縮刷版2000年11月中旬号


【11月20日】 だから赤鬼青鬼なんだってば、YKKなんてジーパンのチャックみたいなイニシャルで呼ばれている加藤紘一と山崎拓と小泉純一郎の盟友3人の中で果たして誰が総理大臣になったら日本がもっともドラスティックに変わるかって考えれば郵便貯金簡易保険の民営を公約に掲げる小泉さんなのは明白、とはいえだからこそ小泉さんが総理になる目がもっとも薄いのもまた自明の理で、そんな小泉さんをググッと前面に押し出すためにはどーすればいいのか? と考えるとそこは保守本流を良く加藤さん、堅実さで鳴る山崎さんが身を引くしかない。

 けれどもそれぞれが派閥の長として総理を目指す立場に祭り上げられ自ら身を引く訳にはいかない。さてどうする? そこで……。赤鬼青鬼作戦の発動となる。つまりは悪鬼、青鬼となって暴れ回ってそれを退治する赤鬼を人間たちに認めさせる「泣いた赤鬼」の昔話に倣った作戦ですね。無謀とも見える賭けに出るフリをして世論をさんざんっぱら惹き付けた挙げ句に加藤さん、間際で手のひらを返して一新に批判を浴びる。とはいえ自由民主党内部的には長い物に巻かれて影響力も名誉も失ったものの除名だけは免れて身分を残し、山崎さんも目立たないもののそれなりな影響力を維持しつつ一歩身を引く形をとって最前線から退場する。

 かといってこれほどまでに世間の注目が政治すなわち自由民主党に集まる中で、旧態依然とした談合的な後継総裁選びは出来ない。となれば一気に世代交代となる訳で、だとすれば加藤、山崎の退場した次代を担うリーダー候補の中で一気に小泉さんの党内にあって最も革新的なスタンスが、怒る単純な世間を納得させる落とし所として最前線に浮かび上がる。かくしてYKKからKが首相となる次第。嗚呼美しき哉おっさんの友情よ。これが真実だとしたら日本の政治もまだまだ捨てたもんじゃないんだけど、実際的には単なる日和だろーからなー、困ったもんです日本の政治ゴッコは。

 創刊なった富士見ミステリー文庫から表紙で目についたあざの耕平さんの「Dクラッカーズ 接触−touch−」(富士見書房、460円)を買って読む。3人称が1人称に変わる意味とか説明ゼリフを極力廃した展開とか、読んで読み込まないとなかなか全体像を把握できないあたりが流石にミステリーってゆーか理解する上での難しさをちょっと感じる。帰国子女として幼なじみが通う学園に転入して来た少女が、ドラッグを密売する組織によって同級生たちが自殺したり発狂したりする事件に巻き込まれて、その中心に幼なじみの男性があるんじゃないかと心配する。混乱の一途をたどる中で、探偵役の少女も現れ一気に解決に向かったかに想われたが、事態はそれではすまず、ドラッグの謎めいた効果をめぐるいささかオカルトめいた展開へと進んで行く。

 「悪魔を呼び出す」とか言われるドラッグが招く、まさしく悪魔の到来したかの如きバトルシーンを読む限り、「ミステリー」を標榜するリアリスティックな展開から一歩後退して、既存のファンタジア文庫で出ても不思議じゃないよーな気もするけれど、ドラッグとゆーアイティムを鍵として理解するなら、ドラッグが見せた幻覚が現実に幻実を重ね合わせて不思議なビジョンを見せているだけに過ぎず、ドラッグから離れた場所から見れば、単なる気の迷いとしてリアルの中で片づけられる話なのかもしれない。とはいえ描写として非現実的なビジョンが見えるあたりが引っかかる。あるいはジェフ・ヌーンの「ヴァート」で描かれた、ドラッグが見せる妄想なんだけど当人たちにとっては物理的な影響もある妄想に近いニュアンスが、物語の中に込められているのかもしれない。創刊なのに続きとかサイドストーリーがありそーな所が商売っぽくって気を滅入らせる。けど主人公の女性の美しさ、人間の暗部を描く筆致の嫌らしさを考えると続きが是非とも欲しいところ。散りばめられたまま放っておかれている謎の解消も含めて続刊をとりあえずお願いします。


【11月19日】 電撃文庫から出た三雲岳斗さんの新刊「レベリオン 弑殺校庭園」(メディアワークス、550円)を近所の本屋で買って読む。「レベリオン 放課後の殺戮者」(メディアワークス、620円)の続きでウィルスか何かの力によって遺伝子だかに眠っている動物的な力が発動した子供たちが謎の陰謀の狭間に立って戦い合う、ってな設定はともしればさまざまなバリエーションの超能力者がファッションショーのよーに能力を披露し合う展開になりかねないところを、1巻ではうまく人間の持つ愛憎の心理に切り込んで奥深いドラマを見せてくれたけど、2巻は学園物から離れて対立している勢力の抗争の図絵を見せる意味はとりあえず果たしつつも、超能力バトルの方にややもすれば目がいってしまう派手な展開になっている。

 これだけ多用な能力が出て来ると次にどんな能力を出せばいいのか迷いそうで、毎週違った怪人怪獣を造形していた特撮ヒーロー物のスタッフの苦労がちょっとしのばれる。世界を描く大きな物語が見えた所で「あとがき」を読むと次は再び学園内で話が進みそうだとか。国とか組織とかが絡んで大勢の人が死んでいるのにのんびり学校なんぞに通っている場合かよ、と主役の少年には言いたくもなるけれど、どこか自分とホンの少しでも重なる部分があって始めて物語に関心を向けられるのが多感な世代の読み手ってもの。30過ぎたおやじが「逃げちゃだめだ」と良いながらロボットに乗り込み世界を救う話とか、もうすぐ30歳に手が届きそうなOLがバトン振り回してヒラヒラな格好に変身して怪人と戦う話とかじゃー、なかなか主となる10代の読者の感情、受け止められないだろーから舞台を限定しつつ関心を誘いつつ、言いたいことを言っていくのも1つの正しい選択なんだろー。それにしても「あとがき」にある「やくたいもない雑音」って何だろう。

 「サイゾー」の12月号は「M2」に「EURKA」監督の青山真治さんが出演しているんだけど宮崎哲弥さんがしっかりと「EUREKA」の筋を割っててまるで「SHIGHT」の吉本隆明さん状態。SFの場合だと筋なんてあらかじめ分かってたって物語が伝えたかったことがちゃんと伝わるかどうかが大切なんだ的「ネタばれ擁護派」なんだけど、再読のあんまり効かない映画の場合、映画館における何時間かでどこまで意識を没入できるか、画面に目を向けていられるかってあたりを大切にしたくって、先の展開をあんまり知っておきたくないって気持ちがある。ましてや3時間37分とかゆー長大な作品の中で見当はついてもジンワリと浮かび上がってくる恐ろしさ、やるせなさ、みたいなものの鍵になってる大ネタを、少なくとも劇場公開前の現時点において果たして割ってしまって良いものなのかと悩む。なのでとりあえずSFでもミステリーでも映画だったらなおのことネタばれが嫌いな人は、「サイゾー」の当該対談は映画公開まで読まないか読んでもすぐに忘れることをお勧めします。

 4年と9カ月にもわたってダラダラと適当な日常を書き流して来たけどその割には後続のいわゆる「ネットアイドル」「ネットコラムニスト」「ネットクレーマー」な人たちに相対速度さマッハ10くらいで追い抜かれてしまって未だに無名なこの身分、せめてなりたや「ネットコラムニスト」の最高峰に数年で駆け上がった田口ランディ様さま様、及ばぬながらもその足下地下300メートルくらいには置かせて頂きたいと思い、かくもランディさま様さまが人気を得ておられるのは何故なのかを確かめるために「サイゾー」12月号所収のランディ様さま様大フィーチャーな記事を読む。カルテにも似せた分析は実に緻密で奥深く、読むほどになるほどだからランディ様さま様はランディさま様さまなのだと分かって、これは是非ともあやからせていただかねばと赤マジックで棒線を引きながら読んでいたら裏写りしやがってナースの写真が汚れちまったぜ参ったなあ。

 違ったランディ様のページの裏にあるのが悪いんであって引いた棒線は悪くない。ふむふむなるほど小笠原格さんとゆー研究員の分析に従うならば「自分の歪んだ家庭環境への不満を発散したい」という迷惑、じゃない崇高な理由があってこそのモノカキであらねば人に気に入られ、じゃない人を納得させられないということか。「自他共に認めるほど拙劣な文章を配信」してもこれほどの人気ってことはよほど内容も良いんだろう、言葉じゃないんだハートなんだと手帖にはメモしておこう。「自らの影響力に対しまったくの無知であり、傲慢かつ虚無的なパーソナリティーを有する」ことも大切なんだな。本や映画について言う時もどちらかといえばポジティブに前向きに良いところを探そうとする小心さ、シニカルにふるまっているよーで実は世の中がもうちょっと良くあって欲しいんだと思っている軟弱さでは最初っから勝負にもならなかったとゆーことか。

