夢想機械 −トラウムキステ−

 幸福とは人の内にあるものなのだろうか。それとも人の外にあって、人とのつながりのなかに感じられるものなのだろうか。

 自分が思う絶対的な幸福と、自分たちが作り上げていく相対的な幸福。そのどちらを人は目指すべきなのかを、村松茉莉の「夢想機械 −トラウムキステ−」(辰巳出版、1200円)という物語が感じさせてくれる。

 表題にある<夢想機械(トラウムキステ)>という装置は、人間を素材(マテリアル)として使って意識を後退させ、夢の中に生きるようにして、その想念を外に輝かせるようにする一種の美術品らしい。

 もちろん世間的にはご禁制。それを製造しているトロイメライという秘密企業があって、主人公のリュカは奨学金を得て学校を出て、トロイメライで<夢想機械(トラウムキステ)>を作り出す職に就く。物語の冒頭ではリュカが、透明なケースに入って次第に夢の中に融けていく素材(マテリアル)の少女たちと対話している場面が描かれ、カウンセラーのように少女たちの考えを誘導して、幸福のうちに眠らせる仕事の様子が紡がれる。

 まれに夢想機械(トラウムキステ)として定着しないで、壊れてしまう素材(マテリアル)もある。絶対の幸福へと逃がさないだけの現実に抱いていた恐怖。それが表に出て、素材(マテリアル)の少女を壊してしまうことがあるらしい。

 幸福を願いながらも、幸福に溺れられなかった少女は幸福だろうか、それとも…。そんな不安を抱かせたエピソードの先、リュカは前に住んでいた貧民街で知り合い、仲良くなったアミカという少女が、ミラグロスとう大都市のトロイメライという秘密企業の社内にある扉の開いた先にいて、<夢想機械(トラウムキステ)>になろうとしていることを知る。

 本当だったら知人が担当してはいけないし、自分から何か呼びかけるようなことをしてもいけないけれど、見知った顔の登場にリュカはアミカに思わず話しかけ、そのまま上司に黙って対話を続けるようになる。その中ではリュカがどういう暮らしを送って、貧民街のシュラムから大都会のミラグロスへと出てきたかが語られる。

 娼婦の娘として生まれ、娼婦になろうとしてなりきれず、罪を犯してシュラムを逃げ出し、ミラグロスへと出てきてやっぱり娼婦となって、そこからも逃げたいと願ったところに提示された、永遠の幸福に縋ろうとしてアミカは、<夢想機械(トラウムキステ)>になることを承諾した。そんな彼女を、リュカはいずれ、意識の混濁の向こうへと追いやることになる。ここにひとつの迷いが生まれる。リュカに。そしてアミカにも。

 そんなリュカは、シュラムから出てきて学校で学んだ後、仕事に就いたのをきっかけに寮を出て、≪キャッスル・ミトン≫という名のアパートで暮らし始める。訪ねたときに部屋はだいたい埋まってしまっていたものの、リュカは祖父が古書店を営んでいた関係で本への興味と少しの知識があったのを、大家で女性のタマエに買われて図書室をあてがわれ、今はそこで寝泊まりしている。

 そんなアパートでタマエは、それなりな年齢ながらも見たが目が少女ということもあってか、地下アイドルとしてネット配信を行いそれなりの人気を得ていた。そんなタマエの周りには、≪キャッスル・ミトン≫の住人でカメラマンの青年がいたり、妹役を買って出た少年が女装して寄り添っていたり、前に公務員めいたことをしていながらドロップアウトをして、今は引きこもり気味に漫画を描いている女性がいたりして、それぞれに組織から離れ自分自身の力で生きようとしている。

 そうした人々との交流が描かれ、リュカはひとりで生きてきた自分の周囲にある喧噪から自分なりの幸福の形を覚えていく。そこに事件。タマエが演じる地下アイドルに対抗するように、マドンナ・ヴィルギニアと名乗る女神のような偶像がネットに現れ、人々を扇動し始めた。

 世界が飽和状態からなのか、それともどこか末世的だからなのかは分からないけれど、扇動に揺れやすい状況になっていて、そこつけ込むようにマドンナ・ギルヴィニアが扇動した結果、人々が動かされ喧噪が起こったりする。そういう展開の中で≪キャッスル・ミトン≫≫の住人たちが、自分の内面を知り、自分のやりたいことを考え、やれることに挑んでいく展開があって、読むと例えどういう状況に置かれようとも、ひるまず生きていかなくてはと思わされる。

 引きこもり気味の漫画家が、アパートのピンチに立ち上がってスーツ姿で人前に立って叫ぶ場面などは実にかっこよくて美しい。何よりそしてうらやましい。立ち上がれる勇気が。

 そんなリュカの喧噪混じりの日々が綴られながらも、<夢想機械(トラウムキステ)>へと転化を遂げようとしていたアミカとリュカとの関係も続いていく。決して幸福ではなかった少女が、すべてから逃げて楽になろうとしていた悲劇が感じられ、そんな想いを晴らすべく、現実の日々をなげうってでも絶対の幸福に逃げ込もうとしている、一種の諦観が浮かんで切なくなる。

 それでも選んだ永遠の安寧、絶対の幸福を拒絶してまで、アミカが選んだ道があったことが、人間の生きる上での幸福の意味というものを感じさせることいなるだろう。

 安寧ではなくても苦労の中でも死へと向かう旅路でも、誰かと寄り添い誰かに触れら誰かから思われて生きる方が幸福なのだろうか。そういった思い。そこへと至る道筋を示すという意味で、リュカが街で<夢想機械(トラウムキステ)>になろうとしていたアミカと再会する展開は、必要だったのかもしれない。

 アミカが内に見て溺れようとしていた幸福は本当に幸福なのか。リュカが外に得て交流の中からつかみ取っていった幸福こそが、真の幸福なのではないか。そんな問いかけに答えを出すのは読んだ人たち、それぞれだ。

 タイトルになりながらも、<夢想機械(トラウムキステ)>そのものが人間に何をもたらし、世界に何を与えそして、展開にどう関わるかといった部分は、あまり描かれていない。川原由美子の「観葉少女」シリーズのように、それを中心に据えればハードでリリカルなSFになったかもしれないけれど、それを目的とせず人の心を、人の営みを描きたかったとするなら、<夢想機械(トラウムキステ)>そのものにこだわらなかった書き方も正解だろう。

 綴られる言葉が素晴らしい。村松真理として、「三田文学」などで活動してきた人だけあって、言葉の並べ方や選び方が巧みで、読んでいて心にふわっと物語の世界が浮かんできて、揺れる心が迫ってくる。月と太陽の種族が過去に争ったような神話的な設定もあって、それが世界の成り立ち、そして社会の構造にどう影響しているかも考えると面白い。

 そうした設定を丹念に拾い、<夢想機械(トラウムキステ)>そのものの設定も生かして1本、綴ればSFプロパーが読んで堪能できる長編になるかもしれない。そこへ引っ張るか。言葉によって人の情動に迫る文学を極めるか。これからの作家としての活躍が楽しみで仕方がない。

 いずれにしても、過去に100枚ほどの短編しか紡いでこなかった純文学しか書いていなかった人が、長編としてまとまりなおかつ丹精さが崩れない物語を書けることは示された。後はどこかが書かせるだけだ。自分で書けるだけ書くだけだ。


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