マックス・マウスと仲間たち
MAX MOUSE AND HIS FRIENDS


 ディズニー・アニメに関するエピソードを2つほど。1つは僕の弟に関することで、弟といっても双子だから歳もいっしょなら育った環境も一緒、なのに僕はアニメが大好きで今もアニメを見続けていて、弟はアニメなんかほどんと見ないで大人に育った。二卵性でちょっと弟の方が細面で女性に人気があったってことがあるのかな。ともかく普通に育って普通に結婚した弟が、どういう訳か子供が生まれたとたん、ディズニー・アニメの大ファンになってしまった。もちろん子供に見せるために、だけどね。

 もう1つはある漫画家さんのお話。路上観察学とか大事件のワイドショーのビデオ撮りとか、とにかく凝ったことの大好きな漫画家さんで、子供が生まれた時に絶対にディズニー・アニメを見せないと決めて、以来一切のディズニー・キャラから子供を隔絶して育てて来たらしい。理由はたぶん、「ディズニー=可愛い=善」といったイメージに洗脳されずに育った子供が、世の中にはびこるディズニー・キャラクターに、大きくなってどんな反応を見せるかを遠大な計画の後に確かめたかったからなんだろう。

 残念なことにこの漫画家さん、ふとしたはずみで子供がディズニー・アニメを見てしまい、当然のごとくその面白さに、子供が完全に洗脳されてしまったとか。言って返せばこういう実験を考えつくのも、漫画家さん自身が「ディズニー=可愛い=善」というイメージがあることを、洗脳されてはいないまでも確実に認識していたことなのだろう。そして大きくなって転んだ僕の弟は、今まさにその洗脳のまっただ中にいるということだ。

 じゃあ僕自身が洗脳されていないかというと、たぶん心の深いレベルまで、「ディズニー=可愛い=善」という認識が染み着いているんだと思う。思うけど同時に「宮崎駿=クラリス=おじさま=ゾクゾクッ」とか「押井守=ラム=ダーリン=ゾワゾワッ」とか「新世紀エヴァンゲリオン=惣流・アスカ・ラングレー=あんたバカァ=モコモコッ」という認識が、それこそ遺伝子レベルまで刷り込まれているので、どうにかディズニーの力だけにからめ取られるということなく済んでいる。あんまり自慢できたことでもないけどね。

 しかし世の中に透明な水のように広がってしまった「ディズニー神話」に、正面切って挑もうとする作家が出て来るとは思わなかった。それこそ空気をどうして人間が吸っているのかを、あらためて問い直して疑義を申し立てるようなものだから。おまけに暴き立てたディズニー神話の謎が、決してディズニーにとってポジティブではなく、これは今後相当にイバラの道を突き進むことになりはしないかと、ちょっとだけ心配などしてしまった。

 勇気ある作家の名前は松尾由美。えっあの「バルーン・タウンの殺人」の松尾由美? って声にはご名答と言葉を贈ろう。「ピピネラ」でも結構。とにかく女性を主人公に女性が日々の生活で感じる疑問を題材にした、SFなりファンタジーなりミステリィで知られるあの松尾由美が、今度はディズニーのアニメーションに秘められた禁断のメッセージに挑んだ書き下ろし作品が「マックス・マウスと仲間たち」(朝日新聞社。1700円)だ。

 「マックス・マウス」とはアメリカでもっとも偉大なアニメーション作家のハロルド・ウェズレーが創始したアニメーションの主人公。世界でもっとも有名なネズミといえば、あの顔つきあの大きな耳あのしぐさが、誰にだってピンと頭に浮かぶはずだ。だって世の中にはマックス・マウスの顔がついたキャラクター・グッズが、それこそ文房具からスリッパから銀行の貯金箱にいたるまで、揃いにそろっているんだから。

 今年で28歳になる三浦美加が叔父夫婦に呼ばれて食事をしたのは、いとこで1つだけ年上の青年、学に関する相談にのってあげるためだった。聞くと学、叔父夫婦つまりは自分にとっての両親が進めた見合いを、相手に会いもせずに一言のもとに断ったのだという。家柄もよく資産もあっておまけに美人なその女性を、確かめもせずに袖にした理由を問いただしたところ、学はこう答えた。「自分はマックス・マウスだから結婚はできない」

