メタモルフォシス(変態)

 「神代の時代の争いが、時を超え、美しい少年を依代として、仮想現実の世界へと蘇る。半身に蝶の入れ墨を施し、母を見捨てた父親を追いつめる少年と、そんな少年に反発しながらも惹かれていく女。激しく愛を交わした次の瞬間、少年は女を突き放して手練の男たちとの熱いバトルに身を投じる・・・・」

 こんな設定を前にして、あなたならどんな物語を創造するだろうか。どれをとっても魅力的なシチュエーション、そしてガジェット群。組み合わせようによっては、伝奇バイオレンスにも、耽美SFにも、古代ロマンスにもなるだろう。全部で10巻、いや20巻にもなんなんとする、広大無辺な大河小説を創造する作家だっているかもしれない。現に「古代転生ファンタジー」と銘打って、10巻近くまで巻を重ねながら、未だ転生を果たせずにいるファンタジーだってあるくらいだ。

 実際のところ、これだけの設定をこなそうとしたら、相当な分量の小説が必要となってくるはずだ。けれども弥生南という作家は、これらすべての設定を、「メタモルフォシス(変態)」(鳥影社、1400円)というわずか211ページの小説に、思いっきり詰め込んでしまった。果たせるかな、魅惑的なシチュエーションも、次々と繰り出されるガジェット群も、すべてが希薄で断片的なイメージしかもたらさない。小説が本来目指していただろうと想われる、神々たちの時を超えた争いという壮大な設定や、その争いに巻き込まれた少年の哀しくも激しい運命のドラマにも、読者は共感を覚える暇なく、翻弄され流されていってしまう。

 経歴によればこの弥生南という作家は、名古屋在住で、小説誌「ソプラノ」を主宰し、文芸誌「TEN」の編集を務めるかたわら、ブティック経営や舞踏家なども業(なりわい)としている多才な人らしい。著作も「カタルニアの風」ほか、幾つかあるという。

 「メタモルフォシス(変態)」はこのうち「ソプラノ」に発表された小説ということだが、あとがきによればこの「ソプラノ」は、弥生南の個人誌らしい。つまるところは自分で書いて自分で編集し、他人の目を経ずして公開された、一切のフィルターを通していない原液のような小説なのだ。鳥影社という出版社が、本にする過程でどれだけのシェイプを施したかは予想の限りではないが、おそらくは一切の手直しを加えていないであろう。

 「あまりにも目まぐるしく古代と近未来、最古の歴史書とバーチャル・ドームが迷路のようにいりくんで、超スピードで展開していきますから、ついてこれない方もいらっしゃるかもしれませんね。でもこんな世界こそが弥生南のミステリー・ワールドなのです」(「あとがき」より)。超スピードは確かにそのとおり。ついてこられない人がいるかもしれないというのも事実であるから、その意味で作者の目論見は、見事に成功していると言えるだろう。

 けれども小説家が、あるいは物語作家が、読んでもらう相手に伝わらない小説や物語を書くことに、どれだけの意味があるのだろうか。孵らない卵を暖め続ける行為に、どれだけの人が関心を示してくれるのだろうか。

 蝶の入れ墨を半身に施した「マリポーサ」という主人公の魅力、美しく激しく猥雑で野卑な性描写の数々。それだけをピックアップすれば、弥生南という作家がただ自己満足のためだけに小説を書いているわけではないことが解る。あるいはその自己満足に、他者を引き込むだけのパワーがあることが解る。

 だからこそ、過剰なまでの設定を御しきれないまま世に出した作者に、悔しさにも似た怒りを覚え、そのままパッケージ化してしまった出版社に、尽きせぬ怒りを覚えるのである。スーパー・ファミコンをどこの誰が「スパファミ」などと略すのか。スタジャンをどこの誰が「スタジオ・ジャンパー」の略だと思うのか。ちょっとした注意でどうとでもなる描写が、ちょっとした不注意で読者の興を大きく殺ぐ結果となっている。もったいないと言うしかない。

 「そこまで言うなら自分で書けばいいだろう。この設定を使って」−よし書いてやろうじゃないか、そう思っても、小説家としての才をいささかも持ち合わせていない自分には、「メタモルフォシス」以上に断片的で、梗概的で、網羅的な文字の羅列しが物にできそうもない。

 だからこそ−そう、だからこそ弥生南には、対象を消化し、昇華させた上でこれら魅力的なモティーフを小説に仕立て上げてもらいたいのである。原液はすでにある。あとは薄め、あるいは別の原液を足し、さまざまなエッセンスを加えてカクテルに仕上げる作業だけだ。

 さあ、バーテンダーよ、今すぐ名乗りを上げなさい。


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