 まあ「圧倒的なまでの自己過信・開き直りに満ちた問題発言を繰り返すあたり、かの森首相と同様」だなんって一国を率いる人と同じくらいの大きさを持った人と対抗しよーとするのがそもそもの間違いだったってこと。「自分探しに余年のない女性」でもなければ「他力本願の癒しを求める」人でもなく、「じぶんだけが不幸と過信」もしておらずかろうじて「自己顕示欲の権化」だったりする程度の人間では、この道の総帥ともいえる村上龍さんがふりまいておられる「流行性粗忽軽頭症」なる有り難いオーラの1つのタイプであるところの「家族性心因爆発型」な波動をランディ様のよーに発することは適わない。せめて田口にタニグチ、ランディにリウイチと同じイニシアルを持たせて頂く一介の下僕として、ランディ様の素晴らしさを広く世間に問う「サイゾー」12月号の記事をお読みなさいと喧伝させて頂こう。記事のタイトルは「メディカルラボ 『村上龍という病』」でーす。

 スッキリしたところで「bk1」からゲラが届いた岩本隆雄さんの「イーシャの舟」(朝日ソノラマ)を一気読み、「鵺姫真話」(朝日ソノラマ)から「星虫」(朝日ソノラマ)から遡って「こんなことがあったのか」と気付かされた上で再び「星虫」「鵺姫真夜」をたどると、大勢出てくる若者たちの関係とか設定の前後関係とかが見えて来て、地球を護るために立ち上がった人たちの意志なり技術が総体となって宇宙へと向かって行くプロセスが分かって来る。旧版の設定は知らないけれど「鵺姫真話」ではイジけっ子の眼鏡っ娘になっていた純が幼少のみぎりにおしゃまな天才少女だったことはちょっと意外。これも性格が変わっているらしいんだけど山伏の微角はんは存在が「火の鳥」のサルタヒコめいて今後の展開にどう絡んで来るのかにちょっと期待。リメイク2冊に新作1冊でとりあえず3冊揃った「進化計画」物に今後があるとしたら、それはきっと時空を越えたスケールの大きな話になるんだろーなー。いや楽しみ。ちなみに表紙は草ナギ琢仁さん、描かれたイーシャがなかなかになめまかです。


【11月18日】 「デザインフェスタ」へ。入ると並ぶは似顔絵にファッションにアクセサリーに絵はがきにTシャツといった具合で、雰囲気だけなら代々木公園あたりに出ている路上販売かフリーマーケットに近いものがあるけれど、よくよく見ると中古品とかはなくほとんどがオリジナルの作品で、アーティストにしてもデザイナーにしても画家にしても書家にしてもミュージシャンにしても、それぞれがそれなりに自分を表現しようと集まっていることが分かる。その意味でまさいく「デザインフェスタ」だった。

 書道の人がいてちょっと大きめの文句の下に詩が書いてあっていわゆる路上詩人なんかと一緒かな、なんて近づいたらさにあらず、金敷駸房とかゆーその書家さんは毎日書道展なんかで毎日賞を受賞したり「男はつらよ寅さん語録」を書いたりCMの「ファンカーゴ」で習字をしたりと一般メディアでも活躍している人。いわばバリバリ本家の書家の癖して「サルの豪遊」とかってなタイトルで詩入りの書を展示販売するイベントを開いている。聞くと詩はあらかじめ決めてから紙の上に配置していくそーで、だからと言って書いている文字を単なるデザインとして意識している訳じゃなく、言葉は言葉として認めつつそれをどうデザイン的に配置していくのかを考えているらしい。

 それってタイポグラフィックと同じなんですかと聞くとタイポグラフィが何か通じてなかったみたいなんで西洋的なものへの意識はないたみたい。いわゆる「便所の神様」とどう違うのか、ってところになると分からないけどウザくっても時に希望めいたものをくれる「便所の神様」の方が実用的な場合もあったりする一方で、書家としてのキャリアを踏まえて書体としてもデザインとしてもこっちの方が優れているのかなあ、なんてことも思ったりもして難しい。「デザインフェスタ」にもアートなのかパフォーマンスなのかホビーなのかクラフトなのか、判別不明な作品がいっぱいあって、自己申告でも感覚でも線引なんかできやしない。むしろどっちというよりその時々の気持ちで判断するしかないんだろう。

 とは言えどちらかといえば「アート」な世界にあって、どことなく異世界感を出していたのがコスプレなり着ぐるみ関係の仕事を見本として出していた「亀有工房」のブース。なにやら着ぐるみの足っぽいのが置いてあって、聞くと自分たちで作ったものだとって見せてくれたカタログには、ウルトラセブンとか仮面ライダーのマスクとか、ガキでかのフィギュあとかセーラームーンにセーラーマーズの仮面とか、騎士の剣とか勇者の鎧とかがあってそれぞれがそれぞれに良い出来だったのに驚く。にしては展示してあるのが足とか鎧のカケラとか「玩具ショー」で土偶マスコットが持っていたカメラとかってな使用後品で、周囲の「アート」な雰囲気の中であんまり目立ってなかった。個人的にはハイブロウな雰囲気のなかで極めてくつろげるスペースだったんだけど、こういう世界の違う感じが融合なりシームレスになっていくのには、まだまだやっぱり時間がかかるんだろーなー。明日の「コミックシティ」の客層が、どこまで「デザインフェスタ」の客層と重なるのかってのも見所かも。手作りグッズなんて聞こえはいっしょなんだけど。

  「アート」だけあってオシャレに敏感っぽいジーンズ姿のスリムな女性がいっぱいいて、それはそれで目の保養になったんだけど、不思議ととジーンズ姿でしゃがみこんだ時に背中とジーンズの後ろとの間に出来る隙間に無頓着な人が多くって、歩きながら見おろすと色いろな物が色柄物もふくめて結構見られてそれもそれで目の保養になる。そんなん見ながら会場を散策、ちくわぶってブースでオリジナルTシャツの良いのを見つけて購入する。売れ筋はファミコンをプリントしたTシャツなんだけど、中に「親切」ってタイトルのシリーズがあって町中で大股ひらいてパンツ見せて足りする女性をモチーフにしたプリントがしてあって、実用的(着るってことだよ、信じてないだろうけど)でありかつデザイン的にも言論的にも面白い。あと京都芸術短期大学のけんちく・インテリアデザインコース研究室だかが出していた、京都の町屋をペーパークラフトにした作品なんかを購入。映画「おもちゃ」なんかで出てきた間口が狭く奥に長い京都の家の作りを手で作りながら確かめられてお勉強にもなる作品です。でも作るのに3時間くらいかかりそーだからなー。年末だな。

 集英社と合弁会社を作って今や再び天下をその手に取り戻しつつある「週刊少年ジャンプ」をネットで配信するよーになるからって、天下の朝日新聞までもが記事にしたスクウェアだけど、それと抱き合わせになった感じでコッソリ、でもくちゃんとリリースを出して99年の7月だかに行ったCGの会社とサポートの会社の再びの吸収合併を発表してたけど、こっちは流石に天下の朝日新聞は記事にしてなくって、スクウェアとしてもしてやったりだったのかなあ、なんてことを考える。

 確かスクウェアが7つだか8つだかの部門を分社化するって発表したのは99年の4月1日だったかで、一応はちょっと前に発表になったソニー・コンピュータエンタテインメントの「プレイステーション2」の小難しく金もかかる対応ソフトを制作するための体制づくりとかって理由があって、あとは超大作化する自社タイトル以外にも活路を見出すために、外部からのソフト制作なんかにも応えて、収益源にするんだってな説明もあったよーに記憶してるけど、一方では某超大作映画にお金を振り向けすぎた結果、業績とか株価なんかにも影響が出始めていた手前、ドラスティックな改革を発表することで株主とかに見直してもらうんだってな腹もあったよーに聞いている。

 どちらが本当だったのかはともかく、あるいは色々な理由が複合的に絡んでの分社化だったのかもしれないけれど、結果的に分社した部門は当初の発表ほどには行ってなくって、おまけに出した部門も1年ちょいでの再吸収ってことになった所を見ると、株価対策的に分社化したものの機能面でも意識面でもあんまり働いていなかったものを、「ファイナルファンタジー9」がヒットして業績の面で前向きになって来たんで、良い機会だからと元に戻したよーにも見える。だから何だってことじゃなく、良いゲームがちゃんと出ていればそれでオッケーな訳なんだけど、だったらあの分社化のかけ声って一体何だったんだろう、どこに向けての意志発表だったんだろうってな気もしないでもなく、薄くモヤモヤとしたものが脳裡をよぎる。ことゲーム作りやオンラインへの取り組みにおいては進歩的かつ画期的な会社だけに、そういった”売り物”の部分だけで評価できる会社であって欲しいんだけどなあ。ホント何だったんだろう、あの分社化発表は。

