墜ちたイカロス モダン東京4
 パイロットという職業は、今でも少年たちの憧れの職業ナンバー1になっているのだろか。サッカー選手に官僚に編集者と、憧れの対象も随分と様変わりしているように感じるが、すくなくとも昭和と呼ばれた時代までは、パイロットは子供にとっても大人にとっても、確実に憧れの職業ベスト3に入っていたように思う。

 たとえその憧れが、高い収入を得られるという金銭的な面に高い比重の置かれたものであったとしても、自分の腕1本で飛行機を操って、大空を自由に飛び回れるんだという解放感、そして征服感を得られることが、人々をパイロットに引きつける要因となっていた。まして飛行機がまだ一般の乗り物として普及するはるか以前なら、人々の憧れの比重は、より解放感、征服感にかかっていたといえるだろう。

 飛行機が巨大な翼の下に死を積んで東京上空に出現する、わずか10年前。飛行機は、重力からの解放と大空の制服を約束していくれる夢の乗り物だった。しかし忍び寄る戦争のきざはしが、飛行機を通じた征服の夢を、大空から再び地上へと向けさせるようになっていた。藤田宜永が書き継いで来たモダン東京シリーズの掉尾を飾る第4卷、「墜ちたイカロス」(朝日新聞社、2400円)で、秘密探偵の的矢健太郎は、モダン東京が壊滅への階梯を上り始める直前の昭和9年を舞台にして、飛行機に託した人間たちの、熱い情熱と暗い欲望とが交錯した哀しい事件に挑む。

 千葉県松戸町から東京へと向かう途中の河川敷で、的矢は飛行機で不時着した1人の男を拾う。かつて飛行気乗りとして勇名を馳せたその男、南谷日出男は、事故によって断たれた大空への夢を捨て難く、北海道で金鉱を探す山師をしていたが、東京に置いていた女房のことが忘れられず、ついつい飛行機を盗んで東京へと舞い戻って来たらしい。

 いったんは南谷を東京で下ろした的矢だったが、南谷が訪ねた女房のアパートで男が死んでいたのを見つけた南谷が、的矢のもとに転がり込んで来たことで、日本の航空産業を揺るがすことになる産業スパイ事件へと巻き込まれていく。

 女房のアパートで見掛けた飛行機の模型の出所を頼りに、ある飛行機製造会社を訪ねた的矢は、そこで夢で想像した飛翔感を飛行によって得たいと望む扇原直人と、飛行機を国家の興隆に不可欠な道具として見る扇原英治という兄弟と知り合う。調査が進むうちに、的矢は事件が直人が秘密の研究室で没頭している発明に端を発したものではないかと気が付く。

 兄にすらその内容を明かさない発明は、果たして飛行機の性能を格段に向上させる技術なのか。扇原のライバル会社で飛行機作りを儲かる事業としか考えない社長の登場、飛行機に乗ってスピードの限界に挑みたいと夢見ている青年、細かい理屈は抜きにして、ただ飛行機乗りとして再び大空に舞い戻ることだけを夢見ている南谷。飛行機という乗り物に馳せる千差万別の思いのなかで、的矢は1人愛機の「シトロエン3C」を駆って、ネオンに輝くモダン東京を飛び回る。

 「僕は今でも、飛行機乗りであることを誇りに思っているし、また現実のフライトも愛しています。ですが、空を飛べば飛ぶほど虚しくなるのです」。忍び寄る戦争の足音に、大空が夢を馳せる場ではなくなり、飛行機が夢を実現させる道具ではなくなって来ていたことを、明晰な直人は感じていたのだろう。何者にも屈しない正義の自由人、モダンボーイ的矢が、そんな直人に親近感を抱いても不思議ではなかった。

 モダン東京シリーズは、この「墜ちたイカロス」で幕を閉じる。華やかさが消え去った戦時下の東京では、いかなモダンボーイとも活躍することは出来なかったのだろう。だた1つだけ思う。大空を多い尽くしたB−29の下で、的矢は夢に殉じた直人の言葉をどんな気持ちで噛みしめたのだろうか。いや、機を見るに敏な的矢のことだ。暗い時代を持ち前のバイタリティーと行動力で飄々を息抜き、戦後の焼け跡を再び愛社のシトロエンを駆って、走り回っていたに違いない。横に愛する蓉子を乗せて。


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