免罪符に

 誰によっても救われないというか、そもそもが救いなんてない世の中に、己が信念だけで生き抜く必要性という奴を訴えているのだろうか。目黒条の小説「免罪符に」(角川書店、1500円)は。

 可視子という名のOLが主人公。昼食のためにファストフードに並んでいた時、股間というか性器からぎょろぎょろと何かが出てきたところから、波瀾万丈な人生の幕が開く。

 決してペニスなどではなく、例えるならば膣が裏返ったものらしいけれど、奥で子宮とどうつながっているかは分からない。医者に行くと引っ込んで元通りになってしまうから、病気かどうかも診断ができない。

 出ては引っ込む繰り返しに埒があかなくなった可視子は、昔ちょっと知り合って、今は疎遠になっていた女医のところへと出向き、股間から垂れ下がる物体を看てもらう。その上で、病気とは違い治療が難しいものならば、だらりと外に垂れ下がった時でもそれなりに見えるよう、人工皮膚でくるみ、模様を描き込む手術を施してもらう。

 こうしてどうにか日常生活に戻った可視子。けれども、ふとしたことから知人の女性に引っ張り込まれた編み物教室が、実は宗教にも似たスピリチュアルな組織で、沐浴を強要されて裸になった時、股間から垂れ下がったそれを見られ、教祖の候補にまつりあげられてしまう。

 売春のような奉仕を行っていたその組織で、それなりの地位を得ながらも、やがて組織は摘発されて壊滅。かろうじて逃げ出し、金は手に入らず行き場を失った可視子は、別の組織で売春を再開すものの、すぐにそこにもいられなくなり、流れ着いた地方で舞台に立っては、垂れ下がるそれを出し入れする芸を見せたら、なぜか大評判になってしまった。

 スターへの道まっしぐら。そこにQQなる独裁者が収める国からお呼びがかかり、危険を承知で金を求めてその国へと渡って、さらなる驚異の体験を重ねた果て。どうにもこうにもならないような、切羽詰まった状況に陥る、とてもハッピーエンドとは言えそうもない終幕を迎えることになる。

 「カルトの島」の作者が描いただけあって、可視子が誘い込まれた新興宗教めいた団体や、可視子自身がカリスマとなって繰り広げるイベントの描写は、なかなかの説得力を持つ。不思議で奇妙なふるまいをしながらも、人が集まってしまう破天荒な状況であるにも関わらず、そういう事態も起こり得るかもと思わされる。実際に起こっているのだし。

 とはいえ可視子に起こった出来事と、その後の数奇な運命は、リアリティさで言うならどこかに無理が見える。それなりな地位を築き、金も得ながらどうしてQQという独裁者の元へと向かってしまったのか? そんな謎も浮かぶ。

 想像するなら、あまりに奇異な体となってしまったことで、一般の常識の範疇でおさまってしまうことに不安があって、さらに奇異な状況にあってこそ、自分の奇異さも中和されると願い、走ってしまったのかもしれない。

 エスカレートし続ける世界では、誰も平凡でなんかいられない。そして極限を超えてしまって振り向いて、広がる荒野の呆然と立ちすくむ。平穏が崩れ、当たり前が当たり前でなくなりつつある現代に、いずれ訪れるかもしれないリアルを先んじて見せてくれたのだと、考えてみることも可能だろう。

 女性に出来る擬似ペニスという話では、松浦理英子の「親指Pの修業時代」が、女性のなかに潜む男性性というものの顕在化した形として、親指にできたペニスを描いていた記憶がある。

 対して目黒条の「免罪符に」では、垂れ下がった擬似ペニスは、ペニスでもなければ裏返った女性的な特徴のシンボルでもない。どこまでも当人にとっては無様で不気味な存在。迷惑ではあっても、解放の象徴といった前向きに捉えられる要素を持たない。

 仕方なく受け入れても、それを誇りに思ったり、何かになぞらえたりできない。かといって切り捨てることもできず、引きずったままで流されながら生きていくだけ。それならば逆らう必要なんてない、ただ流されていけば良いのだと、割り切って世界を見つめ、打算の中に身を処していこうという、こぢんまりとした人が多い現代が見えてくる。

 なるほど、だからこそ異形がどっちつかずにあった生を肯定する、一種の免罪符になるのだという、どこか打算的なニュアンスで可視子に起こった異様な事態を捉えた物語に、「免罪符に」というタイトルが付けられたのかもしれない。

 四面楚歌のピンチに陥ったあとの可視子が、あの後にいったいどうなったかのかに、誰しもが興味を覚えそう。ぎょろりと垂れ下がる袋を露わにして、迫ってくる男たちに見せつけ、その場をしのぎ、泥まみれになってもへこたれず、しつこくしたたかに生きて生き抜いていったと思いたいが、果たして。


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