名被害者・一条(仮名)の事件簿

 名探偵のいるところ、難事件や怪事件があるのは世の中の決まり事。そもそも難事件や怪事件がなければ、それを解決して名声を得る名探偵は存在し得ない。つまるところは共犯関係。その片方が、犯罪を防ぐ名探偵であるところが面白い。

 違った。名探偵は事件は解決しても犯罪は防がないのだった。防いだら難事件にも怪事件にならないし、そうした事件を解決できず、結果として名声も得られない。だら名探偵は事件の匂いを嗅ぎつけながら、事件を止めには入ることなく、起こった後に絶妙のタイミングで現れる。なるほど名探偵という仕事、これでなかなかに難しいものなのかもしれない。この社会で滅多におめにかかれないのも仕方がない。

 それに比べれば、猟奇的だったり驚異的だったり、残酷だったり端麗だったりと、そんな死に様をさらして世間の好奇を集める事件の被害者なら、名探偵よりも容易にこの世の中に生まれていうな気がする。

 金田一耕助はひとりでも、湖に逆さに刺さったり釣り鐘に隠されたり、密室で事切れたり鍾乳洞で惨殺されたりと、不思議で異様な死に様をさらした被害者は、何人も何十人も登場する。そのいずれもが歴史に名を刻む名被害者ぶり。「名探偵には及びもせぬが、せめてなりたや名被害者に」という言葉すら生まれそうだ。

 ただし、使い捨てのように殺されてしまう名被害者は、その意味で名探偵のようには容易に会えないかもしれない。名被害者として名をとどろかせた時点で、すでに死んでしまているからだけれど、そんな矛盾を易々とクリアしてしまう、画期的にして超越的な存在が現れた。

 山本弘の「名被害者・一条(仮名)の事件簿」(講談社ノベルズ、840円)に登場する一条(仮名)という女子は、何度も何度も殺されそうな目にあっては、相手がしくじって命をつなぎ、15歳の高校生になった今も健在のまま、日々の暮らしを送っている。もちろん彼女を狙う殺人事件は止まった訳ではなく、その日も通っている武術道場の師匠の妻が、一条(仮名)を山へと誘い出しては、バラバラにして別の事件をごまかそうとする。

 といっても和服で山に上がってきたり、DNA鑑定をすればすぐにバレてしまいそうなごまかしを平気でしようとしたりと、抜けたところがあって一条(仮名)は結局、師匠の妻には殺されないで帰還する。他の事件も同様に、殺されそうになっても結局一条(仮名)は殺されない。

 それどころかストーカー気質で、一条(仮名)を美しい姿のまま氷漬けにしようと企んだ犯人が、かつて何度もピンチに陥った一条(仮名)を、愛するあまりに助けていたことを告白する。そうやって一条(仮名)は危機を逃れ、生き延びてきた。

 どれだけ危機になっても、決して殺されない被害者を、名被害者中の名被害者と呼ぶべきなのか。もはや被害者ですらなく、相手に殺人を意図させる間接的な加害者と言うべきなのか。どこか不思議な転倒が繰り広げられては、加害者だけでは成り立たない殺人事件というものにおける、被害者の共犯性を示唆する。被害者にとっては迷惑な話ではあるけれど。

 もっとも、それでは面白い話にならない。名被害者も名加害者も名探偵も存在し得ないような、平穏な世界を描くのはとてつもなく難しく、インパクトも弱くなってしまうミステリというカテゴリが持つ、どこか背徳的で冒涜的な立ち位置。なるほど、だからこそ人はそうしたダークな部分に憧れ、ミステリを好んで読むのかもしれない。もっとも。

 「名被害者・一条(仮名)の事件簿」は、ミステリというカテゴリの枠を易々と踏み越えて、驚嘆の地平へと飛躍していく。幾度となく襲われても、決して命を奪われない名被害者中の名被害者とはつまり、どういうことなのかという命題。それが、一条(仮名)の周辺のみならず社会を、世界を、宇宙をも飲み込んでひとつの法則を作り上げる。それは。

 それは読んでのお楽しみ。絶対とはつまりこういうことなのだという逆説を、見せてくれるところに想像力のその先を描く、山本弘のSF作家としての力量を見せ付けられるだろう。

 もちろん、名被害者であるのは一条(仮)であって、彼女さえ名被害者であり続けるならあとはどうなっても良い訳で、それが世界そのものに波及するか、もっと別の世界を含んでの存立となるかは今もって不明。ただこうして、今なお世界が続いていることを思うと、一条(仮名)はこの世界に優しい人だったのだろう。

 そういう世界を一条(仮名)が選んだ理由に当たるかもしれない、一条(仮名)にお兄ちゃんとして慕われた、語り手の男性の頑張りに喝采を贈ろう。


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