「機械仕掛けの神」とか「ガイダンス」とか「パークのテーマ」とかいった用語に、下巻で登場する謎めいた少女の残した言葉なんかから想像するに、一種ファンタジーの衣を借りた結構マジなSFじゃないかってな気がして来ている。

 それがリアルな世界で引き起こされていることなのか、バーチャルな世界での妄想なのかは判然としないところで、あるいは旅だった少女がこれから出逢うさまざまな試練なんかの過程において、明らかにされていくことなのかもしれない。2600枚を使った物語のこれがプロローグだとしたら人類の命運を紡ぐ物語はいったいどれだけの長さになるのやら。そんなグランドデザインまでをも含めて「ばいばい、アース」を書いたとしたらこれでなかなか冲方丁、すさまじい作家になって良くのかも。とりあえずはこの本がどう読まれSFの人ファンタジーの人文学の人にどう受け入れられるのかに注目。僕はとにかく堪能し感応しました。20世紀の掉尾を見事飾った秀作。けどあれだけの分厚さ、これから読む人にはきっと21世紀の幕開けを飾るに相応しい作品になりそーです。


【12月29日】 小そうじ。ごみ箱と半ば化していたユニットバスから腐ったタオルに黴だらけの新聞紙なんかをまとめてポリ袋に入れて放りだし、積み上がったお風呂用の本をふやけた分だけ処分してそれからカビキラーカビキラーカビキラーサンポールカビキラー、目がちょっと死ぬ。メインのパイプがずっと詰まり気味で風呂の栓を抜くと逆流する状況がここんとこずっと続いていて、流石にマズいと思って近所のロフトで美容室御用達の髪の毛だって溶かすスーパーでスペシャルな薬品を買って排水溝に流し込んだのは良いけれど、もしも間違えてこの薬をシャンプーかわりに頭に塗り込んだら残り少ない髪も溶けてしまうんだろーかと想像をして恐怖に奮える、まあ液体じゃないんでシャンプーみたく頭に振りかけてからシマッタと思うことなんて無いんだけど、夜中に忍び込んだ誰かが中身を入れ替えておきでもしない限り。

 部屋はどーしよーもないんで放って置く。洗濯も来年に回してあとはひたすらコミケのカタログチェック、っても目当てのサークルがある訳じゃないんでとりあえずは何故か「SPA!」の21世紀に期待される漫画家さんの1人に入っていた紺野キタさんのサークル「サリーガーデンズ」が出ている場所とか本人が来るかどーか期待と不安が相剋する静岡大学のメディア論戦隊とか怪しげな評論が集まりそうな辺りとか勿論SFの場所とかを、折り込みの配置図なんかに記入しながら確認していく。西と東で行ったり来たりしなくちゃいけなさそーだけど、夏みたく通路はぎゅうぎゅう詰めになって男な薫りが漂うんだろーか。夏よりは暑くない分耐えられるとは思うけど、でもやっぱりすさまじいことには代わりないからなー、ちなみに自分の薫りはまったくもって気になりません、そーゆーもんです。

 映画の「バトルロワイル」を見た時に買った、殺し合う生徒が首からぶら下げていた島の地図なんかを入れるビニール製の袋があるんでこの中に入れて回る積もり、地図も入れっぱなしなんで「バトロワのコスプレだろー」とか言われてしまい可能性は、制服じゃないしどー見たって中学生じゃないからありません、でも折角なんでセットにはついてなかったコンパスも入れて配置図の上に重ねて北だ東だとかやって遊ぼう。テロな人なんかが入り込んでいて「バトロワ」よろしく「12時になったら東Aの○○を爆破、以後1時間ごとに西あ○○、東ぺ○○、西ふ○○、東G○○の順番で爆破していく」なんてゲリラ放送なんかをやってくれたらもっと役に立つんだけど。

 「アフタヌーン」の「大合作2」は人によって好きな漫画家さんが違うから読みどころもそれぞれにあるみたいだけど、個人的に大ウケだったのは岡田芽武さんの「ニライカナイ」から借りて来た、迫力の大活字が読む人を奮えさせるいつものパターンで繰り出した「真(神)性包茎」の宣告。バックで踊るのがどーして筍なのか、「神聖包茎」の状況を知らない人がどー受け止めたのかにもちょっと興味があります、そんなカマトト今日日いねーか。けどとりあえずは病院内だけに響いただけで被害も小さかった(そんなに小さくないけど)ものの、これがホツマだったら日本中に音を響かせて全国民が知ってしまうところで、道を歩けばすれ違う人の男は笑い乙女は顔を赤らめる状況に置かれてしまっただろーから、やっぱり不幸中の幸いだったとゆーことにしておこー。

 パンダ学園にどーして入れたんだとやっぱり誰もが思う「なるたる」のシイナ。別居している母親が結構な職業だからってこともあるんだろーか、裏でいろいろと手が回ったとか、謎少女もいっしょに入ったあたりがどーにも匂う。「大合作2」の方だとまだ「小学生編」と同じアスカ的な前髪なのが「中学生編」では何だか珍妙なヘアスタイルになっているのもちょっと驚き、額の両脇がぐっと食い込んでるってこっとは前髪あげると額結構広くなるんだろーか。あと東浩紀さんが最近の女性キャラクターに特徴の印として上げていた「触覚」が出来ている点にもちょっと注目。触覚自体が果たしてリーフだかのゲームのキャラクターから派生したものなのかそれとも探せば大昔に原点を見いだせるのかは知らないけれど、「ラブひな」の成瀬川なんかも含めて触覚ヘアが目立ち始めているのも事実で、そんな流れに鬼頭莫宏さんも乗って来たってことになるんだろーかどーなんだろーか。何故触覚? って聞いてみたいところです、機会は当分なさそーだけど。


【12月28日】 あのピタピタしたTシャツのバストをモリモリと持ち上げている、動けばタプタプとして走ればユサユサとしそーなプルプルを、テーブル挟んで目の前に見せられたら別に「なんか普通に女の子と話すのが無茶苦茶に久しぶり」だろーと連日普通に女の子を話していよーと、やっぱり目は釘付けになって言葉は出なくなってしまうよ田波ちゃんニクいよ田波ちゃん羨ましいよ田波ちゃん。首根っこをひっ掴んで床へと押し倒すアクションの時に首から下のあたりでブルンと動いたその動きを首にあてた手のひら越しに感じられたかどーかは知らないけれど、起きあがる際に脇の下へと差し込んだ手が間近なモリモリの熱を感じただろーことは無理矢理な想像に難くなく、やっぱりもって万死に値するよ田波ちゃん銃殺だよ田波ちゃんと、遠く綾金は笠寺、じゃなかった傘寺あたりに向かって叫びだしたくなりました。フラグが立った? 銃殺は止めだカンタン刑だ。

 ってな羨望願望満載の「ジオブリーダーズ 魍魎遊撃隊」を最新の「ヤングキングアワーズ」2月号で確認した後で読んだ巻末の著者近況なんかに浮かれてる場合じゃないってことを自覚、例の一件であれやこれやと騒がれてしまった内藤泰弘さんが「心配をかけちゃってしいません」とファンの声に元気でいるところを見せて安心させてくれているその上で、伊藤明弘さんは「領収書付きで買って来た本をバラバラ捲って趣旨に合う部分に付箋を貼る程度が連中の仕事か」と指弾。まったくもって「ハイそのとおりです」としか言えないあたりが何とも申し訳ないやら痛いやら。主体性がなく理解力もなく惰性レベルの反応でもって事件だ原因は漫画だ漫画は悪だってな論旨を組み上げて、それに見合ったコメントなり情報を持って来る、パッチワーク・ジャーナリズムの本質を実に見事に言い表している。

