破線のマリス

 映像の持つ力は素晴らしい。「一目瞭然」という言葉どおりに、あらゆる事象をつぶさにとらえ、そこにある「現実」を見せてくれる。そして映像の持つ力は恐ろしい。編集という人の意思が加わることで、映像の力はとどまるところを知らず膨張する。虚偽ですら「真実」と見せることも可能だ。

 例えば、公園のベンチに腰をかけて缶コーヒーを啜っている、背広姿のサラリーマンを映した映像があったとしよう。営業中にちょっと時間があったものの、奥さんに財布を握られて喫茶店に入るだけのお金の余裕がなく、仕方なしに110円の出費で我慢している、といったシチュエーションだ。

 しかし直前に1枚、職安(ハローワーク)の映像をはさみこむだけで、男は職探しに疲れたその身を缶コーヒーで癒す失業者になってしまう。頻発するレイプ事件のニュースを挟めば、公園で次の獲物を物色する強姦魔に早変わり。つなぎようによっては犯人を尾行中の刑事にだって、フィールドワーク中の社会学者にだって見せることは可能だ。

 記憶に新しい、湾岸戦争の時の油にまみれた水鳥の映像は、報道の文脈の中で明らかに恣意的な使われ方をした。人々のイラクに対する反感が増し、経済制裁も多国籍軍による総攻撃も是認され、結果戦争は集結へと至った。だからだろうか。恣意的的な情報操作があったと判明した後でも、正義を貫くためには正しかったこことと、情報操作を善意に解釈する意見も少なからず出た。

 けれども、情報操作に含まれていた善意など、イラクに対する悪意と相対的な意味での善意でしかない。やがて立場が変われば、善意はたちどころに悪意となって我が身に牙を向く。映像の力を信じ、その力を研ぎ澄ますために力を振るって来た1人の女性が、映像によって滅ぼされていく様を描いた、野沢尚の第43回江戸川乱歩賞受賞作「破線のマリス」(講談社、1500円)のように。

 首都テレビの報道番組「ナイン・トゥ・テン」には、その日おこったことを映像とナレーションによって伝える普通のニュースとは違って、事件を様々な角度からとらえ直して再検証する、一種の「調査報道」に近い「事件検証」というコーナーがあった。関係者の証言やさまざまな映像を巧みにつなぎ合わせて、ある種の真実を浮かび上がらせる手法が好評をはくし、番組でも人気のコーナーとなっていた。

 要(かなめ)となる映像の編集を一手に引き受けていたのが、フリーの立場で番組の編集業務に携わっていた遠藤瑶子だった。放送時間ぎりぎりであっても、報道が意図するものを明確にするために、素材を集めて編集機を動かすその熱心さは、時には番組スタッフとぶつかることもあったが、こと編集の腕前には誰もが1目おいていて、時には暴走すら黙認することがあった。

 ある大学助教授の一家が惨殺された事件では、残された夫人に周囲の疑惑が集中していたが、誰も面前と犯人扱いすることができなかった。そこで「事件検証」では、夫人が犯人と目される男を自宅に招き入れて、犯行の下見をさせていたとの学生の証言をつかみ、これを土台に推論を組み上げていった。ここで瑶子は、証言をより際だたせるために、本来なら絶対に使ってはいけない方法、まったく別の素材を逆回しして、夫人が誰かを招き入れているような絵を作り出し、証言に被せる編集を行った。

 夫人からの抗議があったものの、結局耐えきれずに夫人は犯行を認め、結果「事件検証」の報道が正しかったことが証明された。そのために、編集者としては明らかに逸脱した振る舞いを、テレビ局も黙認せざるを得なかった。そんな積み重ねが、いつしか自分こそがニュースの立役者である、自分がニュースを作っているという奢りを、瑶子に植え付けてしまったのだろうか。一本の電話に端を発し、春名という男から郵政官僚の犯罪を内部告発するというテープを受け取った瑶子は、そこから1つのストーリーを紬だして、「事件検証」で流してしまった。罠とも知らずに。

 告発テープの中で明らかに犯人と目された男を、「事件検証」では関係者が見れば明らかに誰と解る編集で放映した。左遷されることが決まった男は、執拗に瑶子につきまとって身の潔白と瑶子への恨みを並べたてる。やがて瑶子のもとへ瑶子自身を映したテープが届けられるようになり、瑶子はこれを、映像によって被害を受けた男の報復だと信じ込む。そして瑶子に告発テープを渡した春名が死体になって発見され、瑶子は直感を信じるままに男への猜疑心をつのらせていく。

 自分を填(は)めた勢力に瑶子が復讐を遂げるのが世のミステリーの常道だが、野沢尚の筆はそうしたハードボイルドな展開とは一切無縁に、善意と悪意の相対する価値基準の間で翻弄される瑶子の、みじめなまでに取り乱す様を執拗なまでに描き続ける。編集することで真実を伝えようとして来た瑶子が、一切の編集のない、純粋な眼差しによって撮られたテープに映し出された現実によって、もろくも崩壊していくその様は、映像が持つインフルエンスとインフェルノ、その2つの特性を恐ろしいまでに伝えている。

 長く映像の世界に携わって来た脚本家・野沢尚が、映像の持つ魅力と魔力を「自戒と警告のため」(著者の言葉)に形にした小説。「破線のマリス」を読んでなお、テレビの、映像の伝える「真実」が「現実」であると信じていられるだろうか。そして「自戒と警告」を自らに与えた野沢尚が、次にいかな映像の「真実」を見せてくれるのだろうか。作家としての活動と同時に、脚本家としての野沢尚からも、ますます目が離せない。


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