 新聞らしい、というのは記者が夜郎自大に天下国家を断じるってところがあるんだじゃなく、いかにも「正論」な言葉を借りて来て「世論」に仕立て上げてみせる腕前のことで、例えば「朝日新聞」の11月18日号に掲載されている「論壇」は、災害や事故などの遺児を助成する「あしなが育英会」だかの「あしなが学生募金事務局長」を務めている大学生が、コスト削減の影でリストラにあっている人がいて自殺者も出ているのは問題だ、ってな感じの論陣を張っていて読んでなかなかに勇ましい。

 枕でふられているのがこの前奇跡的な業績回復を成し遂げた日産自動車の話で、論陣だとこうした業績回復の裏に「リストラの対象になり、突然の転勤や減給、失業に見舞われた人たちがいる」とあって、そこから他の企業でも同種のことがあったという推測がなされて直後、唐突に日本の自殺者が3万3000人を越えたとゆー数字が出て来る。そしてこう繋げる。「企業が急激に推し進めたリストラや事業不信、過大な夫妻などが、働き盛りの中高年男性を自殺へと追い込んでいると言えるのではないだろうか」。なるほど確かにそういう現象は起こっているんだろうし、言うように「企業活動は、人類社会に貢献するためのものではならない」んだろうけれど、一方では企業業績の回復が働いている人たちの幸福を補償していることへの前向きの評価が故意になのかそれとも信念なのか、なされていないことが気にかかる。

 たぶん視点として、企業がそういった合理化競争へと至らなくてはいけなくなった政治的、経済的な失策なりを考えなくてはいけないんだろうし、そういった失策を政治や経済が起こすに至った精神的風土、すなわち教育とか道徳とかってな問題についても考えなくちゃいけないんだろう。企業がリストラして自殺者が増える、その相関関係をのみ理由にして、企業のスタンスを云々するのは納得できるけど説得できない、少しばかり理想に勝った論のような気がしてならない。枕に振られた日産にとっては新聞からやいのやいの言われて頑張った挙げ句に新聞から腹の内を探られ散々だろうし、ほかの企業も含めて「経済活動」を行って税金を治められるくらいに頑張った、その影でこぼれていかざるを得ない人をケアする制度は、国が面倒を見るのが筋じゃないかってな思いも浮かぶ。

 企業活動が人類社会に貢献すべきものであることを訴えている、当の新聞ひとつとっても、紙資源を消費する拡張競争に溺れリストラに明け暮れる企業からでも広告費をむしり取り、内部的には人員削除でもって効率化を推し進めている実状があるにも関わらず、そんな自らの行動を自戒することなく、清廉で純真な学生の汚れなき言葉でもって紙面を飾って格調を出している。新聞の老獪さが出ているようで何か気持ちが落ちつかない。もちろん「論壇」の筆者には、信念を持って企業のメセナへの理解なり、働く人への配慮なりを訴え続けていって欲しいんだけど、それを新聞が責任を持って最後まで支えてくれるかどうかは、全面的にあてにしない方がいいかもしれないと言っておこう。まあ、同じ記者の拡張カードを配らせようとする新聞社でも、現場の職務への信義が勝って実効性がともなわなかったらしい分、それが評価にモロ来る大手町界隈よりもまだ支えてくれそーな気はするけれど。

 視点の多元化・複眼化って意味では既存の価値観をひっくり返す状況を作り出してそこでの人間の営みなり社会の有り様を描き出し、可能性として明示してみせる術に優れた「SF」の果たす役割ってのが、雁字搦めになって息苦しいこの世の中でますます大きくなりそうだ、ってなことを言っているのかいないのか。小松左京さんを中心に高千穂遥さん鹿野司さんが挟んで生命環境人類死などについて話し合った「教養」(徳間書店、1600円)での議論は、読むほどに人間の短絡ぶり、欺瞞ぶりが暴き立てられていくようでなかなかに刺激的。冒頭に高千穂さんが上げる琵琶湖の汚染を心配するテレビのニュースに「ほっておけばいいんだ、2億年もすればもとにもどる」とつぶやいた小松さんのエピソードなんかまさしく真理をついている。

 もちろんだからといってニヒリズムに行くんじゃなく、しょせんは人間中心の思考なんだってことを自覚した上で、だとしたら人間の為に何ができるのかってなことを考えられるよう、意識を多視点化する訓練をしようってことなんだろう。とかく純真まっすぐな意見ばかりがもてはやされ、ゆるぎない信念をふりまわしてはべつのゆるぎない信念と対立して結果なにも生み出さない状況下で、多用な価値観を理解し認識できるよう頭を柔らかくする、そのツールとして「SF」は最適だし、そーゆー用途に役立つ「SF」、つまりはかつて小松さんも筒井康隆さんも星新一さんも書いていたような「センス・オブ・ワンダー」に溢れた「SF」が、もっともっと書かれてほしいんだけど、果たして「SF界」はそれに応えているんだろうか。徳間書店が次に送り出す「日本SF新人賞」作家はそこんとどどうよ。


【11月17日】 表紙のギョロ目な猫の絵とかに惹かれるところがあって、桑田乃梨子さんって人の新刊「真夜中猫王子第1巻」(白泉社、390円)を買う、やーこれは面白い。同級生の男子に告白して玉砕して落ち込み度120%だった駒音澄が学校で拾った猫の小さな縫いぐるみ。それが夜になると突然「どろん」と生きた猫になって、慌てて放り投げたらそれが首筋にあるファスナーを「ちー」と下げて、フードを脱ぐよーにして中から人間の頭を見せたから驚いた。聞くとどっかの国の王子様で大臣のクーデターに在って姿をハンパな猫に変えられて、この世界に送り込まれてしまったんだとか。でもって一緒に跳ばされた仲間を探して、澄といっしょにご町内を歩き回る。

 あとは徐々に仲間が集まって行く割とありそーなパターンが展開されるんだけど、何せ猫でおまけに着ぐるみで昼間は縫いぐるみになってしまうから何を出来る訳でもなく、「帰りたい」とか言いながらも帰り方が分からないんで「とりあえず今は寝ときましょう」とか言って、駒音の部屋で猫みたく(猫なんだけど)丸くなって寝ているだけ。駒音はと言えば告白して同級生のままでいいと言われた男子とのそれでもやっぱり気になる関係に戸惑いつつ、猫王子の呪いととくにはどーしたら良いのかを本とか読んで考えたりする、まあそれほど代わりばえのしない日を送ってる。

 ドタバタでもなくエキセントリックでもなく、ちょっとづつ不思議なシチュエーションとかセリフとかが積み重なってまったりした中に奇妙な世界を描き出し、ムグムグと笑いそ誘うこの展開はうーん、そうそう「空の食欲魔人」だったか「甲子園の空に笑え」だったか忘れたけれど、最初に読んだ漫画のどうにもネジれたネジれたキャラクターたちの味わい深さに、1発でフェイバリットな漫画家になった川原泉さんにも通じるところがあるかも。おとぼけなのか冷静なのか分からないキャラクターたちの行動様式セリフ回しに「ほへー」ってな感じのそこはかとない笑いがこみ上げて来て、知らず何度も読み返している。とりあえず1巻収録の最後のエピソードで”無力戦ネコネコ5(オプション付き)”も勢揃いして、理不尽さをひとりで背負う澄の労苦があれば何とかなりそーな展開が見えて来て、次巻以降どーなっていくのかちょっと楽しみ。でもタイトルからして「真夜中猫王子」なんできっと猫のまんまでテキトーにノンビリとした展開になってるんだろーな。

 壁が崩れているのか垣根が低くなっているのかパラダイムがシフトしているのか近くが変動しているのか世界が革命されているのか分からないけど、ジャンルだかセグメントの何とも曖昧になって来ている様を妙に感じている今日この頃、それがどーゆー理由で起こっているのか、でもって将来どんな未来がやって来るのかをあんまり真剣じゃないけど考えるべく、活字媒体と放送媒体のまさしく「融合」を実践しているメガポートとかゆーBSデジタルデータ放送の記者会見に出る。出資しているのは毎日新聞とか角川書店でご存じお馴染みな角川歴彦さんも会長として会見に列席。顔を見に行くと皆勤賞だねと言われてあーまーとか挨拶して、これからの意気込みとか放送する内容とかを聞く。

 文字が出て小さな窓が出てそこで動画が流れてってな画面ヅラは何かインターネットのウェブページに似てるけど、そこは放送の力を活かして動画はちゃんと早く動くし音だってネットとは比べものにならないくらいスッキリしてる。もちろん将来広帯域のインターネットサービスが出てくればネットでも同等のことは出来るんだけど、首相が5年で全国に高速回線を引くとか言ったところでアテにならないのがニッポンって国なんて、BSデジタルデータ放送ならではの特徴がそうそう凌駕されることはなさそー。よしんばネットが追いついて来たとしても、その時にこそBSデジタルデータ放送で力試しして来た番組作りのノウハウが活用できるってのが角川さんの思惑らしく、テレビとか活字といった既存メディアの単なる補完媒体としてじゃなく、新しいメディアとしてその特質を調べ、育てて行こうってなスタンスが伺える。

 インターネットがもたらした「衝撃」もそーだけど、新しいメディアって使ったり作ったりして始めてその特徴が分かるものなんで、意識を持って先行して取り組むことはたぶん悪いことじゃない。投資は結構ハンパじゃないからその分は活字にシワヨセが行くのかもしれないけれど、そこは刊行物じゃなく景気の良い社員のフトコロあたりを絞って絞り尽くして、未来に貢献されてはいかがでしょう。しかし今のBSだってアンテナ立てられず見られない状況じゃあ、BSデジタルの良さってのは当分感じられそーもないなー。メディアに生きる人間としてはちょっと不本意、やっぱ引っ越そーかなー。会場では赤尾ゼミの学生さんで今はこっちでバイト中とかゆー人が日経BPの人と会話しているのを横耳で聴く。とりあえず生きてるらしーけど実際はさてはて。冬コミ当選したの? こんども「PS2仮面」やるの?