 さらに悪質なことに、間違っているならそれを後で質せば問題は皆無とは言えないまでも同情の余地は生まれるところを、一過性の情報でもって知らん顔して謝らない、そんな「第4権力」ぶりがおそらく英明な人には知れ渡っているにも関わらず、省みないどころか改めようともせず開き直りすらするこの無神経ぶりは、いったいどーゆーことなんだろーと驚き呆れるといった感情を通り過ぎて不思議ですらある。考えるに市民とか読者とかいった対象に向かって公明正大に情報を伝達していくとゆーマスコミ本来のベクトルとは違った、別の方向を向いて伸びているモチベーションなりプライオリティーのベクトルがあるんだろー。昨日の読売新聞の映画やゲームが犯罪少年に影響を与えたってな趣旨の記事がもしかしたら道徳とか規律とかいったものを押しつけたい国の思惑とゆー方向に向かっているよーに。

 連日の大忙しとなった産経新聞による「任天堂とセガ協力へ 次世代携帯ゲームソフト開発」とゆー記事もあるいは同種のベクトルが漂ってる雰囲気。新聞業界には抜かれた時には抜き返せってな掟があって、もちろん商売する上であっちに美味い情報があって客を持って行かれそうになったらこっちはもっと美味い情報を載せて客を取り返すのは当然と言えば当然なんだけど、昨日今日の騒動で言うなら空気を入れてふくらませた巨大なステーキが売っているのを見た店主が、見栄だけで同じ様に空気ステーキ醤油味を作って客の目を引こうとしているよーにしか見えない。食べたら分かる空気味。結果店は客からそっぽを向かれ、せっかくのステーキ肉を空気でもって台無しにされた肉牛生産者からも2度と食材を卸してやるものかと三行半を突きつけられるって寸法。チェーン店の末席を汚すあたしゃどーこれからどーやって買付に行けば良いのさ。怖いんだぞー京都の牧場のオーナーは。

 ろくすっぽ仕事をしない野郎が抜かれた腹いせに吠えてるだけだと思われてもちろん当然。本当に中身があって事実で否定もされず即座に発表会見なんかが開かれる類の話だったら脱帽して頭を丸めて(丸いけど)やっても全然かまわない。けど言うにことかいて「任天堂は(中略)ライバル会社のセガと協力する方向で交渉を進めていることを明らかにした」ってのは何。プラットフォームホルダーがソフトメーカーに協力するって一体どーゆーこと。なるほど「プレイステーション」の初期にトップを目指すSCEがソフトを集める為に優先的に情報を提供したり開発機材を供給したって意味での協力ならあっただろーけど、現時点でシェアトップで次代も確実に(御免よバンダイ、でも事実なんだから)シェアトップな携帯ゲーム機の世界で、どーして「ソフト数を増やして携帯型ゲーム機での独走を目指す」必要があるのかが分からない。「協力」って具体的には何。ROMカセット安くしてくれるの。セガのタイトルなら何でもオーケーしてくれるの。そういった話が記事にはいっさい書かれてない。こんな記事、ぐうたら記者だ言い訳記者だと非難されたって書きたくない。愚劣であるより愚鈍でいたい。だから怖いんだって京都のオーナーは。

 セガが「ゲームボーイアドバンス」向けにソフトを作りたいと言うのはセガの自由。それが売れそうならライセンスは出すし売れそうもなければ出さない。「どうぞお作りなさい」とセガに向かって言うことが「協力」だって言うならこれまでだって「サクラ大戦GB」のよーにセガのコンテンツを「ゲームボーイ」向けに作った例があるから特段目新しい話じゃない。夕刊とはいえ1面になる話かどーか、それ以上に昨日の今日でまともな神経がある人ならとても記事になんか出来る話じゃない。ただし新聞業界的なまともな神経とゆーのはさっきも説明したよーに読者とか業界といかいった方向にベクトルを向けることじゃなく、例えば記者ならデスクへの体面だしデスクは社内の、新聞社全体は別の新聞社への方に向かってプライドを保つことにあるから、その意味では立派に役割を果たしている、素晴らしい記事だと言うこともできる。すでに別の新聞が書いていることを何日か経ってほとぼりが醒めたころにさも自分たちが発見したように「○○新聞の調べで○日明らかになった」と書いて恥じない、それが矜持だと思っている業界だから押して知るべしなんだけど。

エアボード  そんな業界に身を置きつつも染まって楽になるだけの甲斐性もないのが我が身の不幸。とはいえ相も変わらず壮大希有な話しか出ないだろー納会に出るよりは世紀のイベントでも取材していた方が身の為と、早々に店じまいして銀座のソニービル前で開かれた八谷和彦さんの「エアボード」公開実験を見に行く。最初の回に行くとカメラの放列が出来ていてなかなかの人気ぶり。おそらくはソニービルとかの人がソニーの新型情報機器「エアボード」だかの宣伝もかねてあちらこちらのメディアに声をかけたんだろーけど、当方は別に声なんかかけてもらってなかったから、勝手に参集しては適当に状況を観察する。やがて登場した八谷さん、21世紀にはかなうだろーと思っていた夢の機器がかないそーもない現実を前にだったら自分でかなえてみせる的な”意志”でもって作ったとゆー「エアボード」の最初はジェットエンジンを吹かす実験を始めたけれど、何度やっても点火から先に吹き上がらない。45分ほど頑張ったけどダメで最初の回は終了となり、集まっていた大勢のメディアが果たしてどんな悪口を書くんだろー、「ホラは吹いてもジェットは吹かず」なんてイジるんだろーかと心配する。

 けれどもそこは八谷さん、間を置いての2回目の実験ではカバーを取った状態でしっかりと点火に成功、そこからカバーをかけて地べたにおいて滑空の実験へと移ったけれど、絵とかにあるよーにスケートボードよろしく両足を載せて空中を華麗に滑空するってなことにはエンジンの出力上ならないらしく、ちょっとだけ浮かんだボードの上に片足を載せて片足で地面を蹴ってスイーッと滑ってる間に両脚を乗せてみる、ってのが現時点の最良の状況。ソロバンスケボーよろしく前へと進み持ち上げてひっくり返して向こうへと進みまた来て戻ってってなことを繰り返して、それでも日本では23日の「東京都現代美術館」でやっと成功したとゆー滑走実験を衆人環視の中日本の中心銀座の地でものの見事に成功させる。おめでとう八谷さん、次は地上数センチを数10センチに、距離も数メートルから数10メートルに引き上げてくださいな。

 露店が出ていて「エアボード」関連グッズの後ろ側がポリプロピレン製になってる不思議なキャップを売っていたんで購入、限定200個らしーんだけどこれもアートになるのかな、それともただのグッズかな。いずれにしても現実の21世紀を前に夢の21世紀を20世紀中にかなえてみせるレトロフューチャーなイベントに観客として参加できて良い経験になりました。22世紀でもいいからチューブの中を走る列車に交差点を浮かんで飛ぶエアカー、実現してると良いな。



【12月27日】 ランスロット智美のファンタジー1000枚なんてのにビビっている人には聞いただけで卒倒しそーな書き下ろし2647なんてファンタジーが登場、といっても「カラミティナイト」のよーなネット上にアップされている架空の素人(にしては巧い)小説じゃなくって、れっきとした出版物として刊行された本だけに、長さに値し読むに足る中身があるんだろーと考え冲方丁(うぶかた・とう、って読むらしい)さんの「ばいばい、アース」(角川書店、上下各2800円)を購入して早速上巻から読み始める、手が疲れる。

 出生の不明な少女が自分は何物なのかを確かめに試練の旅に出る物語はフォーマットとしては明快なビルドゥングス・ロマンで、ともすれば今さらってな感じを抱かせる可能性もあるけれど、スニーカー大賞でデビューした作者にしては(というのも失礼だけど)しっかりとした世界観を固めた上にいたずらに小難しい文章を使わず、会話ははずみ地の文は分かりやすく流してあってさくさくと読み勧められるのが嬉しい。アリスとかオズとかを取り込んだような人物像、水煤花(さかな)とか時計石(オクロック)とか独特のガジェット回しにルビ使いも凝っていて楽しいし、戦闘シーンの迫力もなかなかで、この調子なら2600枚もの長丁場をちゃんと支え切っているんだろーとの期待を抱く、まだ100ページくらいだけど。まあ2、3日中には読み終えられるだろーから、2001年の良ければベストに入れるかも。