 別にアニメのファンではなく、顔立ちは美形で成績優秀で仕事はコンピューター関係という、絵に描いたようなエリートの学がどうして自分をアニメのネズミに例えるのか。覚えがあるといえば叔父夫婦は、子供の時から俗悪なテレビアニメを見せることをせず、ただウェズレーのアニメだけは許して見せていたのだという。漫画も読まずSFにも転ばず、真っ直ぐに少年時代を過ごして来た学の憩いのひとときは、テレビで嬉しそうに飛び跳ねるちょっぴりいたずら好きなマックス・マウスと仲間たち、そして子鹿や犬やお姫さまたちによって占められていたと言っても過言ではない。

 だからといって学以上にウェズレーのアニメに親しんでいる人たちはいる訳だし、当の叔父ですら、今よりはるかに刺激も娯楽も少ない子供の頃に、ウェズレーだけしか見せてもらえない暮らしを送って来た、学以上にウェズレーに浸っている世代の出身。なのにどうして学だけがと不思議がる美加に、彼女より15歳も年上で現在は夫人とも子供とも離婚しているフリーライターの桜井が、ウェズレーに関する本を渡していった。

 学が言っていることを理解するために、ウェズレーに関する本を読み、ウェズレーの映画を見ていくうちに、美加はウェズレーの映画に出てくる女性たちが、普段は貞節で慎み深くおとなしいにも関わらず、こと男たちを獲得しようとする時は、積極的な行動にうって出ることに気が付いた。そして「安定した家庭を求め、それを実現させてくれそうな男の獲得に血道をあげる」(126ページ)女たちの姿に、子供の頃からウェズレーを見続けた学が嫌悪感を覚えてしまったのかもしれないと、そんな想像を組み立てる。

 しかしその推論は同時に、桜井から結婚を申し込まれていた自分の気持ちをも見直すきっかけを彼女に与える。家庭こそ大事、そのためには男だって誘惑するウェズレーの映画の女性たちに、ともすれば嫌悪感むきだしてしゃべる美加の態度を自分へのあてつけととった桜井と疎遠になり、そんな2人の関係に学の見合いの相手という雪世が、ウェズレーの世界から抜け出してきたかのようなお姫さま然とした美貌と物腰で割って入り、さらなる騒動を巻き起こす。

 学はといえば相変わらず、自分をマックス・マウスの後継者と自称して、パソコンの中の人工生命の飼育に休日の大半をつぶす。彼をしてマックス・マウスと自称せしめるその理由、あれほど雪世とは結婚を嫌がっていた彼「真霜学」が「三浦美加」となら結婚しても良いと言ったその理由、そして雪世があっけらかんと桜井を誘惑できた理由。すべてが明らかになった時、ウェズレーが伝えようとして来たメッセージの秘密が、活気はあるけれどどこか無機質で、賑やかだけれどどこかクールで、美しいけれど生命感に乏しい箱庭のような現代の文化と社会と生活が到来したその理由が、60年の時を超えて明かされる。

 なるほどこれを読めば漫画家さんがディズニーの(今さら言うまでもないがウェズレーとはどう考えてもディズニーのことだ)映画を子供に見せまいとしたその理由が、意図的であったにしろなかったにしろうっすらを浮かび上がって来るし、双子の弟が生まれたばかりの時からディズニーの映画を見せ続けるその恐ろしさに、背筋の凍り付く思いを味わう。

 けれども一方では、無機質でクールで箱庭のような世界に生きている安心感を自分が味わっているのもまた真実で、生命への慈しみとか種族保存の本能とか極端は言葉で性欲とかが、抜け落ちてはいないけれど第1義ではなく、たとえばチョコレートを食べるとか漫画を読むとかゲームをするとかベッドに入って眠るとか、そんな日常生活と等価値な意味しか持っていないことを身を持って感じている。

 気が付かせてくれたのはありがたいけれど、だからどうなのという気にしかなれないのも、元を返せばウェズレーの怨念というか信念の賜に違いない。松尾由美が「マックス・マウスと仲間たち」で訴えたかったのはそんな世代への追認なのか、それとも下の世代への警鐘なのか。答えは読むひとがそれぞれに出せばいいだろう。いずれにしたって学も美加も雪世(解明して「真霜真弓」)ですらも、ウテナにエヴァにYATにガガガで自己完結してしまっている僕よりは、はるかに大きくよほど真っ当に、種としての責務を果たしていることには違いないんだけどね。


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