【11月16日】 「SPA!」届く、11月22日号、見て仰天、あの岩男潤子さんが「元セイントフォー」ってカタガキでインタビューに答えてる。まあ別に隠してる訳じゃないから他でも喋ったことはあるんだろーけれど、新メンバーとして加わった後のアクロバットの訓練の話なんかあんまり読んだことはなかったから、もしかしたら結構貴重なインタビューなのかも、写真もでっかく載ってるし。あと声優さんって不文律なのか生年を載せなかったりするケースが結構多いよーに聞いてるんだけど、そこはやっぱり一般週刊誌の「SPA!」だったりするからなのか岩男さんが普通なのかちゃんと記載されている。声優だからってな妙な先入観に気を回さずに突っ込めるあたりは耳年増になり過ぎて四方八方に気を使った挙げ句に出不精になる我が身にも学ぶところ多し。これからはちゃんと声優にも歳を聞こう(そーゆーこっちゃないだろ)。

 ちなみに岩男さんが登場していた企画はこっぱずかしくも「ボクらの’80s胸キュンアイドルは今」なんて死人が出るくらいにベタベタなタイトルで、もしも取材に行く人間が電話で取材を依頼するためにこのタイトルを告げなくてはならなかったとしたら、言ってる途中に向こうは笑いが吹き出しこっちは汗が吹き出して、壮絶な事態になったんじゃないかと想像したけどどーだったんだろー。企画事大は「SPA!」が掲げる「SPA世代」な20代後半から30代あたりには結構クリティカル。トップから「元coco」(これって80年代かなあ、ってな疑問はさておき)の三浦理恵子さん羽田恵理香さんと来て「元セイントフォー」の濱田のり子さんで次が岩男さん、でもってそめやゆきこさん高部知子さんを経て「元トトメス」な堀川早苗さんに抜けるあたりに、80年代の風を感じる。

 それにしても引退していたのかトトメス。「美しく戦いたい」だったかな。そーいえば「ポワトリン」は最近どーしてんだろ、「タモリ倶楽部」とか出てるのかな。乙姫は? 雪月花子(略し過ぎ)は? まあ探せば広いネットのどこかに情報はあるんだろーけれど面倒なんで暇な時にでも。ちなみに「トトメス」な堀川早苗さんは何でもフリーペーパー「KAERU BOX」の運営に関わっているんだとか。某デジタルな聖林があれこれででもまだまだ続く活字のフリーペーパー「カエルブンゲイ」とは似て全然非なるフリペっぽいけどどんな内容なんだろー、やっぱ「空に太陽がある限り」とか書いてあるんだろーか。それはともかく何故にフリペで「カエル」なのか、「カエル」の生態なり形態にフリペを感じさせるものがあるのか、研究してみたら面白い……わきゃないな。

 それから「SPA!」11月22日号、本文の最後のページを開いて遂に首に鈴を誰かが付けたかと感じたけれど、田中康夫さんが「エッジな人々」への登場とは別に新しく始めたっぽい「田中康夫の愛の大目玉」なんて現役知事による異例のコーナー(っても某「産経新聞」には現役知事の月イチコラムが掲載されてるんだけど)が掲載されていて、長く定位置を絞めていた四方田犬彦さんのコーナーに遂に誰かが引導を渡したんだな、それはきっと渡辺浩弐さんのコーナーをゲーム紹介ページの隅に小さく押し込めることを決定した時と同じくらいに、職業人としてルビコン川を渡り清水の舞台から飛び降り弘法は筆を誤り目にウロコが飛び込むくらいの内的葛藤を経たんだろーなと考えたのも瞬間で、ページをめくっていたらちゃんと中にしっかり先週までとまったく同じフォーマットで、色もカラーの「次は火だ!」が載っていた。これがつまり「大人」って奴、なんだろーなー。

 とゆー訳で皆さんコナミを「ゲームソフト会社」と呼ぶのは止めましょう、これからは「カードゲーム会社」と呼びましょう。ってのは発表になった中間決算でコンシューマーゲームソフトの売上規模を、「遊戯王」なんかのカードを取り扱っているCP事業部の売上規模が上回っていたからで、利益面でも大きく貢献していて中間期に限って言えばコナミの完全な看板部門になっている。1人で収益を背負っていると言ってもよく、数年前には「ときめきメモリアル」かんれんグッズくらいしか売る品物がなく売上で10億円いけばすげえーと見られていた部門でも、いい商材を仕込んで当てればとたんにデカく化けるってことががまさしく眼前で証明された感じ。CS事業を率いる人と昇進なんかの速度でとかく比べられるCP事業を率いる人も、これでそれなりに意気軒昂と仕事が出来るんだろー。運が強いってゆーか。

 まあ下期は固めに見たってこともあって通期だとやっぱり看板のCS事業部が盛り返すみたいだけど、CP事業部もそれに続く売上規模を依然誇っている訳で、ちょっと前ならゲーム会社にとってサブジャンルでしかなかったクリエイティブプロダクツ関連でも、やりよーによってはゲームに匹敵するくらいの車の両輪の片方に出来るってことが示された格好。まあ突発的な化け物商材の登場で一種の特需に潤ってるだけなのかもしれないけれど、某バンダイがしこしこと「カードダス」で売っていた「遊戯王」を引っぱり込んで仕掛けてPS向けでもGB向けでもゲームに仕立てて盛り上げてたって実績はある訳だから、単純に「当てただけ」とは言いがたい。半ば努力もあるんだろー。問題は今じゃないとしてもいずれピークが来る「遊戯王」の次の商材をどー仕込むかってあたりで、ハドソンに対抗するかのよーに投入した野球カードも考慮した上で、どこいらあたりを狙って来るのかにちょっと注目して行きたい。「ジャンプ」系と仲良しだからいっそ「碁」の大会でも買ってみたらどう?

 「ロフトプラスワン」へ西村博之さんを見に行く、あの「ひろゆき」さんですね、長髪で普通の顔で喋るとそれなりで、休憩時間になると人がひっきりなしに話しかけて誕生日らしくプレゼントもいっぱい受け取っていて、「ネット」って世界に対してオヤジな世代が勝手に妄想する隠微で不穏なイメージ、でもってネットで活躍する人間に対してやっぱりオヤジ世代が妄想する頭ばかりを肥大化させた人間ってなイメージとはかけはなれた、社交性もあって友達いっぱいいそーな、つまりはごくごく普通の人に映る。それにしても集まってる人の多さ、知り合いらしい人の多彩さは、ネットであっても、とゆーよりネットだからこその超有名人ならではのもの、なんだろー。所詮はアクセス数がミリオンを越えた程度の人間では足下の地下300メートルですら及ばない。最前列でカンサツして得た社交性とかオーラを糧に、誕生日にボジョレーヌーボーとは岩魚けれど赤玉パンチ、花束じゃなくても花輪、椰子の実じゃなくてもドリアンくらいは届くよう、頑張ってメジャーを目指そう。けどその前に「普通」にならなきゃ。これが1番難題だったりするんだけど。


【11月15日】 「ピンク・レディー」のよーなアイドル歌謡から「イエロー・マジック・オーケストラ」を経て山下達郎へと跳ぶ僕の音楽的キャリア(聴く方ね)において「ザ・ビートルズ」は、決して神様でもなければアイドルでもなく、単純にその昔大流行したアイドルグループで、言うなれば「ザ・タイガース」と大差ない位置づけしか持っていなかった時代があって、実際のところジョン・レノンがダコタハウス前で射殺された時だって、エルビス・プレスリーが死んだのと同じくらいの意味合いすなわち「大したことない」話としか思わなかったんだけど、後々の折々に話に聞く「ザ・ビートルズ」とゆーグループの偉大さと、度々に聴く「ザ・ビートルズ」とゆーグループが残した多彩な楽曲に触れるに連れて、わき上がる「もったいなさ」を抑えられなくなって来ていることにある日気づく。