 年末年始になると見栄を張りたいがために誰も読んでない1月1日の新聞用に何かすっげーネタを寄越せと大騒ぎした挙げ句、こぼれたネタが元旦を待たずして新聞紙面を賑わして、暮れもコミケのカタログチェックに忙しい記者(って誰だよ)を裏取りとかに走らせることがあって、何年か前だかにもセガがあれは松下電器だったっけ、いっしょに事業なんかを立ち上げるって話が読売新聞に掲載されて結局はガセに終わった記憶があるけれど、何かと横並びに競争したがる日本の新聞カルチャーには染まっていないはずのニューヨーク・タイムズが、こともあろーに「任天堂がセガ買収」なんて記事を掲載したものだから大騒ぎ。2chのスレッドで見て時事の速報を見て京都に電話してソニックブラザーズとか作るんですかと聞いてみたり、セガに電話して京都弁は勉強してるんですかと訪ねてみたけど残念とゆーか幸いとゆーか任天堂セガも事実無根と完全否定。夢は見られてもあっとゆー間い消えてしまう少女のマッチが如き始末となる。

 これが「ニューヨーク・ポスト」とか「ウィークリー・ワールド・ニューズ」(宇宙人がホワイトハウス尋ねたりする新聞)だったらともかく「ワシントン・ポスト」と並んで世界切ってのエスタブリッシュメント紙「ニューヨーク・タイムズ」だったってことで、信憑性が一気に高まった今回の報道。たとえ両社の全面否定があったとしても、口の減らない業界スズメが山内社長の「弊社がセガ社を買収するという情報は全く誤りであり、弊社がセガ社を買収することは100%ない」とゆーコメントは、だったら「任天堂は買わないと言ってるだけで山内さん個人とか、ニンテンドウ・オブ・アメリカだったら買うかもね」なって言って希望の火をつなぐ可能性もあるけれど、己が名前を掲げて100%なんて言い切っている以上、情報筋とか政府筋とかいった新聞業界お得意の本当は分かってるんだけど体面のためだけに匿名っぽくして責任の所在を曖昧にするコメントとか、前向きに検討だなって本当は気持ちのカケラもないのに正面から否定しないでごまかす政治家のコメントでもあるまいし、言葉通りに買収はない、と受け止めるのが情報の出し手も受け手も人倫に則り天地神明にかけて正しい態度だろー。ホームページでの発表ってあたりが何かと現代的なのはご愛敬、ともかくこれで安心してカタログチェックが出来ます。

 ゲームと言えば27日付け朝刊の「読売新聞」が1面のそれもトップで、大分での一家6人殺しの事件で裁判所が示した犯行に至った理由の中からことさらに映画とかゲームの影響をクローズアップして報道していたのが気に掛かる、ってゆーか気に障る。個人的には映画でもゲームでもまったくもって見た人に影響を与えないとゆーことはないと思っていて、感動的なシーンが人間を感動させるように残酷なシーンも見ている人にやっぱり影響は与えているだろーし、そもそも良い影響ばかりをクローズアップして悪い影響を否定するのは態度としては矛盾してる。ただ良心的とか道徳的とかいった”社会的規範”から逸脱するような映像表現なり文章表現があったとして、それが”社会的規範”から逸脱しているからということを認識させる仕組みがちゃんと機能してさえいれば問題は起こらないと考えている。

 大分の事件に関する審判の報道でも、ほとんとの新聞がそういった幼児期の情操教育とかいった部分での不備を指摘した上で、社会性を育てられなかった心にダイレクトに映画やゲームの暴力的なシーンが刷り込まれてしまった結果、ああいったことになってしまったってな論旨を展開して、表現のみを指弾するような愚を避けている。教育とか家庭内での教えとか、昔だったら当たり前にされていたことが蔑ろにされ、問題がある人がまずあってそこに映画やゲームが悪い影響を与えているってな構造を見過ごしているのか目を瞑っているのか気にとめず、映画やゲームに問題があるから人を悪くするんだってな規制し弾圧する側にまこと都合の良い論旨ばかりが組み立てられて行く。困ったものです。

 それにしても他紙が自覚しているなかで1紙、「読売新聞」だけがことさらに「映画、ゲームの影響」をトップに掲げ見出しでも強調しているのは一体どういった考えがあってのことなんだろー。興味があるのは編集会議とかの中でこれが1面トップになってかつ、ああいった見出しが使われるに至った議論の過程でどんな発現があったかってことになる。正義感にあふれた社会部の純粋真っ直ぐな 主張なのか、それとも教育改悪を推し進める政府に諂(へつら)い阿(おもね)った勢力の激しい主張があってのことなのか。加えるにこういった議論の中で映画でも文学でもゲームでもアートでも、時に反権力になったり反体制になる”表現”を取り扱う文化部のデスクなり部長なり記者なり編集員なり論説委員は、ともすれば”表現”への弾圧につながりかねないかような論旨が1面トップを堂々 と飾ることに果たして抵抗をしたのだろうか。

 それから書評委員でも寄稿者でも、一般に”表現者”として活動している文化人たちは今回の記事に対して何らかのリアクションを起こすのだろうか。”表現活動”をしている映画会社なり出版社なりゲーム会社は活動を批判するものとして広告出稿を見合わせる、なんて態度に出るんだろうか。なんてことをつらつらと考えたけれど、何ってったって世界最大の発行部数を誇る新聞の権力ってのは阿(おもね)るに越したことはない相手、なんで抗議とかなんてことはしないで粛々と、ゆるゆると見過ごしお互いの立場を尊重しつつ何ごともなかったように過ぎて行くことになるんだろー。そーこーしているうちに国会とかでは「読売が書いているよーに」とかって映画やゲームは悪い、ってな主張だけが一人歩きして教育改悪の補強剤として使われて、気が付くと世の中にBR法が施行されて15歳以下は映画館で殺し合いをする羽目に……。21世紀は暗いねえ。


【12月26日】 前のが確か観光地になっていたダンジョンの奥に復活した悪魔かなにかを観光ガイドの姉ちゃんとかバイトの見習い魔導士とか剣士の見習いとかが倒しに行くってな感じのファンタジックな要素に現代風合理主義(なのか)を織りまぜた作品だったよーに記憶してるけど、今回も剣豪どもが大活躍する江戸時代初期を舞台に現代風のキャラクターが現代風の思考回路でもって前代未聞の活躍をして見せる展開で、よくよくハイブリッドってゆーかまぜまぜ棒ってゆーか2つの異なるジャンルをぶつけかき混ぜ1つにまとめる作品が好きな人だなーと、葛西伸哉さんの新刊「小次郎破妖録 エクスカリバー武芸帖」(電撃文庫、570円)を読みながら考える。

 タイトル見れば一目瞭然自明の理とばかりにハイブリッドさが分かるだろーこの小説、なにせ英国で有名な「エクスカリバー」が江戸時代にお馴染みの「武芸帖」を合わさってるんだから押してしるべしってところだろー。でもって小次郎、そうあの宮本武蔵と戦って倒れた燕返しの剣士、佐々木小次郎が登場するこの小説は、冒頭で武蔵と小次郎の巌流島での対決の場面が描かれながらも、なぜか史実に伝えられているよーな遅刻の上に口による挑発で落ちつきを失った小次郎に脳天唐竹割のごとく長尺の木刀を振り下ろして武蔵が小次郎を下すよーにはならず、どこか謎めいた試合を決めた精力への不信感、加えて決闘中に襲って来た謎の生き物への関心が2人を命すり減らすまで戦わせることなく、とりあえずは様子を見ようってことで武蔵が買ったことになって小次郎は表舞台から姿を消してゲリラ戦よろしく謎の精力と対峙する。

