メイの天使
AN ANGEL FOR MAY
 過ぎ去った時に、ほんの束の間巡り会うことができたとしても、失ったものを取り戻すことは絶対にできはしない。

 夢の中で、あるいは物語の中で、時を超えて過去に辿り着くことができたとしても、そして夢を見た、あるいは物語を読んだ子供たちが、過去を変えて失ったものを取り戻すことに成功したとしても、いつか気づく。わたしたちが暮らすこの世界、この時間において、過去は絶対に変えられないのだということを。失ったものは取り戻せないのだということを。

 そんな痛く切ない現実を知っても、希望を失う必要なんて絶対にない。すべての子供たちには未来がある。さまざまな可能性を秘めた無限にひろがる未来が待っている。過ぎ去った時に囚われ、失ったものを懐かしがっているなんて暇があったら、これから始まる未来をせいいっぱい生きるんだと、メルヴィン・バージェスの「メイの天使」(東京創元社、石田善彦訳、1400円)が教えてくれる。

 イギリスの片田舎、コールデイルに母親と暮らす少年タムは、近くの丘の麓にある廃屋の中で、一匹の犬と、暖炉の炎でトーストを焼く一人の少女の姿をみかけた。その一瞬、廃屋だったその部屋にはカーペットが敷き詰められ、窓辺にはヒナギクのはいった花瓶と額にはいった写真が飾られ、壁では振り子時計が時を刻んでいたが、次の一瞬、すべてはもとの廃屋へと戻り、したたり落ちる雨にうたれながら、タムはただ、消えゆくトーストの臭いだけを感じとっていた。

 廃屋を出た少年は、ボロボロの服をきて虚ろな眼をした、老いたバッグ・レディと出会う。廃屋の中で出会った、そして少女がウィニーと呼んだ犬は、なぜか老女にもなついていて、タムが老女を悪し様にののしると、ウィニーはとたんに牙をむき、タムに向かってうなり声をあげた。しばらくして老女は、コールデイルのそこかしこに姿を現すようになり、子供たちから”おんぼろロージー”と呼ばれて、からかわれるようになった。誰に話しかけられても何も応えず、虚ろな眼をして動きまわるロージーだったが、タムに話しかけられた一瞬だけ、幻のような笑みをうかべて、うれしそうな表情を見せるのだった。

 その日タムは、別に家庭を作って出ていった父親と、会うことになっていた。母親に反発しながらも父親を許せないタムは、家を抜け出てロージーに会い、ロージーがねぐらにしている廃屋の暖炉の中へともぐり込む。ふいに床が消え、暗闇を落ち、やがてタムがたどり着いた場所は、ニワトリがエサをついばみ、強烈な堆肥の臭いが漂う農場だった。そして向こうから、豚にまたがって叫び声をあげならが、前に廃屋の中で見た少女が近づいて来た。

 メイをいう名のその少女の生い立ちを、タムは農場で働くアリスン・ナッターという農夫から聞かされることになった。ドイツ軍による空爆で家を焼かれ、家族を失ったメイは、地下室の暗闇で数日間を耐え、そのまま自らを暗闇の中へと封じ込めてしまった。収容された施設でも、虚ろな眼差しで空間を見続けるだけのメイを見たナッターは、逡巡の後にメイを農場に引き取って、自由気ままに振る舞わせることにした。

 誰にも心を開かなかったメイが、犬のウィニーにだけはなつき、農場を駆け回るようになった。そして1990年代から50年の時を超えて現れたタムにだけは、心を開き、言葉を交わすまでに快復した。ずっとタムと友だちでいたいと願うメイ。けれどもタムには、1990年代に残して来た母親がいた。やがてタムは、メイをウィニーとナッターのもとに残して、もといた時代へと戻る。そして、メイとナッターを襲った哀しい運命を死って絶句する。

 ロージーに会わなくては。ウィニーに過去へと連れていってもらわなくては。そして失ったものを取り戻さなくては。けれども再びたどりついた過去で、タムは決して変えることのできない時の残酷な摂理を知る。そして過酷な運命に翻弄された1人の哀しい女の姿を見る。変えられない過去の変わりに、これから始まる未来に向けて、タムはやがて1つの決断を下す。

 聡明なあなたらな、小説の冒頭で登場する少女と老女の奇妙な一致に、きっと気がつくことだろう。そして心優しいあなたらなら、メイを救いに過去へと跳んだ少年の活躍がもたらす、美しく明るい結末に、きっと胸躍らせることだろ。だが、メルヴィン・バージェスはあなたの期待を裏切って、過去を美化して見せることをきっぱりと拒否する。過去は変えられないのだ、失われたものは取り戻せないのだと冷酷に告げる。

 しかし、もっと重要なことをバージェスは語りかけている。取り戻せなかったものを、これからはじまる未来のなかで、造り上げていくことの大切さを。過去を変えて今を幸せにするよりも、今を変えて未来を幸せにすることの素晴らしさを。

 残された未来より、失った過去の方が多くなってしまった大人たちが、過去にすがって生きるのは構わない。だがそんな後ろ向きの感情に、果てしなく広がった未来を持った子供たちが、毒される必要なんってまったくない。天使となったタムによってメイの止まっていた時計を動かしたように、子供たちが「メイの天使」を読むことによって、下らない因習に縛られて停滞する時代を、激しく揺さぶってくれることを、今は心から願ってやまない。


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