哀しき偶然


 100年とか1000年とかいった長いスパンで歴史と見た時に、1年や2年の時間の差が、時代の空気にどれほどの影響を与えているかなんて、ほとんど考えたことはない。しかし、自分が生きてるこの時代に関しては、1年どころか1カ月、1日の違いですら、時代の空気に大きな変化をもたらしているように感じる。

 例えば1989年と1990年。バブル景気に沸き立って、年末に株価が最高値を付けた89年と、株価が大暴落を始め、今に至る不景気へとなだれ込んでいった90年とでは、確実に時代の空気が違っている。仮に10年後、20年後になって、80年代後半から90年代前半へと至る時代を描いた小説が出てきたとしても、時代の空気の変化が描けていなければ、そうした時代をつぶさに経験した人たちの共感を得ることは難しい。

 「明治は遠くなりにけり」ではないが、大正の末に生まれた人が70を過ぎるようになると、昭和初期という時代をリアルタイムで経験した人の数も、次第に少なくなっている。しかし明治を経験した人たち、大正デモクラシーを経験した人たちに比べれば、その人数は確実に多い。同時代者が多いということは、それだけ厳しい目が待っているということ。時代小説や明治維新の小説を書くのとはまた違った、綿密な下調べが必要となるだろう。

※     ※     ※


 「蒼ざめた街」で開幕した藤田宜永の「モダン東京シリーズ」も、「哀しき偶然」(朝日新聞社、2400円)で第3作を数える。新聞の書評欄で、巻末に付けられた参考文献の多さかから見て、相当な下調べの上で書かれた小説であることを評価する旨書かれていたのを読んだ。今は失われてしまった地名を使い、建物の名前、外観、内装を綿密に描写した場面を読むだけでも、相当量の資料にあたったことがうかがえる。主人公の的矢健太郎がシトロエンを駆って走り回る東京のリアルさは、同時代の人たちにも、十分に共感を持ってもらえるはずだ。

 また、昭和6年春が舞台となった第2作の「美しき屍」と、昭和7年11月が舞台となった第3作「哀しき偶然」との間には、時代の空気に決定的な変化が生じている。昭和6年9月の満州事変勃発に始まり、上海事変、血盟団事件、犬養毅首相の暗殺といった具合に、日本の右傾化、軍国化を象徴するような出来事ばかりが起こった。

 大正デモクラシーの余韻に輝く東京を舞台にしていた「モダン東京」シリーズは、巻を追うに連れて、ひたひたと迫り来る戦争の足音に、暮色を次第に濃くして来た。「哀しき偶然」では、昭和6年と7年との間に横たわる空気の変化を敏感に察知し、うまく吸い込んでいる。

※     ※     ※


 呉服屋の若旦那にたのまれて訪ねた女から、ガードを頼まれることになった的矢健太郎は、女の家に忍び込もうとした少年窃盗団を捕まえ、いっしょに生活することになった。窃盗団のリーダー格の少年だけは、なかなか的矢になつこうとしないが、女の家に再度押し入ろうとして、そこで女の刺殺体を発見してしまい、的矢に助けを求めて来る。少年たちといっしょに、事件の真相を探る的矢だが、行く手には謎の組織が暗躍し、その背後には軍国主義の台頭を許す国家的な陰謀が渦巻いていた・・・・。

 一介の秘密探偵が活躍したところで、日本全体の軍国主義化を押し止めることはできないし、著者もそんなことを的矢健太郎に期待している様子はない。しかし少なくとも、時代の流れに逆らいもせずに身をゆだねていくような男には、的矢健太郎を描いていない。役人主導で進む都市の近代化を気に入らないと言わせ、年上の主人への尊敬の念と、自分に恋いこがれているピアニストへの恋愛の情との葛藤に苦しむ女には、冷たく言い放つようでいて、実しっかり女の本音を引き出して、前に進むきっかけを与えている。

 さらに時代が下った次巻「墜ちたイカロス」でも、一段と強まる軍国主義のなかで、的矢健太郎も最後の「東京モダンボーイ」として、何者にも媚びない芯の強さを見せてくれることだろう。


積ん読パラダイスへ戻る