 ってな感じで後は予想どーりにアーサー王の遺産「エクスカリバー」を何故か日本でそれも河原で拾って受け継いだ小次郎が、エクスカリバーを狙う南蛮渡来の怪物たちと戦う展開になっていくんだけど、伝奇にある荒唐無稽さに似た楽しさを味わいながらも、剣豪の道みたいな物も武蔵の口とか小次郎の学んで来たこととかから語られて、それなりに勉強の糧になる。とにかく小次郎に長尺の西洋の剣、「エクスカリバー」を持たせようって発想の素直なんだけど実現には理性が邪魔して至らなそーな困難さをやすやすと乗り越えてしまって、小次郎が諸刃の剣を下へ上へと振り回す場面の案外なハマりっぷりを頭に描きながら本編の方も楽しめる。悪い癖か続編を推察されるよーな終わり方をしてあって、これで続編が決まらなかったらちょと恥ずかしいかも、とかとも思ったけれどせっかくの日本人には馴染みの薄いアーサー王伝説の輸入と加工をやってくれている訳だから、知らないなりに成り行きを見ていこー。

 続編を推察するどころかあって当然なのが「定説」であり教義でもあった火浦功さんの「未来放浪ガルディーン」だけど、2巻の巻末の座談会から幾星霜、よーやく今世紀中に完成した「未来放浪春ディーン3 大豪快」(角川スニーカー文庫、540円)に関していえば、続編は当然だとしても一方で本当に出るのか出ないよな出るわけないじゃん的あきらめにも似た慈愛の気持ちをもって今世紀も終わるんだと諦めていたところに、奥付こそ2001年1月1日ながら実質的は20世紀中の刊行を成し遂げた訳で、やはり偉いことなんだと納得すべきなんだろー。どうせなんで小説尾の1と2も大人買いしてとりあえずストレートな内容だけはたどれる状況になったけど、過去にあまたの本が刊行されては消えていった中で、未だに爆発はしてないけれど関心は抱かれ続けている火浦功さんの本がちゃんと新刊として書店で買える現実を見るにつけ、案外とまだまだしつこく根深く火浦さんのファンが居てかつ広がっているってことなんだろー。偉大なり火浦功、ガンバレ僕らの火浦功、でももうちょっとたくさん書こうよ小説。


【12月25日】 えっと73ページ。「ケンだ。地下道に逃げた炎人から仲間たちを救うために、ケンが爆薬を使ったのではないか」ってあるけど炎人って逃げたんだっけ? ってのがひっかかったのはさておいて、浅暮三文さんの3冊目の本「夜聖の少年」(徳間書店、705円)は、ファンタジーからハードボイルドを経て今度はヤングアダルトとゆー幅の広さ筆の達者さを見せてくれる。遺伝子レベルで管理させるよーになった都市からドロップアウトして地下に暮らす少年たち少女たちの中の1人、カオルはある時謎の巨人と出会い自分をパパと呼ぶその巨人を連れて帰る。地上からは追手がかかり地下の少年たちは大混乱に陥るが、そんな中でカオルは巨人の正体と自分の出生の秘密を知り、都市全体の謎へとせまり新しい世界を築き上げるために大きな1歩を踏み出す。

 管理された都市への挑戦、とゆーのは過去にも数多く見た光景だけど少年の正体に関した仕掛けとか、都市機能を維持する上で行う遺伝子的な操作とかいったギミックは結構凝っていて、分厚いなりに謎が解き明かされていく冒険物語的な興奮を味わえる。人間の本来が理性的なのか野性的なのかってな問いかけなんかも含めて、生命が持つバイタリティーなんかを考えさせてくれるって意味で深さもあって、人間の未来をうかがう上で1つのビジョンになりえる本格度の高いSF作品だと言えそー。少年の下半身的な成長ってのもヤングアダルトな器にしてはリアル。これはやっぱり電撃でもスニーカーでもファンタジアでもない「デュアル文庫」とゆー器ならではの利得かも。橋本晋さんの描く繊細な少年少女の姿と炎人に巨人の迫力の姿もなかなか、とくに表紙の巨人の背中にはパワーと哀愁が漂ってる。良い仕事です。

 管理社会への反抗、って意味ではずいぶんと先輩にあたる藤原カムイさんの「H2Oimage」ソニー・マガジンズの凍結版第3巻をもって完結。「H2O」の頃から数えるとえっと17年とか18年? 「image」の第1巻からでも16年なんて月日が流れてその間にスコラからソニー・マガジンズと出版社を変え中身も少しづつ変わって描き継がれて来た作品だけに感慨もひとしお。付き合って来た我が身の変貌の度合いのすさまじさに呆れつつ、デビュー当時から端正だった藤原さんの絵の凄さ巧さ素晴らしさを改めて痛感する。ストレートなエクソダスの物語が過去現在未来と移動し過去のシチュエーションがリミックスされて感動のエンディングへと向かう第3巻。解放された世界でやっぱりメイムは女王的な役割を果たすことになんるだろーけれど、管理された世界でただ機械のように使われるんじゃなく、自分の意志で人々を導くことになる点で人間の段階として1つ進んだんだと見るべきなんだろー。立ち止まり、繰り返す安寧よりも立ち上がり、前進する困難さがその先にある希望への扉を開く鍵なのだ。なんつってな。

 ベッツィの等身大が欲しいとか思う昨今。似た体系似た顔の人に人民服着せてベッツィよばわりしてやるか。第3巻の巻末の同人誌向けに描かれたとゆー「A MIDSUMMER NIGHT’ DREAM」ってちゃんとした大きさのを何かで呼んだ記憶があるんだけど何に収録されてたんだったっけ。白夜書房から出た単行本の確か3冊って実家にはちゃんとあるけど東京でも古本屋じゃとんと見かけなくないんで確認のしよーがないんだよなー。もしかして凄い値段とか付いてんだろーか、同じ白夜シリーズの「ワインカラー物語」は最近「ebookoff」で2冊ばかり救出したんでかがみあきらさんのファンに見せて自慢できるんだけど。でも2冊でた遺稿集とか「ワンダートレック」とか笠倉から出た原画集は実家にあるだけなんで改めてどっかで見つけたいところ。「ワンダートレック」はそうそう佐倉の京成の駅のそばにある古本屋で2冊ばかりみかけたっけ、暇みて救出に行こーかな。


【12月24日】 ヤングアダルトって時折キャラクター小説とも言われることがあるけれど、どうであってもキャラが立ってなきゃってことで、1本通した結構ハードなネタの上に無理目に美少女キャラをか立ち上げたた結果、何だかバランスが悪くなってしまうケースもないでもない。勿論人によっては爆裂したキャラをしっかり立てながらも背後で流れる壮大稀有だったり吃驚仰天だったりする仕掛けをちゃんと分からせるチカラワザに長けた人もいるから難しいところで、結局のところは当たり前ながらも物語屋さんとしての腕前にかかって来るんだろー。ってことで読んだ都筑由浩さんの「レディ・スクウォッター」(電撃文庫、570円)は、小惑星帯で遭難して奥さんを謎の兵器に殺された旦那が娘とかろうじて逃げ出すエピソードをプロローグに幕を開けたのは良いものの、本編に入ると話は一変して難破船を巡るツアーが盛んになっているご時世、中小ながらも定評の旅行会社が仕組んだツアーのために先遣隊が難破船を探索する場面が描かれる。

 表紙には美少女でタイトルにはレディ。帯には「その難破宇宙船には主所と悪魔が待っていた。」なんてあってそーかここで船員たちが出逢った少女がヒロインとして悪魔と戦うなり、悪魔として襲って来るんだろーと思って読んでいたけど、難破船にいた少女はどうやら悪魔を追いかけ続けるハンターって訳ではなさそーで、むしろもうちょっとプライベートなことでもって難破船へとやて来ていたらしく、そこで遭遇した悪魔に対して獅子奮迅の活躍を見せてくれる訳でもなく、探索に来ていた旅行会社の先遣隊のパイロットたちの勇気ある行動の陰に隠れてどちらかと言えば助けられる側に回ってる。悪魔の方は人類にとって最悪の存在だったことが明らかになって、その何とも不思議で不気味な習性をいかに逆手にとって倒すかってなSF的にも興味深いテーマが本編のメインになっている感もあって、そんな流れに少女の存在がどうにもうまく絡んで来ない。

 最悪の怪物と人間との頭脳プレーを軸に男たちの因縁とかを絡めて描けば硬派なSFにもなり得たところに、主役の少女をハメ込んだため目線がズレてしまうよーな読後感があって結構戸惑う。あるいは少女の親思い家族思いの気持ちを中心軸に据えつつ周囲で巻き起こる人類の危機に巻き込まれ立ち上がり因縁これありな男たちも絡んで一大バトルへと発展していくよーな流れがあったらもっとすんなり腑に落ちたかも。アイディアてんこ盛りで1つひとつ浚っていけばそれぞれに楽しめることも事実だし、ラストの続きがありそーなエピローグなんかも含めてシリーズの幕開けを飾る1冊まるごとプロローグなんだと思って読めばそれほど違和感もない。家族との柵もはずれて自由になったお転婆スクウォッターがこれからどんな活躍を見せてくれるのか、ってな興味を抱きつつ期して次を待とう。出るかな?