 とは言え根が天の邪鬼だとあまりに偉大にしてメジャーにして有名なグループを今さら聴けるかってな珍妙な抑制が働いて、金は存分にあってもCDを買いあさるなんて真似はしなかったけど、ベスト盤ってゆー「お値うちぶり」が名古屋人のハートにガンガンと響いて来たこともあって、買ってしまった「ザ・ビートルズ1」(東芝EMI)を聴いて聴き込むに連れて改めて、とゆーより過去に積み重ねて来た「ザ・ビートルズ」に対するプラスの感情を総合して100倍かけたくらいの感動を覚えて、これをもしも10歳の時、は無理だとしても10代の時に聴き込んでいたら、少しは違った世界が開けたかもしれないと思うに至る。

 まあ「YMO」が達郎で「はっぴいえんど」でも全然後悔はしてないんで、抱く感情は後悔とゆーよりはちょっとした出遅れ感なんだけど、それにしてもな「ザ・ビートルズ1」、聴く曲のすべてが積極的に聴いてきたんじゃない人間にとっても耳に覚えのあるものばかりで、知らないうちに流行しては消えてしまう楽曲が山とあるなかでのこの残りぶり1つとっても、いかに偉大なグループだったかが分かる。驚くべきは1曲目の「ラブ・ミー・ドゥ」から27曲目、最後に入っている「ザ・ロング・アンド・ワンディング・ロード」までがたったの8年間しかないことで、その間の曲調の変化ぶりは言うに及ばず、短い期間に放ったヒット曲の多さしかり、それらがすべて現世に伝えられているすさまじさしかり、どこをとってもズッシリと重い価値、どこを切ってもキラキラと輝く光にいい年をしながらメロメロになりつつある。

 名古屋人なんでケチなんで今から改めてアルバムを買いに走るなんてことはしないだろーけど、少なくとも今回のベストは針がすり切れるほど、はCDだから無理なんでピックアップが削れるほどに聴いて聴き込んでしまいそーな予感。それこそどの曲でも聞こえて来た1節の続きが口をついて出るくらいには聴いて聴きまくりたい気分、はしてるんだけど飽きっぽい性格なんで来週には別の例えば声優だったりDVD発売中な森高だったりモーニング娘。だったりを絶賛しては国民の義務だと叫んでは聴きまくっている可能性も一方には大。それでもとりあえずは20世紀のお気に入りの1枚に今回のCDが「YMO」の「ソリッド・ステート・サバイバー」なり達郎の「フォー・ユー」なり溝口肇の「ハーフインチ・デザート」なんかと並んで入ることは確実なんで、「雑魚といっしょにするな!」とお怒りの「ザ・ビートルズ」フリークの先輩諸氏もひらにご容赦を。関係ないけど日本で1位がとっても多い松田聖子の「ざ・松田聖子1」とかって出ないんだろーか出ないんだろーな。

 幾つかの名前を経て後、ようやく1冊を刊行してからいろいろあって記憶の彼方へと押しやられかかっていた状態から一転、最新刊にして評判も賑やかな「南国戦隊シュレイオー」(朝日ソノラマ)が出たばかりなのにもう次の新刊と、本格復活に向けて意気軒昂な神野オキナさんの当該の新刊「鬼姫斬魔行」(角川春樹事務所、640円)を読む。田沼雄一郎さんによるヤングアダルト文庫のように賑やかで書店ではひときわ目立つ表紙を手に取って、読み始めて冒頭の人物紹介でおおよその関係を理解したと思ったのも束の間、主人公に対して「優しい態度を示す女性」と書かれていた女性が実はとてつもなかった事が明らかになって、どーなってるんだどこに向かっているんだと訝りつつ読み進むにつれて、敵味方の関係が浮かび上がって陰惨な絵図が見えて来て、キャラクターやら表紙にヤングアダルト物っぽさはあっても、これはなかなかに因業な物語だなーと感嘆する。

 本家から分家からその分家さらには傍流へと流れる幾つかの一族があって、その中の末端の末端に位置する一族のさらに末端に生まれた美少年、月観捨那は上位の一族の命令を受けて森の中に行き、「鬼姫」に会い戦って「鬼」の力を得ようとする。ところが鬼姫と捨那が邂逅を果たした場面になにがしかの意志を持った集団が襲いかかって鬼姫と捨那を滅ぼそうとする。かろうじて危機をくぐり抜けた、らしい2人だったが必要だった空白期間を経て事態は一段と複雑化の様相を帯びていて、鬼姫と捨那は自分たちを襲った勢力との激しい戦いに巻き込まれていく。

 自らに眠る「鬼」の力に浸食されつつも踏みとどまろうとする主人公の葛藤が、激化する中でどこまで保たれるのかといった関心もあるし、世界を巻き込んで広がる様相を呈している戦いの行方への興味もある。古くからの読者にはお馴染みの迫力の戦闘シーン、古くからの読者には物足りないかもしれないけれど神野オキナ名では頑張ってる男女に必然の描写など楽しみ所もいっぱい。「シュレオー」だって立ち上がったばっかりだし、音沙汰はなくっても「闇色の戦天使」だって続きは欲しいところなんだけど、読んだ直後ってこともあって現時点では「鬼姫斬魔行」の方の続きを書いて欲しいって気持ちが買ってる感じ。でもまあどこからであっても「続き」が出ること、「続き」を出してもらえることの方が今の出版事情の中では何よりも優先されるべきことなんで、べつに指定はいたしません、思う存分に書いてやって下さいな。ソノラマでもハルキでも出版社は続きを出してやって下さいな。世田谷は若林の会社もだぞ。出さないなら他に回せ。「超鉄大帝テスラ」みたく。

 「日本SF大賞」は巽孝之さんの労作「日本SF論争史」らしく、まあそれはそれでそれなりに意義深いことのよーな気はするし、「日本SF大賞」を与える基準である「SFの発展に寄与」を果たした本であることは間違いけれど、「SF」とゆージャンルについてベースは小説で延長にアニメや漫画や映画といったフィクションを想定している当方にとって、フィクションの候補をおしのけて評論、とゆーよりはあちらこちらから評論を集めてまとめた評論の評論が「日本SF大賞」を受賞することに、どこか素直になれない。つまりは候補にあげられたどのフィクションよりも「日本SF論争史」がSF的だったとゆーことなんだろーか。だとしたらSFっていったい何なんだろーか。野田大元帥のは確か特別賞だか功労賞だかだったよーに記憶しているし、小谷真理さんのはたしか大原まり子さんだかの小説と同時受賞だったはずだからなあ。うーん難しい。こーした違和感を解消するにはやっぱり、功労賞めいた空気を一切放たない、その年の「SFチャンピオン」を決める「日本SF王座」とかってな賞を創設して毎年ベルトを奪い合うよーにするしかないのかなあ。


【11月14日】 アートに関しては正直言って門外漢なんでハッキリしたことは言えないけれど、現代アートと言われるジャンルに結構見られる、とりわけ政治体制がキツかったりする第3世界のアーティストたちの作品に見られる反体制的な内容を持ったアート作品を考える時、これはいわゆる「美術」なのかそれとも「ジャーナリズム」の1形態なのかと悩むことがあって、もちろん反体制的なメッセージも含めて「アート作品」なんだと言われればそうかと思うんだけど、一方で純粋無垢な感性が捉える「美」とゆーものを体現するんだとかつては言われていた「アート」の文脈から外れているんじゃないかとも考えてしまって判断に迷う。

 そんな折に取材で行った「赤坂ツインタワー」の中にある「国際交流基金フォーラム」で開かれていたインドネシアのアーティスト、ヘリ・ドノの個展をのぞいて内容を見てカタログを買って解説なんぞを読んで、まさに独裁政権下で庶民が受け続けた弾圧の様を仔細に取り入れている第3世界のアーティストの作品であっても、やれアートだのやれジャーナリスティックだのと言って意味づけてしまうことの危険性と難しさを改めて感じる。飾られているのは例えばモケイの銃が向けられたテレビ画面に尋問を受けて苦しんでいる人の顔が映し出されている作品であり、手がないマネキンの胸に着けられたモニターにはインドネシアの暴動の映像、下半身のペニスの尿道の奥にあるモニターにはスハルト大統領退陣の映像が流されている作品だったりで、絵に描いたようなジャーナリスティックさを持っている。反体制アートと先進国自由主義的感性で見れば見てしまって不思議はない。

 けれども寄せられた解説論文の中で、ジム・スパンカットとゆー人がヘリ・ドノから聞いた話として書いているのは、ヘリ・ドノ自身は政治的問題を探求することを否定はしていないけれど、本人的には政治的ではなく文化的な問題としてすべてをとらえていて、政治的な弾圧を作品の中で批判するのも政治的であろうとする態度よりはむしろ、文化が抑圧されている現状への言及だったりするらしく、政治に芸術で挑もうとしているのではないらしい。かといってカルチュラル・スタディーズで言われているよーな、ファイン・アートも土着的な文化も包容してしまうよーな態度を示しているのでもなく、前提としてハイとポピュラーとゆー二元論がある中から、両翼をすり合わせて等価性を見出すとゆーよりは、アミニズムと霊性ともとれる独自の価値観でもってそれをアートと認知して、送り出しているらしーことが説明されていて、決してすべてを理解できた訳ではないけれど、興味だけは激しく喚起してくれる。

