ねらわれた学園

 「それは超能力であろうとなんであろうとかまわない。理不尽な力で、一見理屈に合っているようなことを押しつけているものならなんでもいいのだ。それは、いつの時代、どんな場合にでも、長い準備期間をかけてひそかに用意され、一挙にあらわれて、われわれを制圧する。そして、それが組織化されているものであるがゆえに、あと、長く、猛威をふるうのだ」(256−257ページ)。

 1973年という、70年安保の運動から過激派による騒乱を経て喧噪が一段落し、高度成長が列島改造ブームへと至ってそこに狂乱物価も加わり、日本が高揚と沈滞の間を右往左往していた時代に発表された、眉村卓のジュブナイルSF「ねらわれた学園」(青い鳥文庫、620円)の巻末で、関耕児という中学2年生の主人公に、彼の父親が語って聞かせるこの言葉はいったい、何を意味していたのか。

 それは、過去に日本を戦火の渦へと引きずり込んだ総体への自省でもあり、また、そうした過去を20余年の過去に忘れて、狂乱に振りまわされる日本をどこかへと連れて行こうとしている、欺瞞に満ちた言葉への警戒心の現れだったのだろうか。

 幸いにしてその後しばらく、日本は石油ショックを凌ぎきって、豊かな国へと発展を遂げる。誰もが中流以上と思い込み、上がり続ける所得に未来の幸福を信じ込んでいた昭和末期。それが終わって、平成に入って事情が一変する。

 長引く不況に衰退する産業。ザワザワとしはじめた社会の裏側で、関耕児の父親が警告した「理不尽な力」が、21世紀も10年を過ぎて、目覚めようとしている。こうなってしまった責任を他者へ、他国へと押しつけて自らの責任も努力も省みない人々が、徒党を組んで不安を煽り、甘言を弄して多くの人々を引き寄せ、世界を制圧する一歩手前まで来ている。

 もしも制圧されてしまったら。それは間違いなく「長く、猛威をふるう」ことになってこの国を、この国に生きる人々を何処へと導くだろう。そうならないために必要なことは何か。その答えもまた、「ねらわれた学園」という小説の中に書かれている。

 未来から来た京極という男が、栄光塾という場所を隠れ蓑にして、多くの中学生たちを組織化し、とりわけ京極に心酔している高見沢みちるという少女を前面に立て、理不尽であっても傾聴に値すると思わせる言葉と、それを押し通すだけの力を持って、関耕児や同級生の楠本和美が通う、阿倍野第六中学校を最初に制圧しようとする。

 その時に、関耕児や楠本和美が違和感を感じて異を唱え、排除されても諦めないで戦い、立場上旗幟を鮮明に出来なかった教師も引き込んで、京極や高見沢みちるの攻撃を跳ね返したエネルギーや、諦めず阿らないで走り続けるパッションが、台頭する理不尽を退ける上で欠かせないものだと教えられる。

 同時に、京極が未来の姿に絶望し、過去を変えようとして奮い立ち、それに高見沢みちるらが賛同したことにも、相応の理解を持って臨む必要がある。たとえ相手が悪であっても、その所在地に許可を得ず徒党を組んで入り込み、責任者を糾弾して結果的には少なくない被害を出すにいたったことを正義の遂行と叫んでは、正義の手段としての暴力を認めてしまうことになる。

 その野放図の結果が、京極の嘆く未来の到来だとするならば、関耕児たちは同じ過ちをしてしまっただけに他ならない。その時代で京極が再起に失敗しても、やがて来る混乱した世界に憤った誰かが、関耕児の時代へとやって来て同じことを繰り返す。

 どこかで変えなくてはならない。けれども、どこにも変わろうとする気配が見えない。むしろ社会は京極が「混乱と無秩序がすべてをおおい、どうしようもない。そして……こうなったのも、もとはといえば、過去の時代に、ひとりひとりの人間が自由や権利を主張し、勝手なことをやろうとした、その積み重ねが招いたことなのだ」(244ページ)と訴えた言葉を、そのままトレースするような姿を見せている。

 そして蠢動する「理不尽な力」の「組織化」による「制圧」。どうすれば良い。どうしたら良い。2012年11月というこの時期に、この時代に「ねらわれた学園」が劇場アニメーション化されて、大勢の関心を引きつけ再読を促す事態になったことに、大きな意味がありそうだし、大いなる意義を見出す必要がありそうだ。

 劇場アニメーション映画「ねらわれた学園」について触れておくなら、これは眉村卓の小説「ねらわれた学園」の世界観や登場人物を引き継ぎつつ、場所を大阪の阿倍野から神奈川県の湘南・江ノ島あたりへと移して描かれた一種の続編、といった位置づけになるものだろう。

 あらかじめ原作を読んでおくか、おおまかなあらすじを理解した上で見れば、映画に出てくる関ケンジという少年が誰で、転校してくる京極という少年が誰の関係者で、関ケンジの祖父というコウジが、京極少年の父親とどういう間柄にあったのかを了解して見ることができる。

 映画ではその部分にあまり説明がなく、想像をめぐらせている間に時間が過ぎて、映画への集中が途切れてしまう。「ねらわれた学園」というタイトルから想像される、あるいは過去の記憶から想起される学園の統治と反攻の物語が、激突へと向かわないままエンディングへと向かう展開に、肩すかしを食らったような気分を味わう人もいるかもしれない。

 これが原作の続編だと了解済みだったら、欠けた説明をそこから補い、流れを把握した上で、舞い散る桜の花びらが見せる美しさ、木々をぬって差し込んでくる陽光の温かさに溢れた画面の中、現代に舞台を移して繰り広げられた少年2人と、少女2人の愛しくて切なくて痛くて優しい関係を、存分に味わうことができるだろう。

 メーンとなる4人の関係性でいうなら、ケンジはカホリが好きでそのカホリは京極に一目惚れ、ナツキはお隣さんのケンジがずっと好きだけれど、ケンジはそういう彼女の気持ちに気づかず、カホリが好きだということをナツキの前で露わにするから、ナツキも苛立ちモヤモヤとした気持ちを抱き続ける。

 設定とか、展開を了解できる立場にあれば、そんな内面が表情に出たり態度に出たりするのを、じっくりと見ることができる。キャラクターの演技についても、飛んだり跳ねたり転んだりする動きがとってもアニメ的であるものの、それがシーンと感情にとってもマッチしていると感じられる。

 原作をそれほど知らなくても、入れられない思いの切なさがくっきりと浮かび上がる展開に、ストレートに気持ちを刺激され、涙することは可能だし、劇場でも初見でおそらくは原作未読の女子たちが、出合いから離別、そして再会の物語に心動かされ、涙ぐんでいた。その意味では青春を語ったストーリー。冒頭からセリフに被さって流れるsupercellの楽曲「銀色飛行船」が、最後の最後でアカペラで流れ、そして感動の場面へと行き着く構成の完璧さにも喝采を贈りたくなる。

 もちろん、これは「ねらわれた学園」という作品が原作になったアニメーションだ。眉村卓が1973年に訴えたことは形を変えて残り、描かれては学校内で孤立することへの恐怖を感じ、それと戦うことの勇気を知り、自由とは何でそれにはどんな責任が伴うかを考えることができる。

 逆らっても少なくない見方が得られた関耕児の時代とは違い、異質な存在はコミュニティから排除されることがまかり通っている。そんな時代に作られた映画から、排除を恐れず誰かを信じ、信じられる関係を作り、繋げ広げていって世界をより良く変えるエネルギーを、パッションを得て欲しいもの。それでこその「ねらわれた学園」なのだから。


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