 ラムが来てテンちゃんが来てレイが来てランちゃんが来てチェリーが増えてサクラが増えて面堂が加わって竜之介が加わって、魎呼が現れて阿重霞がやって来て砂沙美が尋ねて来て美星に清音が落ちて来て鷲羽が入り込んで、ほかにも山ほどのキャラクターが積み重なっていく「同居物」の鉄則を護ってくれて有り難うと御礼を言おう「タツモリ家の食卓3 対エイリアン部隊」(古橋秀之、550円)は、皇女バルシシア殿下の乙女心にスポットの当てられた全巻から一転して新たなファクターが加わり地球の立場はさらに一段とフクザツに。とはえいそこは人間が出来ているのか龍守忠介、ジロウマルともども「わははははは」と笑ってノープロブレムとばかりにすべてを受け入れる度量の広さってゆーか考えてなさを見せてくれて、これも全てをありのままに受け入れる過去の「同居物」におけるヒーローの鉄則を堅守している。素晴らしい。

 ペットボトルの中に入って冷蔵庫でひえひえになっているのが好きらしいおじゃる丸風博士の登場だけならまだしも、キリリとした眉毛が立派な自衛官の倉本ちゃんとか得体の知れなさではジェダダスターツ以上かもしれないゼララステラも含むバルシシアの船”突撃丸”に一行とか、もうくんずほぐれつの状況にさてはてこれから一体どんな「終わらない非日常」が描かれるんだろーかと期待して読んだ後書きによれば、ちがう小説も書くので次巻はかなり先になってしまうとか。「いったいどこの仕事をするんだにょ」とミネさん目からビームで脅しをかけてるんだろーけど、「タツモリ」以外の小説も読んでみたい気も一方にはでっかくあって気持ちとしては揺れるところ。「両方いっしょに書くにゅ」と目からヘンなものを出してお願いした気もあるけれど、荒れても仕方がないんでまあそこは適当にかわしつつ良い話を書いて読ませてやって下さいな。「ソリッドファイター2」なんかもコッソリと。

 クリスマス・イブなんで「東京都現代美術館」へカップルを見に行く、ちょっとだけいたけど流石に東京のお洒落なカップルは木場なんかで現代アートは見てねえなあ。20世紀の掉尾と21世紀の幕開けを飾る企画だけあって「ギフト・オブ・ホープ 21世紀アーティストの冒険」は、「SFマガジン」では紹介出来なかったけどアートの世界ではやっぱりしっかり注目されてる八谷和彦さんにヤノベケンジさんも含めた日本とアジアの何人かが、それぞれに今を伺わせる作品を並べてる。残念ながら八谷さんがしばらくずっと取り組んでいるジェットエンジン付きボード「エアボード」のプロジェクトは23日に公開実験が行われたばっかりで爆音奏でている姿は見られなかったけど、1月にも27日に公開実験があるみたいなんで21世紀最初の大イベントとして見に行こう。28日にもソニービルでエンジン噴射の公開があるらしーけど詳しいことは不明、まあ仕事納めで暇なんでブラブラと銀座に行ったら眺めてみよー。

 放射能防護服の「アトムスーツ」のミニチュアが部屋を埋め尽くすヤノベケンジさんのインスタレーションは自然放射線を受け電子音が鳴りランプが明滅して、見ていると自分がいる場所がヤバい所に思えて来る。ゲンパツ帰りな奴を連れていってガーガーピーピーやったら楽しいかも、あるいは原子力エンジン積んで歩いているサイボーグとか。カウンターアートで有名な宮島達男さんのこっちはジャーナリスティックな面もある「柿の木プロジェクト」は折り紙で柿の木と葉っぱを作らせてくれるけど折り紙下手なんでパス。壁の絵に自由にクレヨンで色を塗って良い山出淳也さんのプロジェクトは落書きしている奴等が大勢いて黒い描線の中を綺麗に塗れず日本人のアート心の無さがちょぴり腹立たしくもなったけど、枠に収まらずアートの権威をなで斬りにする自由さ傍若無人さもまた取り柄だと思えば良いのかも。せっかくなんで自動販売機の部分を適当に塗り分けてくと楽しくなって結構ハマる。上の方に塗られてない部分があったんで背の高い人脚が伸びる人は是非。

 タイから来たスラシ・クソンウォンって人はタイの100円ショップで売られているよーな雑貨類生活用品類を飾りたててぶら下げるインスタレーションを展示。来場者は自由に1つだけ持ち帰れるよーになっていて、荷物入れ代わりにプラスチックの駕篭なんかをもって行く人が結構居たりしてアートなのに役に立つ辺りが面白い。ここからはインチキっぽい中国製の「セーラームーン」もどきなお面を拝領、別に「ちびうさ」もどきなピンク頭の少女のお面もあったけど1人1品なんで今度行った時にゲットしよー。パチもん「ピカチュウ」や「ウルトラマン」や「クレヨンしんちゃん」のお面もあったぞ。他にも手紙を書いて置いておく作品とか、来場者とのコミュニケーションがあって始めて成立する作品が結構な率あったのが特徴で、コミュニケーション無き世にアートとゆー仕掛けを通して何かとコミットする面白さ、不思議さを味わってもらおうって思想が浮かび上がっているのかも。1人で行っても楽しめる、まことクリスマス・イブに相応しい展覧会でありました、はふー。

 紋切り型の議論やら老人性憂国症の発生率の高さなんかが評判の悪さを呼んでいる現コラムニスト子による「天声人語」は年の瀬が迫っても相変わらずのへっぽこぶり。国民教育会議が教育基本法を変えようと言っていることへの牽制でその主張自体に異論は全然ないんだけど、結語の部分で変えようと政府とかが言っている教育基本法がどういったものか、でもって国民教育会議での議論がどんなものかを政府は国民全体に伝えなくっちゃいけないと言っていて、「首相官邸のホームページからたどることはできるが、パソコンが必要だ」とまずパソコン偏重な世の中へのデジタルデバイト懸念を指摘、それもまあ相変わらずの意見で分からないこともないとして、気になったは以下の部分「国民に、法律や国民会議の議論を記した資料を配る。政府はそこから始めるべきだろう」という部分。んなこたぁ新聞がやれよ。

 「全部で十一条しかない。中身は濃厚だが、目を通す程度ならあまり時間はかからない」よーな教育基本法なら新聞の自社物な企画を外せば全文だって掲載できるし、儲かってしょうがない全面広告を1回休むくらいのジャーナリスティックな気概があれば国民会議の全文だって掲載できる。政府がやらないって批判する前に、あまねく市民に政府の情報を「知る権利」の代弁者として伝えるのが新聞の義務では責任じゃん、とか思ったけれど現代の商業新聞に1000万円とか2000万円とかする全面広告を休むだけの矜持があるはずもないし、伊能なんとかってな日本を歩き回るだけの企画とかを外しても、国民会議の提言を全部載せた上で議論をふっかけるよーな甲斐性はない。あるいは提言のマズい部分だけを抜き書きして叩いていたことが全文掲載なんかしたらバレてしまうのが嫌なのかも。もちろん政府が率先してやるに越したことはないけれど、自分たちでもやれる力を持ちながらも他人事のように言ってのける新聞の「中立性」の嫌らしさが見えたよーで、穏やかであるべきクリスマス・イブに思わず反応してしまった次第、人間なかなか成長しません。