 芸術と芸能だったり、サブカルチャーとオタクだったり、科学と文学だったりジャーナリズムとアカデミズムだったりと、セグメント化され細分化され両極端に別れてしまう状況に反旗を翻すかのよーに、中間にありそーな曖昧な概念についてあれこれ考えていただけに、展覧会自体もカタログに収録された解説も目からウロコ級の驚きを与えてくれる。細分化され島化した挙げ句に相互批判が聞かず自爆する事態が起こりながらも、そこの世界でのボスを目指して固まりジャンルの殻に閉じこもる人がいる中で、なんでんかんでんなネクシャリスト的な発想で、科学も文学もハイアートもポピュラーアートもサブカルもオタクも理解し状況に折り込んだ上で語れる才能が出てくれば面白いんだけど、かといってそういった分析の一助となるカルチュラル・スタディーズ的なアプローチでは、決して全てが説明すされる訳ではないらしいから難しい。つまりは結局訳分からないんだけど、面白いことには違いがないんで拙い頭脳を動員しながらカタログの解説を読み込んで、理解に務めていきたい、もしも出来れば。会期は18日までなんで興味を持ったら即座にゴー。カタログを買ったらヘンな人形がついてきたけどこれもヘリ・ドノ作品なのかな?

 何と言ったら良いのか、正直に言うなら語る言葉が見つからないとでも言うのか、とにかく説明に窮してしまうくらいに凄い作品を見せられて、正直どう書いたら良いのか戸惑っているんだけど、そこは根っからの言葉の人間なんで、何とか”感動”を言葉に現して皆さんに伝える努力をしてみよう。つまり「G−SAVOR」は……だから「G−SAVOR」は……うーん困った。説明すれば「G−SAVOR」は戦闘部分はCGで人間ドラマ部分は実写とゆーハイブリッドな方法で制作された「ガンダム」の映画。米国で作られて日航だかの機内映画として上映され去年だかは沖縄で開かれたショート映画を集めた映画祭で上映され今夏には「日本SF大会」でも上映されたんで、見た人は結構いるかもしれない。

 その「G−SAVOR」がいよいよ年末に名古屋テレビから全国に向けてテレビ放映されることが決まって、試写があってのぞいて来たんだけど、機内上映とかで起用されたキャストが一新されて、多分前は萩原聖人さんがやっていた主人公を今回は加藤晴彦さん、緒方拳さんが担当していたナレーションは声優大ベテランの内海賢治さん、といった具合になっていて、あとは篠原涼子さんなんかも起用されて、下手なのは下手で仕方がないとして、お祭り的な雰囲気を素直に楽しめれば良いかと思っていたら、声優の演技はこんなものかとあきらめがついたんだけど、本編のとにかく素晴らしすぎるシナリオには、どう言ったら良いものかと冒頭の数分時点から終わる最後まで、頭を酷く悩ませられる。

 CGのガンダムにはまあ文句はない。実写との切り替わりにそれほど違和感を感じずに済んだのは、CGに慣れた目もあるけれど、CG事態の質が上がっていて実写と区別がつかないところまで進んでいたからだろー。問題はやっぱりシナリオで、別に地球の軍隊とコロニーとが対立するのは良いんだけど、例えば軍隊でとてつもなく偉い総督って人が、適地を占領するために派遣された船に登場していて、挙げ句に戦いの最前線で華々しい末路をたどるなんてことが、実際の軍隊で有り得るんだろーかと考えた時、どこか違うんじゃないかなってな思考が頭を走り回る。ちょっと装置が故障しただけで、何日から何カ月まで打ち上げ時期が伸びてしまうシャトルの発射を、そこにスタンバられていたからといって数分のうちにやってしまう脳天気ぶり、でもって厳重に警戒されていてしかるべきシャトルが、数人の武装もしていない人にあっけなく占拠されてしまう組織のほころびぶりが不思議で仕方がない。

 海底でモビルスーツから切り放されたコクピット部分を画面ではあっけなく拾っているよーに見せているのに、芝居的には脅威的な行動だったらしー。うーん分からない、もしかして開いた本から下へと墜ちる1000冊が意外と早いスピードに幻惑されて掴めないのと同じくらいの難行苦行だったんだろーか。あと完璧すぎて庵野秀明監督をして負けを認めさせた「ガンダム、大地に立つ」でのロボットに乗る意識の発動が、「G−SAVOR」では著しく単純になっていて、20年間の成果っていったい何だっったんだろーとか思う。ボタン操作いっぱいのシャトルにモビルスーツって、一体何年後の話をしてるんだろー。篠田節子さんの「百年の恋」(朝日新聞社、1500円)を読んでいたら、岸田真一が最近の旅客機で計器類が液晶化されている話を読んだだけに、まるで1世代前のジャンボと変化ないコクピットには首をひねる。まあ未来だからといってロボットが脳波で動いたり「ジャンボーグ化」する訳じゃないから仕方がないのかもしれないんだけど。

 そもそもが軍隊の理不尽な命令に挫折してモビルスーツを降りた主人公が、自分の意志で働ける現場に行っても何故かモビルスーツ登場に煮えきらない態度を取るのは筋が通らない。加えて仲間を護るためにモビルスーツに乗る姿を見ると、なおいっそう搭乗拒否していた理由が分からない。幸いにして最前線に出張った総督の自爆的行動が話に「1巻の終わり」を与えているけれど、シリアスに泥沼な戦争を経験して来た米国民に対して、何かの冗談を放っているとしか見えない。さても全体どーなんだろー。もしかしてマジに作っていたんだろーか。とにかく不思議な作品なんで機会がある人は見ておくと吉。篠原涼子さんが声をあてたスレンダーな黒人科学者の全身タイツ的スーツは「青6」の紀野ちゃんっぽかったかも、あんまり胸はなかったけど。


【11月13日】 午前1時に恵比寿から帰り着いて原稿書いて送って日記書いてアップして寝て起きて仕事に行く、これがサラリーマンの辛さだけど月末にはそれなりなお金が振り込まれる、これがサラリーマンの幸せでもあって、夜を徹しての論壇風発に憧れつつもそっちへとのめりこめない未練になっていたりする、うーん難しい。それはともかく夜も寝ないで仕事をし続けることと、明け方に寝て朝ちゃんと起きることのどっちが人間にとって辛いんだろーか。寝ないでいるより起きなきゃいけないプレッシャーの方が快楽を中断される厳しさでもって人間の神経をスリ減らすよーな気がするんだけど、寝られる人間の戯れ言だと寝られない人たちに言われそーだからやっぱり判断が難しい。好きな時間に好きな時間だけ寝ていられる身に早くなりたいなあ。ロトでもtotoでも頑張るか。

 「漁師の角度」の竹谷隆之さんがデザインしたドラゴンの格好良さに「東京国際ファンタスティック映画祭2000」のポスターを手に入れて部屋に張って毎日頬摺りしている人がいるなら要注目。実はあのポスターには素晴らしくもすさまじい秘密があったことが判明、聞くとおそらくほとんどの人が、頬摺りはともかく虫眼鏡とかを手に入れて、拡大して調べたくなるでしょう、カサカサしているのか柔らかそうなのか白癬の類は見あたらないか等々。竹谷さんのドラゴンがどうして白癬? と受け取ったならゴメン御免、拡大して調べるのは下の砂漠のテクスチャー、いかにも砂漠らしい波打った砂の模様が実は。そうなのです、男性の中でも老人を除いて最も波打っている部分、あのぶら下がった袋の表面だったようなのです。マジか、マジなのか?

