萌えの研究

 素晴らしい本が出た。何しろタイトルからして素晴らしい。「萌えの研究」(講談社、1500円)。”萌え”とは2005年に日本を席巻した言葉ではあるが、どちらかといえばアンダーグラウンドなカルチャーの、それも格好良さとは対極にある集団が好んで用いる言葉だ。タイトルに使って決して格好良いものではない。

 それを大泉実成は堂々と使った。元より「エホバの証人」「オウム真理教」といった社会に背を向けた存在にも迫り、その実態を世に知らしめた大泉実成。その彼が挑んだ次なる対象が”萌え”だった。且つそののアプローチも泥臭いものだった、何やら分かったフリをして上澄みばかりをすくい上げては、こんなものありますと見せるだけの週刊誌的ワイドショー的なアプローチを否定した、実にドラマチックなものだった。

 とにかく踏み込む。そして体験する。エロゲーならエロゲーを選び徹夜してやり込み神髄を探る。メイド喫茶なら赴き「お帰りなさいませご主人様」と言われて見る。ライトノベルなら「ロードス島戦記」から「空の境界」から「イリヤの夏、UFOの空」から果ては「撲殺天使ドクロちゃん」まで読み込んで、”萌え”なるものをその血肉へと取り込み咀嚼していく。

 「エホバの証人」には迫れても、流石に「ドクロちゃん」は食い合わせが悪かったようで食あたりを起こし気味だった模様。もっとも大泉実成の10歳になる子どもは、それをことのほか喜び一気に読み終え、そして続きを買って来いと親に命じたとか。感性が何より先にたつ面白い物好きの子どもには、あの徹底したギャグのスピリッツが精神がストレートに伝わるということか。

 あるいは「ドクロちゃん」を面白がって読んでいる30代、40代といった年輩層のの精神は、大泉実成の子どもと同じ10歳程児に等しいレベルということなのか。それはそれで厳しい見解ながらも、あれを面白いと思える年輩者が相当数にいることも事実。”萌え”はそれだけ範囲を選ばずあらゆる世代の感性を左右しているということなのだろう。

 一方で大泉実成による「萌えの研究」は、さらにテーブルトークRPGから「舞−HiME」「ローゼメイデン」といったアニメへと及び進んでいく。最先端のところを実によくすくい上げている感じがあって、これがリアルタイムに生きるルポライターの力量で、過去の傾向から分析するアカデミシャンとは違うと納得させられる。

 リアルタイム性は10年経った時に、同時代的な共感が得られない人が見てこれはいったい何だと訝り悩む面を否めない。対してアカデミズムはより本質的な部分へと迫り抽出し分析しようとする。そのどちらが正しいというのえはない。いま読むべきいまの”萌え”という意味で、大泉実成のアプローチはきわめて正しく、且つ確実に最先端の”萌え”に近づいていと言えるだろう。

 それにしても修羅の路を歩んだものだと驚くばかり。某巨大掲示板で繰り広げられた、キャラクターの”萌え”に優劣を付けていくトーナメントの模様を実況しながら、それぞれのキャラクターの特徴を語る口調には、もはや”萌え”の傍観者としてのルポライターの姿はない。いわゆるオタク層と同様の、”萌え”を嗜み理解する人格がそこにある。

 入り込み体験して語る大泉実成の、実感を伴い語られる言葉の何と説得力のあることか。「萌えの研究」が放つ他のシンクタンクなどがまとめる研究所、商売の種にと書かれたビジネス書との違いはそこにある。これは本気だと思わせるだけのパワーがある。

 もっともはまりながらも冷静な観察者としての人格も保ち続けるのがルポライターの性というものか。”萌え”を探求する旅路の果てにたどり着いた「この国は大丈夫なのか」という疑問の、それは正しくもあり的確で、与えられる様々なコンテンツを”萌えられる”か”萌えられないか”で取捨選択する、自動的な消費者の態度は新たな創造への可能性に懐疑を抱かせる。

 そんな懐疑に立って大泉実成は立ち上がれと呼びかけるのだろうか。たぶんそうはしない。1年の取材を通じてオタクたちといっしょに”萌え”にまみれた挙げ句、身に入ったそうしたものへの理解と共感の心はもはや消え去らない。かつて「新世紀エヴァンゲリオン」の綾波レイに、当時はそうとは思わずとも状況として”萌え”まくっていたのが大泉実成なのだ。

 会えば語ろう。同志として。共に堕ちよう。冥府魔道へ。


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