【12月23日】 1923年の関東大震災と1945年の東京大空襲の2回、東京は徹底的に破壊されながらも今なお世界最大規模の都市として威容を誇っているこの現実を目の当たりにすると、景気がどうとか教育がどうとか政治がどうとかいった細かい話な抜きにして、やっぱり日本人のバイタリティーってすげえよなあ、とか思ってしまったのは20世紀遺産出没記録も年末大詰めの今日になって実現した「東京タワーから東京の街を睥睨しよーツアー」で東京タワーから東京の途切れない街並みを見おろした時のこと。遠くのぞむ新宿の高層ビル群はマンハッタンもかくやと思わせるくらいの存在感をもって増殖を続けているし、ご近所では愛宕山にガウディのサグラダ・ファミリアとまではいかなまでも不思議なツインタワーが建ちつつある。海を見れば防波堤越しに緋色の帆を掲げた都市が停泊してるのが見えたんです。晴海に品川と並び始めたビル群の間の新橋にも数年のうちににょきにょきとビルが建ち並ぶ。

 そりゃ需要もないのにバンバンとおっ建てて挙げ句に倒産なんて可能性も心配してしまうくらい昨今の経済事情から考えると無茶してるのは分かるし、新しい物が建つ陰で古い街並み懐かしい建物が壊されていくのも残念っちゃー残念。けど100年前の東京だって200年前の東京とはまるで違った街だった訳だし、それだってこの100年の間に2度も破壊し尽くされた訳で、今さら懐かしむのもどうだろうって気にならないでもない。妥協なんかしないで徹底的に改良し改造し続ける執着心をむしろ日本人の特質だと思うなら、それが都市という対象で発現したのが東京って街だと言って言えないだろうか言えないか。赤坂見附方面にもにょきにょきと建つ新ビル群のさらに向こう、国会議事堂の奥に広がる緑の宮城だけが200年の昔から変わらず緑のままってあたりがなかなかに興味深い。徹底的に壊す一方で徹底的に護るこの裏表での突出ぶりもまた、保守と革新が並立し得る日本人のバイタリティーの源泉なのかも。

 しかし東京方面へと出てきて10余年、初めて上った東京タワーの特別展望台はやっぱり高かった。150メートルの展望台でも結構な高さにあると思ったけど、順番待ちして何杯目かのエレベーターで上に上がった途端に広がる霞むような全景に、後で下に降りた時に見た街並みが偉く大きく見えた。「サンシャイン60」の上からの展望がどれくらいなのかは知らないけれど、おそらくは東京で1番高い場所からの光景ってことになるんだろー。だからこそ20世紀を振り返る行脚で東京って街を考える場所として選んで行ったんだけど。大半が家族連れで東京タワーが未だに人気の観光スポットであることを確認、海外の主にアジア方面からも結構来てたみたいだけど、最初に830円で特別展望台に600円必要な料金を果たしてどう思ったか。上海のテレビ塔は93年に行った時には建設中で上れなかったんで値段とか知らないんだよね。あと23日ってこともあって明日がクリスマス・イブってこともあってカップルもチラチラと見かけて悔しいこと憎らしいこと。だからといって逆に見せつけるような真似が出来るだけの甲斐性もなく、空しく1人デジカメを自分に向けて遠く東京の街を望む哀愁の横顔を撮るのであった。明日は20世紀最後のクリスマスの風景でも見物に行くか、もちろんん1人でな

 あれは小学校の3年生の夏休みも終わりに近い8月30日、何人かの同級生とその家族が連れ立って三重県の賢島へと遊びに行った日の夕方だったかな、ニュースだか新聞だかででかでかと報道されていたのを見たように覚えている。その詳しい意味を知ったのは多分もうちょっと後のことになるんだろうけれど、それでも過激派なる人たちが日本とゆー国にたてついてあれやこれややっているんだってことは認識していて、新聞テレビで見た事件もその1つなんだと感づいていたように思う。マセたガキだぜ。20世紀の1瞬を華々しくも騒がせた運動の余波が悲惨な形で出た三菱重工ビル爆破事件の現場を、実はしょっちゅう通ってはいるんだけど改めて見物に行ってちょっと吃驚、20世紀の終わりを祝うミレナリオってイベントの飾り付けが、あのガラスが飛び散って何人もの人がうずくまっていた通りを埋め付くしているのは良いとしても、日帝の牙城なんて指弾されたあのビルの1階に、こともあろーに米帝な奴らが好んで着てそーな「ブルックス・ブラザーズ」のショップが登場していて、時代の流れる速さなんかをひしひしと感じる。

 中には「スターバックスコーヒー」も入っていたりして、これが殖産工業の時代から日本を支えて来た企業の本丸なんだろーかといった感じ。世界制覇を目論む米帝の尖兵が幾つも巣くったビルの現状を見るにつけ、かつてあれを日本による世界侵略の象徴と見て破壊しよーとした人たちは、一体何を思うんだろーかと考えてみたけど、今どきそんな感覚でいたら、目を上げれば1件2件は楽に目に入る「マクドナルド」の看板やコンビニ並の速度で増殖している「スターバックス」に引きつけを起こして家から一歩も出られない。引退を表明したエンセン井上じゃないけど大和魂ライクな奴らもマクドにスタバの前で街宣車ならしたって話は聞かないし、ここにも保守と革新を両立させ得る日本人の不思議に素敵な感性が働いているのかもしれない。ところで「ポパイ」とか村上春樹さんが散々祭り上げてはいたけれどこの「ブルックス・ブラザーズ」、最近はデパートの中とか銀座の商店街とかいろいろな所に店を出しててあんまり有り難みがなくなって来てるんだけど、本当にアメリカでも高級紳士服屋さんなんだろーか。アメリカじゃあ存外とそこいらあたりによーけある紳士服量販店の1つで別にテナントで入ったからといって騒ぐよーなものではないのかなあ。

 神田神保町へと回って早売りの店で「SFマガジン」の2001年2月号を買って帰ったら届いてた。うーんまさか発売日前に届くとは。「21世紀のキイパースン」って企画で国内編100人のうちの9人ばかりを担当したんだけど小説な人は他の人が担当していて当方は主にマンガ家とイラストレーターを担当、追加発注で2人ばかり小説な人を受け持ったけど、マンガ家の紹介なんかあんまりやったことがないんでちょっと緊張しました今もしてます素っ頓狂なことかいてないかって。ほかにも何人かマンガ家を担当した人がいて選ばれたセレクトを見て「アフタヌーン」作家陣の多さにちょっと偏ってるかな、ってな気も。仕方がないし趣味だって言えばそーなんだけど、 たとえば集英社系とか白泉社系とかアスペクト系にも手を広げたかったとちょっとだけ心残り。それでも内藤泰弘さん柳原望さん入れられたから良いか。アート系がまるっきり落ちてしまったのも残 念なところで、例えば八谷和彦さんとか、明和電機とかヤノベケンジさんとか紹介したかったけどマンガ家よりも趣味が偏りそうだし一般性もより薄くなるんで今回は除外。次ぎは100年後になっちゃうんで担当させてもらえるよーならその時に頑張ります。まあ生きちゃいないけど。