 どーやらマジらしいとゆーことが、CGとか造形なんかで有名で竹谷さんのマネジメントなんかも担当している「ビルドアップ」のページにある、岡部暢哉さんの日記「オカベンコ日記」の中で明かされていて、まあそれは徹底したリアリティーの追究プラス岡部さん流お茶目と取って取れないこともないんだけど、気になるのはそーいった「真相」をここに来て暴露するに至った理由。詳しくは11月4日付けの岡部さんの日記を読んで頂くとして、人間関係のなかなかになかなかな難しさがそこから読み取れる。岡部さんと言えば去年の「デジタルナイト」でパワードスーツ実写映画「D」が上映された監督だから、ファンタの人だって決して知らない間柄じゃなかっただろうし、だからこそのポスター依頼となったんだろーけど、それが日記のような事態に至ってしまうとは、なんか世の無常さをひどく感じる。

 しかし流石は「喧嘩の極意」が「突破者太陽伝」で「麻子先生の首」(古川書房、1300円)な戦い続ける映画監督高橋玄さん。ネジ込むだけに留まらず、自分の「インデックス・ガン」のホームページで大々的な論陣を張っている。高橋さんと岡部さんってそーか知り合いだったのか、ってのは映画業界にとてつもなく疎い当方故の驚きとして、知り合いだからと言って決して一方の立場に立った訳でもなく、また「東京ファンタ」のスタッフがどうとかいった個人に帰結する問題としてでもなく、イベントが巨大になり国際化し、人間が有名になり権力化していくにつれて起こるだろう問題を今回の一件になぞらえて示唆してくれていて面白い、と思うけどまあ大半は個人への言及で、それはそれでやっぱり面白い。今年のイベントで舞台に立った所を見た感じとして、こと映画に関しては真面目ないい人っぽい雰囲気を感じたんだけどなあ。やっぱり人間って難しい。

 買った記憶は当然あるけれどどこにしまったか記憶がなくって探せなかった大野安之さん×大塚英志さんの「超鉄大帝テスラ」が角川書店から何故か突然の復刊。それも前の版では出ていなかった下巻までも含めての一挙刊行で、下巻の巻末には大塚さんの相変わらずに辛辣でストレートなあとがきが添えられていて、出版に絡むこちらもなかなかにフクザツな状況が浮かび上がってくる。旧版元との壮絶なバトルってきっと壮絶だったなろーなー、大塚さんが絡んでるんだから、で前ってどこから出てたっけ。あとがきによれば「ゆめのかよいじ」を角川から復刊”させる”そーなんで大野ファンとしては楽しみ、サインをもらいに行ったとゆー吉本ばななさんもきっと大喜び。残るは名作にして快作「That’s イズミコ」の一挙復刊もお願いしたいところ、あと表紙を担当した菅浩江さんの「センチメンタル・センシティブ」シリーズもぉ。2001年が大野安之さんの年に、ってゆーか21世紀が大野安之さんの世紀になりますよーに。そーなるまでには大塚さんに絞められて、角川書店の役員の首はどんどんと細くなってしまうんだろーなー、ご愁傷さま。


【11月12日】 去年の「電撃ゲーム大賞」だかで受賞者として顔を見た記憶があって、それから程なくして第1巻が出てデビューしたかと思ったら、1年でガンガンと本を書いて遂に第4巻まで出てしまって、その今時の新人らしからぬハイペースぶりに驚いた中村恵理加さんの「ダブルブリッド4」(メディアワークス、550円)を買って読む。早いからと言って決して粗製濫造ではなくシリーズだからメインキャラさえ立たせれば後は何があってもオッケーといった感じでもなく、人間と妖怪、その狭間でいろいろと考えては悩みもだえる主人公の高倉優樹の心の葛藤と成長(それとも退行)ぶりを、1巻かた通してしっかりと描き上げて来ている。

 アヤカシなのにアヤカシらしからぬダブルブリッドの優樹の姿なのか正確に惹かれつつもハッキリと言えずこちらももだえ苦しんでいた太一郎が、いよいよの告白へと移って玉砕しただけならまだしも根っからの朴念仁でかつ直情径行が禍してか、自分だけがよかれと信じ込んだ方向へと意志を爆発させては空回りどころか逆スパイラルに周囲を巻き込んでいく様が読んでいて滑稽だけれど同時にコミュニケーションの難しさ、みたいなものを感じさせてくれてコミュニケーション下手の同類としていろいろと考える。

 4巻を使ったプロローグみたいな雰囲気もあって、同類の少年との決着がついた上に新たな敵の登場となり、また本来だったら所属しているはずのアヤカシを仕切る連中との路線の違いも明確になって関係が怪しくなって来ただけに、今後の展開ではこれまでのデスコミュニケーション的シチュエーションを楽しむ以上の、大規模なバトルなんかが期待出来そーだけどどーだろー。リミットを切られた優樹がこれまでのよーな飄々とした正確で曖昧な中に身を委ねていられる筈もなく、これまで終ぞ見せようとはしなたった「前進」の姿を果たしてどんな行動によって見せてくれるのか。怒りか憎しみか哀しみか喜びか、どんな感情を込めて前へと突き進んでくれるのか。そんなことなんかを期待しつつ先行きを見ていきたい。

 恵比寿へ。イルミネーションの華やかな恵比寿ガーデンプレイスでデートする、訳もなく恵比寿ガーデンプレイスにあるガーデンホールで開かれたイベント「ルネッサンスジェネレーション」を見物する。見物は恵比寿なんてオシャレな場所に東浩紀さん指し示すところの「でじこ」の図像がドカンと映し出されて果たして回りがどんな反応をするか? ってあたりにあったけど、タナカノリユキさんと下條信輔さんのプロローグの後に登場した、精神薬理学の人で人間の薬物依存に関連した研究で知られる廣中直行さんの講演馴れしたかのよーなテンポと語り口による、人間のハマる感情と薬物に溺れる感覚との関係なんかについての話が異常に面白く、短い間ながらもいろいろと勉強をさせてもらう。

 曰く人間が薬物に溺れて依存してしまうのは、何も意志が弱いからじゃなくってマウスでもラットでも人間でも1度楽しくなる薬をヤってしまったら後は意志の力では制御できないくらいに何度も薬を求めてしまうよーになってしまうんだとか。だったらそれは薬による快楽を求めているのかと言えば、もはや単純な快楽とゆーよりは原動力として薬に対する「渇望」が発生してしまうから求めるんであって、それが証拠に薬を注射器で打つたびに快楽を得てしまうよーになった人は、食塩水でも注射器で打たれた瞬間とか直後あたりはやっぱり快楽を感じているんだろか。その度合いはもちろん薬に比べて格段に短く小さいけれど、薬を始める前に単なる生理食塩水を打たれた時の快感がほとんどゼロだったことに比べると、薬物依存後の食塩水は何十倍もの効果をもって人間をキメてしまえることになるらしい。

 どうしてそーなってしまうのかと言えば、「渇望」を感じるようになってしまった脳はすでに設計図が遺伝子レベルで書き換えられてしまっているからで、注射器なり、ライターなりスプーンなり万札といった薬を連想できるアイティムを見ただけで「渇望」を覚えるよう条件付がなされてしまっているらしい。実際に脳の働きを調べてみると、依存していない人に比べて注射器なりを見せた時の反応で、依存している人は左側頭部の記憶の部分で働きが起こるよーになっている。もっとも生物が大きな環境の変化に即応して生き延び進化して来たのも、そーした脳の遺伝子レベルでの書き換えが起こるからで、問題はドーパミンのよーな脳内麻薬に似た、でもって強烈な力を持つ薬物が脳の正常な進化ではなくいきなりな変化を起こしてバランスを崩してしまうことにあるらしい。

 あとの質疑応答で、ならば「渇望」のような心の機微を駆動しているのはマウスのよーな生命体でも持っている情動的な感覚なのか、それとも人間だから保ち得ている言語による認知みたいなものなのか? といったよーな質問が出て、脳内物質の働きか何かですべてが説明出来そーで実はそーいった部分では説明し切れないところもあって、境界をどこに線引するのか、線引できるのかそれともシームレスにつながっているのかといった話になって、これが東さんなり下條さんなりのやって来ている学問ともつながって、発展性を覚える。下條さんから聞くところによると学問の分野では精神分析とニューラルネットのよーなものとでは交流がなくって、文学的なアプローチと科学的なアプローチが重なり合う部分で説明に窮することがあるらしい。

 難しいから知らないけれど、言語的な部分と非言語的な部分は切れるものなのかそれとも連続体なのかってな疑問とも重なりそーな問題で、それを考えよーとした時に起こる抽出し切れないものを説明する困難さが浮かび上がって来る。あるいはこれは、セグメント化して専門性を高めていった学問の、一面にある曖昧さ、とゆーと語弊があるなら境界部分の探求が難しくなってしまっている現状への、1つの提言なのかもしれず、強引に結びつけるなら東さんがレクチャーで言っていたよーな、神経生理と認知心理の間にあるクラブ・カルチャーなり、認知心理と精神分析の間にあるオタク系文化なりといった、境界部分に屹立するどちらとも言えないけれどどちらでもある、みたいな文化の研究のためなんかにも、決しておろそかには出来ないよーな気がしてる。とはいえやっぱり学問って島が出来やすいからなー。皆さんの今後の活動のお手並みを拝見といったところでしょう、無責任に言えば。

 「ハマる」、ということがテーマのシンポジウムだったけど、絵にハマったり薬にハマるといったどちらかと言えば情動の部分に大きく依った「ハマ」り方について言及された感じがあって、言語的動物の人間にたぶん特徴的な「物語」にハマる感情について、深く突っ込むだけの時間がなかったのが「物語」についてあれこれ考えている人間としてちょっと残念。タナカノリユキさんが歌詞なんかを書く時には自分は物語的なものを排除する、というのも人間って「物語」への集中が凄いから、ってなことを言っていたのを聞いた時、それほどまでに人間が「物語」から受ける影響は多きのかと思ったほど。瀬名秀明さんが「八月の博物館」の中で人間の感動の仕組みについて言及していたよーに、「物語」と「感動」が切り放せないよーに見えるだけに、何かの機会があれば同じメンバーなり作家を加えたメンバーなりで議論してもらえたら嬉しいかも。

