赤い夕陽のあとに

 新聞記者にとって、とくに経済部記者にとって、日銀詰めはエリートへの階段の、何段目かに当たるといわれている。しかし、企業ニュースが多く、また人員も少ない私が所属する新聞社では、日銀担当はローテーションの中の中継地点に過ぎない、悪く言えば閑職にも近い位置付けだった。私が26歳で日銀詰めとなったのも、単に前の担当が証券で、同じ金融関連業種だったからといった、他愛のない理由だったに違いない。

 当時日銀は、「平成の鬼平」と佐高信氏に評せられた三重野康氏が、総裁を務めていた。しかし、かつてのようなバブル退治の立役者といったイメージは、既に過去のものとなっていて、未曾有の大不況へと突き進む中で、金融政策を誤って不況を拡大させた最大の責任者として、糾弾され始めていた。

 新潮社から出た初のエッセイ集「赤い夕陽のあとに」(1300円)には、大きく変わった自分への評価について書いた一文「物指しの差」が収録されている。三重野氏はこう振り返る。「私は、中村吉右衛門さんの演ずる鬼平ファンであったので、大変光栄に思った。しかし同時に、大変迷惑にも思った」。ここで持ち出すのが、金融政策に臨む中央銀行総裁としての見方、すなわち「物指し」である。記者会見の場でも散々に持ち出した「インフレ無き持続的成長」に、日本経済を載せるためには、一時のバブル退治といった短い物指しではなく、もっと長い物指しが必要になるというのだ。

 住宅専門金融会社、いわゆる住専問題が火を噴くなかで、金融政策の誤りを糾弾する声が巻き起こっていて、三重野氏にも大量の火矢が浴びせられている。三重野氏の物指しに、かような事態が想定されていたのかと考えると、多分これほどまでに大きな問題が発生するとは、想定していなかっただろうというのが、私の見解だ。もっとも想定していたとして、日銀に大手都市銀行や長期信用銀行を指導・監督する権限が備わっていたとはいいがたく、市中銀行の失策と、大蔵省の判断ミスの責任を、金融政策を司っているからといって、日銀に押しつけられるのは、迷惑な話かもしれない。

 エッセイ集には、総裁在任中の金融政策に関する文章は、これくらいしか収められておらず、残りは満州での幼少時代、東京での学生時代、日銀入行後の海外支店や国内支店の思い出、日銀総裁として訪れた海外での出来事といった、比較的私(わたくし)の部分について書かれた文章が連ねられている。文体は平明で、かつ機知に富み、漢籍の素養高い文人総裁としてのイメージを、存分に醸し出している。ともすれば「タレント本」に見られるかもしれないが、エッセイとしても素晴らしい出来だと、僭越ながら思っている。

 最後に要望をひとつ。日銀詰めの記者を集めた暑気払いが、日銀の中で開かれた折、一高時代の同級生だった清岡卓行氏の「詩礼伝家」が、講談社文芸文庫から刊行されたばかりで、中に自分のことが少し書かれているから、新聞で宣伝してくれ、もし宣伝してくれたら、本代は自分が返すと言われた。ならばと翌々日の新聞で、総裁の似顔絵付き(小生の作、下手なのよこれが)で記事にしたが、その後いっこうに本代をくれる気配がない。記事が出てしばらくは、日銀10階にある本屋で、ちょっとしたベストセラーになっていたから、売り上げにはおおいに貢献したはず。まあ、前日銀総裁に、貸しを作った気になっているのもいいものだが。

積ん読パラダイスへ戻る