【12月22日】 やっぱり演歌はシンミリだよね、って訳でもないんだろーけど東城和実さんの変身ヒーローvsローカル秘密結社の隠微なバトルを描いた「黒いチューリップ」シリーズ最新刊「愛と死をみつめて」(新書館、520円)はタイトルからしてシンミリだし、内容についてもいつものよーな天下無敵脱力限界なギャグは形をひそめて、読んでなかなかに気持ちが滅入る、じゃなくってホロリとさせられる話ばかりが入っている。「黒いチューリップ」に変身する圭介をねらう悪の秘密結社「黒い真珠」の総帥・八巻がなぜか体を悪くして寝込んでいて、病床でひたすらに圭介を思う話とか、刺客として送り込まれたロボットが、なぜか圭介の面倒を見倒した挙げ句に自爆の道を選ぶという話とか、やっぱり刺客として送り込まれた忍者(?)が実は悲惨な境遇に育ってその恨みをぶつけていた話とか、並べるとホント暗くなる、じゃない気持ちが落ちつく。

 とはいえそこは東城和実、主旋律こそマイナーながらも要所要所にトテチテターな笑いもしのびこませてあるから冬至前後の夜長を布団にくるまって泣きながら明かすよーなことはしなくても済む、と思うけどでもなあ、やっぱり暗いなあ。どーやら美貌の八巻は見かけほど若くはなさそーだってことが分かったけれど、いったいどんな秘密があるんだろー。まあ秘密があったところで現実問題、圭介への愛情に代わりがない以上は展開にたいした影響があるとも思えないんだけど。むしろ6巻にも及ぶ東城さんにしては大著となったシリーズに必要なのは、半ば吉本新喜劇化ともてんぷく劇場化とも言えるよーな固定キャラたちによるシチュエーションコメディを是とし続けるのかここで大きくひっくり返してみるかの判断で、興味はどっちにもあるけれど、ハッキリして欲しいなって気もしないでもない。せめて圭介と八巻の間に、もうちょっと込み入った事情でも明示されれば関心を持って読んで行けるんだけど。期待期待。

 糸井重里さんにメンチ切りに行く。揚げたての衣を割ってジューシーな肉汁がジュワッと……ってメンチカツ切りに行ったんじゃありません、ってのはちょっとベタ過ぎか。まあ良い所詮はその程度のギャグセンスと笑って頂くこととして、実は多分初対面だったりする生イトイさんはスリムで脚細くって若っぽくってとても聞いているよーな歳には見えなくって吃驚。例の「インターネット博覧会」、人読んで「インパク」の玄関口サイトにあたる「インパク編集部」で来年1月の編集長を担当する関係で、まーじきに(もう少しに)迫ったオープンに向けて連日連夜のコンテンツ作り込み作業に追われているにも関わらず、どんよりともまんじりともせず「インパクプレスレビュー」に集まった記者諸氏を前に壇上でも自席でもしっかりと受け答えをして、ネットとか「インパク」への考え方やら期待やらを当意即妙に話してくれた。なるほどこれは「インパク」が頼る訳だわ。

 まず編集部の方針として挙げたのが「混沌を作り出す」ってことで、知らない人が聞くと「破壊工作か?」なんて思いかねない刺激的な言葉を繰り出すことで関心を引き出しグッと掴む。でもってそこから「混沌」の意味することを語り始めて、ネットはテレビでありラジオであり雑誌でありといった具合に「いろいろな方向があるんだということを見せる場所を作る」んだと言ってネットの可能性を指摘。さらに具体的な方向性を指し示すんじゃなくって「山川あっちこっち」という曖昧だけれど何となく意味の通じる糸井さんらしい表現で、「何が出てくるか分からない」ドットの集合をネット上に作るんだってことを話して締める。浮かんで来るのはいろいろなものが混然一体となったネット空間に向けて開かれた「窓」ってなイメージで、ネットの特性を的確に踏まえた状況を、「インパク」とゆー枠組みの中に具現化してみせよーとしていることが伺える。

 本質を掴んだ上で一般の人が興味を持つような表現で分かりやすく語ってみせつつプラスアルファでプロな人の関心も引く、ってなテクニックなのか本能なのかは不明だけれど高度に洗練されたプレゼンの神髄を見せられたよーに感じて、とてつもない大昔にNHKで「YOU」を見ていた時から今に至るまで一線で活躍し続けている、その理由の一端を垣間見る。メディアとかネットに関しての認識も例えば「他のメディアとつながらないことには成功しないし、メディアどうしがリンクすることだって必要。1年のなかでそんな練習を積み重ねていこう」と会社別にあまりに孤立しているメディアの悪い部分を突いてみたり、「ネットで出来ることが増えていくと、今度は止めることの知性が語られるようになる。テレビって受け身のメディアでスイッチを切ることに抵抗感はないけど、ネットは前のめりになってやめるのが難しい。寝るのも自分の判断。そこが少し問題になっていくんじゃないのかなあ」と、ネットやっている人には当たり前でも知らない人にはストンと落ちるネットの功罪を分かりやすく説明してみたりと漏れも隙もない。

 疑問なのはそこまで分かっている人が、どーして政府主導とゆーあんまりネット的じゃないイベントの先陣を斬り先頭に立って旗を振ってるんだろーってことになる。コンテンツが大事だとは良いながらもその実政府のパビリオンにしたって関連団体のパビリオンにしたって企業のパビリオンにしたって、彼ら当事者にとっては意義があることなのかもしれないけれど、見る側にとっては必要でもなければ楽しめる訳でもないコンテンツが並んでいるよーな状況だったりする。どこにいたって誰だって情報にアクセスができるのがネットの良さなのに、沖縄とか明石とかでオープニングイベントをやるから家で炬燵に入って蜜柑食べながらパソコンで見てねそれがネットっぽいじゃんと言わずに沖縄や明石まで取材に来いと言ってしまえる「インパク」指導部って……。フラッシュだとかJAVAだとか使いまくりでグラフィック満載な、現況のネット環境、パソコン環境ではちょっと厳しいかもしれないパビリオンばかりが並びそうな予感もあって、だからなんだそれがどうしたってな認識しか現時点では湧いてこない。関わっている人でもネットに長けた人ならきっと同じよーな印象は抱いているだろー。

 にも関わらず大挙して文化な人スポーツな人音楽な人ランディな人が協力するこの不思議。まあものは考え方で政府には例えば光ファイバーを土建屋的に引きたいって思惑があったとしても、そこにつけ入ってコンテンツの方にも資金なり人材なり関心なりを向けてもらって、不思議なコンテンツをたくさん作ってネット上に放り出してしまうタクラミがあるのかもしれない。「サイゾー」の新しい号でも山形浩生さんが指摘していたよーに、とてつもな金額が動いているはずななのにそれがネットのどこに言ってしまうのか、あるいは本当に打ち合わせの場代にとられているのかもしれないけれど、おこぼれでも結構な額になることを見越してそれでネット的なイベントなりコンテンツを生み出そうとしているのかもしれない。本当のところは知らないし、あるいは心底堺屋さんの言葉、政府の思いに共鳴して誰も彼もが協力を申し出ているのかもしれないけれど、始まってもいない今から判断することはやっぱり難しい。とにかく1月、スタートしてコンテンツが積み重なっていった挙げ句にいったいどんなネット空間がそこに出来上がっているのかに今は注目している。炬燵はないけど布団に寝ながらラップトップでカンサツしてまーす。

 糸井さんに初対面らしからぬ挨拶をしてから戻って仕事とかして帰宅して読書、日本ファンタジーノベル大賞の優秀賞を受賞した「仮想の騎士」(斉藤直子、新潮社、1400円)はルイ15世の治世下で女装の騎士が対ソ諜報とかに活躍する話で始まったと思ったら、カサノヴァが絡みサン・ジェルマン伯爵が絡みポンパドゥール夫人が絡みといった具合にフランス宮廷大忙しな展開になって、その割には話に厚みが出たかとゆーと平明に女装した騎士、デオン・ド・ボーモンの活躍と苦難が中心に語られるばかりで、ハラハラするよーな陰謀もドキドキするよーな活劇もワクワクするよーな恋愛もなく進んで行く。でもって最後は逆転1発芸みたいなものがあって、なるほどだから「仮想の騎士か」と納得させられる1段落ちで終わっている。