 イベントが終わった直後のホールで来場していたおそらくは情動的な意味での「萌え」に詳しい人たちが、東さんを囲んでやいのやいのとディスカッションしていたのが印象的。同じパネラーでも樋口真嗣さんは人数では東さんより少なかったし下條さんも全然フツー。そんな中にあってジリジリと包囲網を狭めて東さんを囲む人たちの熱心さを背中で感じて熱さに奮える。そんな熱い人たちにちゃんと理論で答える東さんもなかなかなものだったけど。終わって適当に喋って帰宅。樋口さんが三坂知絵子さんから「広告批評」に「スーパーフラット」な1人として取りあげられたことを聞かれて答えていた言葉にも、アートとエンターテインメント、アーティストと職人といった部分での線引に自覚的なクリエーターの姿が垣間見えて、分類すること、あるいは融合させることの難しさをやっぱり感じる。勉強になった1日でした。明日にゃ忘れてるけど。


【11月11日】 世界各地で救急車のお世話になる人がいるくらいだから体力はともかくとして、絵だけは超人的に巧くないと入れない「クラブ・パンターニ」には、天地が3度創造を繰り返すくらいの時間をかけても入会はおぼつかないだろーから、せめて薄毛のポニーテールで眼鏡なちょい前くらいの格好にあやかって、「クラブ・フィニョン」なんてものをでっち上げつつメンバーを僭称しつつ、東京ビッグサイトで開催されていた「2001東京国際自転車展」へと行く。

 その昔「少年キング」に連載中だった「サイクル野郎」で自転車に目覚めて買った「サイクルスポーツ」の広告やら折り込みポスターやらの自転車の写真を部屋中にベタベタと張っていた位の自転車好き、とは言いつつもツーリングするとかいったことはせずかった「ビアンキ」のMTBもタイヤの空気が抜けて実用不可になっている有り様で、「クラブ何とか」を名乗るのなんて烏滸がましいとは重々承知。けれどもこのところのムクムクと沸き立つスポーツへの衝動と、その衝動をささえるこのところムリムリと突き出る下腹を満足させるべく、今ふたたびな自転車への愛を目覚めさせるべく、会場内に所狭しを置かれた新車名車をなめるよーに見ては、財布&体力と折り合いをつけよーかな、なんてことを思う。思ってるだけだけど。

 まず吃驚なのが「コルナゴ」が出してた「フェラーリ」のレーサー。もちろん真っ赤なフレームに輝く「カンパニョーロ」のパーツ群。後ろのギアが数えると10枚もあって、20年前にカタログで「ウルトラ7」なんて名前の7枚ギアを見てこんなんあるのかと笑いつつも驚いていた時代がちょっと懐かしくなる。10枚ねえ、これ1つで10段変速、後5枚に前2枚じゃないんだもんなあ。正面にあの跳ね馬のエンブレムでもついていたらカッコ良かったんだけど、さすがにそこまでは凝ってなく跳ね馬はシールでフレームに張られていた程度でちょっと見目立たない。それでも自動車を買うより格段に安いだろーから(でも幾らかは知らない、ウン100万とかすんのかなー)「愛車はフェラーリ」と後でバカにされることを覚悟しながらも言ってウケを狙いたい人はゲットしてみるのも1つの道かも、笑いの道の。

 しかし米国製とか台湾製のMTBとかの台頭で影の薄かったイタリアの名門シクロのコルナゴも、こーゆー所でしっかりとステイタスを見せてくれてて、かつて「サイクルスポーツ」で金色のフレームを輝かせた「オロ」の写真にカンドーしてた身としてなんか嬉しい。会場には他にやっぱり名門な「デ・ローザ」「チネリ」の御三家のフレームも出ていて懐かしさ倍増、いや3倍増。それでいてそれぞれがしっかりと現代の技術を採り入れ現代のテイストあふれるフレームを作って来ているところに、名門の意地とゆーか力とゆーか人気の程を感じる。ピンクのフレームが目立ってた「メルシェ」とかがどーなったのかは不明だけど今でもちゃんとあるのかな。フランスだと「ルネ・エルス」ってランドナー(死語?)の名門があったけど今どーなっているんだろー、なんてことを20年前に還って思った秋の深まるビッグサイトでありました。室内だから見上げ立って空なんか見えないけど。

gary  とはいえMTBだってなかなかの盛況ぶり、ってゆーかロードと同じくらいMTBや最近流行の折り畳み自転車や電動アシスト付き自転車が並んでいて、ロードのファンじゃなくても見て楽しめるイベントになっている。MTBと言えば忘れちゃいけないブランド、らしー「ゲーリー・フィッシャー」のブースで何やら背の高い顎にチョロリと髭を垂らした爺さんが派手な身ぶりを交えて集まった人と写真を撮ったり自分の写真にサインなんかをして配っている。誰だろう? と思って寄るとブランドに自分の名前を冠したその人、MTBの父だったと確か思うゲーリー・フィッシャーその人でありました。せっかくなんで行列に並んでサインを拝領、何言ってるか分からなかったけど「ヤーヤー」とか言って愛想を振りまいて名前まで入れてもらいました。いやあ良い人だったんで次にMTB買うんだったら「ゲーリー・フィッシャー」にしよう、何むちゃくちゃ高い? うーん次の次の次くらいに……。

 日本が誇るトップクリエータたちがクラブを結成しTシャツを作り「電撃アニメーションマガジン」の連載ではイラストとしてツール・ド・フランスでの授賞式の様子を描いて、心から讃えるマルコ・パンターニを乗り手として擁しているだけあって、日本でも人気爆発なのか「ビアンキ」の展示してあるブースには人がひっきりなしに訪れてなかなかの盛況。中で目立っていたのがパンターニが乗車しているマシンをそのままに再現した「パンターニ・レプリカ」ってチャリで、アルミフレームでフロントフォークはカーボン、ディレーラーもブレーキもクランクシャフトもハブもリムもすべてがカンパニョーロとゆー豪華な逸品は、価格も69万円とゆーそれはもう壮絶な値段で触れることすらはばかられる。

panta  加えてシートにはあのパンターニ様のお茶目な似顔絵が。こんな上に座ってしまって良いんでしょーかとすら思う、あんまりチンタラ走っているとかみつかれるんじゃなかろーか、それで早くなるなら嬉しいけれど。まあ高いとは言っても車1台買うのを思えば安いこたー安いから、トップクリエーターだけに稼いでおらえる「クラブ・パンターニ」の面々だったら、3台そろえてツーリングでも通勤でも使って全然違和感はない。ただ重量が6・8キロしかないから転ぶと結構悲惨かも。買ったカタログを読むと、ディレーラーとかブレーキとかのセットはシマノ105になるけどフレームは一応アルミでフォークもカーボンの日本限定販売モデル「ピラータ」ってのもあって値段は23万8000円。こっちなら手は出るかも、いや出ないなあ。

 1時間くらい見てから秋葉原へ。例の「ゲームファンド ときめきメモリアル」の説明会なんかが「ラオックスゲーム館」で開催されてるってことをマネックス証券の喋りがなかなかにユニークな広報の人から聞いていたんで立ち寄ると、後ろのモニターで3D化された新キャラのデモ画面なんかを流しつつ前のテーブルで証券会社の人が口座開設の手続きとか、ファンドの内容の説明とかをしていて一瞬場所を兜町かと間違える、ことはなかったけどゲームの聖地で証券を売る、その食い合わせの今っぷりにちょっと目眩がする。並んでいた人も別に普段から秋葉原にいて不思議じゃないタイプの人たちで、そーゆー人が、ってゆーかそーゆー人だからこそ10万20万のファンドに興味を示せるんだろーかと考える。渋谷じゃやっぱり違うもんなあ。

 横に立っていた若いダウンジャケットの秋葉原にいて遜色のなさそーなタイプのお兄さんに「マネックス証券の人ですかぁ」と来たらそれが社長の松本大さんだったんで仰天、写真とかで見ていたけれどスーツ姿が多かったからなあ、これが都市迷彩か。でもって「広報の人に聞いたんですがあ」と聞くと呼ばれたのはテーブルの前で藤崎ばりな制服で呼び込みに案内に勤しんでいたコスプレ女性で2度吃驚、いや取材の時の電話での口調からもしやそーではとは思っていたんだけど(どんな口調だったんだ)、実際に目にするとこれがなかなか。仕事熱心と言おうか場に親しんでいると言おうか、とにかく素晴らしいの一言です。午後の3時頃でそれなりな行列も出来ていたんでイベントとしてはまずまず成功、明日も引き続き「ラオックスゲーム館」の前で店を開いているみたいなんで興味のある人は寄ってみては如何。


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