マザコン

 子として生まれて来た以上は、どんなにあがいたって親からは逃げられない。若い頃ならまだしも、だんだんと歳を取ってくると、存命ならばそれ以上に歳をとっている親に絡んだなにがしかの事態が降りかかってくる。

 そう考えると億劫になる人も、決して少なくないだろう。人の道としては億劫になるなどとんでもないこと、孝行を行い育ててくれた労に報いるべきかもしれない。けれども、長く離れて暮らすようになって、家族が出来たり、仕事に取り組んでいたりする時にふりかかって来るその他の諸事を、大事と思うことは難しい。

 あるいは、核家族化が進んで親子孫と3代続けて住むことが少なくなっている現代。親に降りかかる事態を、親の親にふりかかった事態を眺め見て、心構えも含めて学んでおくことができなくなっていることもあって、いきなりやって来る親の事態に、心も体も準備不足のまま対面して、悩んで惑っているうちに不幸な事態へと至ったりする。

 角田光代の「マザコン」(集英社、1400円)は、そんな親のとりわけ母親がらみの出来事なり、思い出がなにがしかのモチーフになっている作品ばかりが入った短編集だ。読むほどにああそうなんだ、いつかこういうシチュエーションに直面しなくてはならないんだという思いを誘われる。

 知り合ったばかりの女性と電車で熱海へと行き、そこから大島へと行こうかどうしようかと迷っている男が出てくる「空を蹴る」。しばらく前、離れて住んでいた母親に認知症が出てしまい、病院に入っていた。誰もいなくなった実家になぜか男は忍び込んで、母親が取り置いていた着物や宝飾品を漁りだしては、質屋に二束三文で売り払って金に代える。

 心の支えにしていた訳ではなかった。けれども、生きてきた中でひとつの重しになっていた母親という存在の崩壊を目の当たりにした時に、男の中で何かやるせなさに似た気持ち、悔しさに似た思いを芽生えさせて、不孝の行為と走らせたのかもしれない。

 「雨をわたる」という話では、若い頃から筋金入りの潔癖性で、ラーメン屋に入ってもカウンターにもやし1本落ちていたら、そこでは食べられないと怒った母親が、なぜか独り暮らししていたマンションを売り払って、フィリピンに移住すると言い出した。

 不潔さなら日本なんて眼じゃない場所に、どうしてと止めても聞かず移住していった母親の様子を見に娘が行くと、小ぎれいなホテル風のマンションに住んで、日本食を売っているスーパーに行きどこにも寄らず返って食べては、衛星放送で日本のプロ野球を見る生活を送っていた。

 日本にいる時にはまるで野球になんて興味がなかった母親が、テレビのチャネルを現地の放送に変えるとすぐに元に戻してしまう。つき合う相手は近所のクラブに集まる日本人ばかり。フィリピン人が集まる場所には近寄ろうともせず、頑なに日本での暮らしの延長線上を、日本にいた時以上に続けている。

 そんな母親の排他的な姿にどうしようもない苦さを娘は覚えて戸惑う。生きる手本となって欲しい人間の狭量さを目の当たりにして、憤然としたとでも言うのだろうか。

 「ふたり暮らし」では、いい歳になっても母親と同居している娘が、何万円もする高級下着を買って、母親の前で着替えてみせたりする仲むつまじさを見せている。もっとも、かつて母親が娘の結婚相手という男の実家の酒屋に行って縁談を進めていた最中、相手がやや乱暴な言動を見せたことに怒り、娘を連れ帰ってしまい娘もそんな母の憤りに冷静さを取り戻し、結婚を破談にしたことがあった。

 表向きは恨みのような情念は起こっておらず、むしろ人生を考え直させてくれた英明さを母親に感じているようにすら伺える。けれども、30歳を過ぎた女が、あてつけのように同居しては高級下着に着替えて見せたりするその行動の内奥に、くびきから解き放してくれなかった母親、娘としてはそう信じることで自分の弱さを覆い隠したい母親への憎悪がのぞいているようで、身震いが浮かぶ。

 表題作の「マザコン」では、姉妹のように仲の良い妻とその母親の関係に、ウンザリしていた気分を逆なでするように妻から発せられた「あなたはマザコンよ」という言葉が、夫を突き動かす。浮気をして、それがバレて憤る妻にごめんと謝る夫。そこへと至るプロセスで、互いに自立していると確信していた夫の心にあった、再婚して自分をまるで省みなくなった母へのわだかまりが蘇って来る。

 親であり、手本であると同時にくびきであり、圧力でもある母親という存在を、避けて通れない時が迫っている。すでに母親を失い、さまざまな悔いを抱きながら角田光代がつむいだ物語が、まだ間に合うそんな世代に向けて突きつける、優しさと残酷さを合わせ持った短編たち。読み終えた時、指が実家へのダイヤルを押そうと動く。


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