 あるいはもう少し複雑に折り重なったメタ的な構造があるのかもしれないけれど、一読した感じでは「ファンタジーノベル大賞」につきもののねじくれた濃さが少ないよーに見える。つまりはどーゆー理由で受賞したのか分かりにくいってこと。張り子の寅ならそれっぽさをもっと打ち出してドン・キホーテぶりを笑うよーにすれば風刺も聞いただろーし、稀代の歴史的人物をそろえているんだからそれぞれに物語を重ねて紡げば壮大な歴史活劇になったかもしれない。オカルトに宗教を混ぜればそれはそれで純文学に近づく可能性もあったのに、どこか中途半端なまま投げ出してあるよーに感じるんだけど、こーゆーサラリ感がそれともファンタジックな空虚さを醸し出しているんだろーか。1読では評価しづら1冊、2読しても変わるかなあ。


【12月21日】 佐藤史生さん、といえば「ワン・ゼロ」くらいしか読んだことがなくって割と繊細なタッチで深淵な話を描く人、ってな先入観があったけど、新しく出た「魔術師さがし」(小学館、505円)を読んでその、竹宮恵子さんほど漫画マンガしてはないけれど、割とマンガチックなキャラクターにちょっぴりお笑いっぽさも入っていたりする展開にこんな人だったっけと驚きつつも、併録されている88年の「まるたの女」って作品でもタッチこそ繊細ながらもギャグっぽい部分もあったりするのを見るにつけ、もともとそーゆー人だったのかもしれないと感じる、でもやっぱりちょっと不思議な感じ。

 どっかの島に魔術師が集められていなくなった大魔術師を探してくれと頼まれて、不思議な生き物がうごめく島にパーティー組んで探しに出るって話で、聞くとファンタジーっぽいけど途中からだんだんと様子が変わって行き、突然そこが実はってな場所だったことが明かされるにつけて、なるほどこいつはしっかりSFで、それもまさしくITな現代に相応しい内容だったってことが分かって流石は佐藤さんだと改めてその作家性に敬服する。知性の問題とか肉体の問題とかエージェントの問題とかつきつめれば深く哲学的でありまた科学的な議論も繰り広げられただろーけど、込み入った説明どころか話自体の導入部の唐突ぶりもこれありで、無駄な説明を省いて主題だけを切り出した感があって最初は結構とまどうし、終わり方もやっぱり唐突。読み直して突き詰めて考えて改めて面白さが分かる作品なのかもしれない。しかし佐藤さんて漫画家さんとして、画力はどのあたりにある人なんだろー。いやなに「魔術師をさがして」、ちょっと不思議な絵が多いもんで。

 とりあえず買ってみた花田紀凱編集長の宣伝会議初仕事? になる「映画館へ!」(別冊ブレーン、838円)は、おすぎさん吉田真由美さんの相変わらずな毒舌合戦は良いとしても130ページある本体のおおよそ4割強を「女子大生・OL100人 20世紀私がいちばん感動した映画」ってコーナーにあてられていて、それはまあ企画としてはありがちなのかもしれないけれど、公務員の砂山なんとか31歳とか会社員の杉本だれそれ27歳とか出版社の石村どうこう32歳とか、あまりに引っかかり所の少ないカタガキ姓名年齢の人が好き勝手に好きな映画を挙げては決して短くはない「イチ押し理由」を述べていく展開の、どうにもつかみ所のなさにはちょっと参る。自分の興味のある映画について話してくれている場合はそれが切り口になって読もうって気になるんだけど、そうでない場合、会社員が公務員がフリーライターでも、書いている人の名前が全然フックになってくれないんだよね。

 あるいは1人の意見ですべて一気通観されているなら傾向と対策めいたものが見えて面白い人には面白いかもしれないし、作品ジャンルの違いによる括りとか、俳優で選んだとか女優が良かったとかいった内容面での括りとかいった分類が行われた上での配列だったら読み手の気持ちに強弱が伝わったかもしれないけれど、アトランダムに選ばれた人によるアトランダムな映画のアトランダムな意見がアトランダムに並んでいるだけのページを50ページ近く読まされるのはちょっとキツい。年代別にすら並んでないし。まあ無名性についてはネットの上にあるさまざまな意見も同類なところかあって、女性だからとか若いからとかヘンな仕事に就いているからといったフックの部分がとっかかりになるケースはあるけれど、雑誌というオールドなメディアでこーゆー途方の暮れ方をさせられるのもちょっと珍しいかも。2000年の「雑誌企画どうせいっちゅうんじゃ大賞」に決定。関係ないけど「幻魔大戦」を挙げた会社員・瀬戸口歩さん(29)、あなただけは讃えます。

 1年を20日で暮らすいい男、だったっけ。かつて年に2回しか場所のなかった大相撲の力士が確かそんな呼ばれ方をしていたよーに聞いたことがあるけれど、なんだかんだと話題の日本のラグビーって社会人だとリーグ戦が7試合くらいしかなくって、それに日本選手権なんかを乗せても20試合には多分届かない試合数ですべてが決着してしまうらしく、その意味でいくとラガーマンたちは大相撲の力士よりもいい男、ってことになるんだろーか。もちろん練習の時間とか企業人でもあるんだから仕事の時間とかが背景にあるのは分かるけど、選手としては何をおいても真剣な試合がすべてであって、モチベーションもスキルもすべては緊張感のある真剣勝負の上で磨かれるんだとしたら、やっぱりちょっと少ないよーな気がする。ってなことを感じている人がやっぱり多かったってことが、日本ラグビー狂会編著の「ラグビークライシス」(双葉社、1400円)って本の中で指摘されていて、読んでなかなかに考えさせられる。

 ほかにも平尾代表監督についての意見とか、あれほど活躍が期待されていたのにこの数年とんとご無沙汰だった元明大元伊勢丹な吉田義人さんの声とか元青学元神戸製鋼な岩淵さんの声とか元神戸製鋼の村田亙さんの声とか社会人チームの内外のコーチ監督の声とかが収録されていて、ラモス水沼があの場面で無理に使ったらかえって失礼じゃないかと思えるよーなカズの起用を可哀想だから的同情のニュアンスを込めつつ喋っていたサッカーの世界以上に、ラグビーの世界が抱える問題の多さがにじみ出てくる。なるほど平尾監督は選手としては実績は残していても神戸製鋼を指導者として率いていた時はどーだったのか、ってな問題を指摘する声もあって、それは選手平尾なき神戸製鋼をそれ依然と比べることの難しさと裏腹だったりもするけれど、実績があってなんぼの世界でやっぱり学閥が働いたのかと勘ぐられる可能性も否定できないだけに、批判も擁護も難しい。言えることはこーゆー意見がサッカーほどに語られる機会や場があまりないよーに見えることで、相変わらず花園だ早明戦だ日本選手権だと言えば新聞は書き立て客は集まる”人気ぶり”を維持しているこの現実を前にして、世界との距離をどう探っていくのか前途はなかなかに厳しそー。

 もっとも日本のラグビーが強くなければいけないのか? という根本命題について考えると、まったくもってラグビーの愛のない当方から言えば「どーだっていーじゃん」で、むしろ今時の多チャンネルなテレビが伝える世界最高峰最先端のラグビーを見ている方がよほど迫力もあるし勉強にもなるし面白い。これは他のスポーツでも言えることで、欧州とか南米とかの試合を見たあとでJリーグの試合を見た時に思う、なんとゆースペクタクルの少なさか。居ながらにして世界最高峰最先端に触れられる時代に、日本だ何だと言ってる方がナンセンスだと思う人が増えて来てもおかしくない。かくして日本のローカルなリーグは求心力を失い地盤は沈み雲散霧消へと進んでいく。とはいえ日本とゆー国を代表するチームがボロ負けするのは釈然としないのも真実で、世界が沸き立てば沸き立つほどにその場に日本がいない寂しさも増えていくもの。最高峰最先端がダイレクトに入ってくる時代にそれをスタンダードとして育った世代が大人になった暁には、きっと体質も変わって縁とか閥とかったものとは無縁の、目標高くして考え方もドライな風土が訪れるのかもしれない。でもやっぱり無理かなあ。


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