NARUTO−ナルト−外伝 〜七代目火影と色の花つ月〜

 週刊少年ジャンプで長年連載され、テレビアニメーションにもなって世界的に大ヒットした岸本斉史の漫画「NARUTO」を、実は読んだこともなければアニメーションを見たこともない身を省みないで、劇場版長編アニメーション「BORUTO−ボルト− NARUTO THE MOVIE」を見に行ったのは、決して強気な眼鏡っ娘が出ているからではありませんと思いますけどどうなんでございましょう。

 おそらく理由の8割くらいはそれだったとしても、別に西尾鉄也という稀代のアニメーターが総作画監督を務めて繰り広げられる激しいアクションに興味があったからでもある。そして見た映画は実に痛快。最初の頃は偉大な父親がそれほどまでに偉大になる過程を知らない息子が、寂しさを隠すように粋がって親に認めてもらいたいと背伸びして、無茶をやってズルもしてと、はた目には感心できない振る舞いを見せて苛立たせる。

 ただ、そうやって重ねられたエピソードの果て、本気を出した父親の凄さを目の当たりにし、一方で自分にも自分を誇れる部分があるんだと気付いた息子が、少しだけ成長していく物語があってその身になって楽しめる。あるいは親の目線から子供の成長というものを確認できる。親子で見られる映画だし、親子で見るべき映画。その意味では細田守監督の長編アニメーション映画「バケモノの子」とも重なるテーマ性がある。

 その「バケモノの子」が、どちらかといえば本当でなくても父親役に立った者に求められる、導き諭し教えつつ諫めもする役割を仄めかしては、そうした立場に立ったとき、自分ならどうするんだろうと思わせるところがあるのに対し、「BORUTO」の方は子は子で悩み迷いながらも親の背にいつか気付いて成長し、親は親で省みなかったことを悔いつつ、それでも本気を見せることでその背についてきてくれると感じて、明日から頑張ろうと自覚する、そんな話と言えば言えそう。

 現代の感覚に沿うようにリアルさを混ぜたことで痛快さが殺がれてしまった感じがある「バケモノの子」に比べて、ファンタジーの世界を舞台にして単純にした分、分かりやすさでは「BORUTO」が上のような印象があるし、アクションのスペクタクル感はやはりアクション描写に秀でたアニメーションとして知られる「BORUTO」の方が上を行く。原作付きではあっても、原作をまるで知らず少年が頑張って忍者として強くなり、ついにリーダーにまで上り詰めた、その子の世代の話といった程度しか分かっていなくても、存分に楽しめるからストーリーとしての強さもある。

 何より眼鏡っ娘のうちはサラダというキャラクターが可愛かったのが最大の優位点。うちはサスケというとんでもない強さを持ったナルトのライバルの娘。でも暗くなく曲がってもいないでまっすぐ育ってパワフルで、見ていてとっても愛くるしい。何より眼鏡っ娘だし。もっとも、そんな性格に落ち着く前にもサラダには鬱屈の時代があったことが、サラダを主役にした岸本斉史自身による「NARUTO−ナルト−外伝 〜十代目火影と緋色の花つ月〜」(集英社、420円)で描かれている。

 時系列的には映画「BORUTO」よりはすこし前、ボルトたちがアカデミーを出て、下忍になってお仕事を始めるようになるにはまだ至っていない、これからアカデミー卒業のための試験を行うというところで、サラダは父親のサスケに生まれてひと目たりとも会えないまま、大きくなってしまったこともあって、自分は本当に両親の子供なんだろうかと疑っている。

 その頃の子供にはよく浮かぶ感情だろうけれど、親に会えていないというのがそんな猜疑心をよりいっそう膨らませていた感じ。おまけに母親のサクラと父親のサスケが写った写真には、自分と同じような眼鏡をかけた女性が1人混じっていた。これがもしかしたら自分の母親かもしれないとサラダは思い込んでしまう。

 そこにサスケが戻ってきているという話も伝わってきて、サラダは友だちの秋道チョウチョウといっしょに、サスケを出迎えに行くナルトたちを追いかけ、そして晴れて対面となったものの、やっぱり生まれる諍いに疑い。でもそんなサラダにナルトは信じていれば、そして繋がっていれば良いじゃないかと諭してサラダは考えを改め、そして成長していく。映画のボルトよりちょっとだけ先に、サラダは親と向き合い自分と向き合っていたということになる。

 映画ではだから、そうした理解が進んだ上で、ナルトに憧れ火影を目指すと決めたサラダが出てくることになるんだけれど、そこに至っていないボルトは父親に反抗して悪事に手を染めるという流れ。外伝の漫画を読んでから改めて映画を見ると、子供が親とどう向き合い、そしてどう越えていくのか、それとも理解していくのかをいろいろな角度から知ることができるだろう。

 それにしてもサラダのあの怪力は、どう考えたってサスケの妻でサラダの母親、うちはサクラの遺伝だろうし、使える忍法もやはり父親のサスケ譲り。それだけでもう十分に親子だと証明されているようなものだけれど、子供は疑うとずっと疑うものだから仕方が無い。あと映画のエンディングのその後で、サラダがミツキという少年からその親の名前を聞いて呆然としていたのは、サラダが漫画の中ですでに当該の人物に出会っていたからだったらしい。なるほど疑問に思って当然、父親なのか母親なのかどっちなのかと。

 あと気になったのはサラダの眼鏡が伊達なのか、といったところで、外したらどんな顔になるかにも興味が及ぶけれど、だからといって素顔を見たいとは思わない、というより眼鏡をけている顔こそが素顔。それが眼鏡っ娘というものなのだとここいに改めて宣言しておく。


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