きゅうさいのきし
救済の彼岸

 人はどうして生きるのだろう。自分の幸福のため。でもそれは死んだら後に何も残らない。誰かとのつながりを維持するため。だったらつながりを持たない人間に生きる意味はないのか。

 天涯孤独。唯我独尊。なるほどそれならば生きる意味などないのかもしれない。けれども本当に孤独な者などいない。人はひとりでは生まれて来れないし、生きてもいけない。

 親しみでも憎しみでも、さまざまな感情と関心にまみれながら人は生まれ、生きてそして死んでいく。そんな関わりが存在する以上、人の生にはやはり何らかの意味があるのだろう。

 会社を辞め、他人との関わりを断ち、巨大なプラズマテレビに映る世界だけをながめて暮らしていた男の部屋をある日、スーツ姿の女が訪ねて来て告げた。「アダウチです」。聞くと男を激しく恨む人間がいて、その仇として討たれることに決まったらしい。

 男にはまるで覚えのない話。孤児として育ち、苦労して学校を卒業し、会社では優秀な営業マンだった自分が誰かの恨みを買うはずがない。そう主張しても女は引き下がらない。仇討ちの根拠とされた男の出生の秘密を明かし、孤独の闇に埋没していた男を情念の渦巻く人間の世界へと引きずり戻す。

 謎めいた宗教の勃興から崩壊までを描いたデビュー作「白の咆哮」(集英社、1400円)で評判を呼んだ朝倉祐弥の2作目となる「救済の彼岸」(集英社、1600円)も、奇妙なシチュエーションに巻き込まれ、翻弄される人間の姿を描いた寓話的な物語だ。

 法律的にはあり得ない「仇討ち」に突如巻き込まれる不条理さ、男を仇と恨み剣術の鍛錬を続ける<休まない女>の恐ろしさにはじめは思考を惑乱される。けれどもやがて気づく。これは人間の存在を問う物語だと。

 「仇討ち」などという一種異常な状況をそこに与えつつ、失われてしまった、そして振り返ろうとしなかった過去に主人公を直面させて、考えさせる姿を通して今存在している意味、そしてこれからを生きる目的を見出させようとしている。

 孤児ゆえに持てなかった肉親との繋がりを見つけだし、恨まれる対象としてであっても他人から必要とされている事実を得て、自分がこの世界に存在している意味を感じ取った男から立ち上る、ここにいようとする意志が最後に響く。

 仇討ちを望んでいる<休まない女>が結局は誰で、そして仇討ちを告げに来た女性が主人公の男性に生きる意味を見出させるために、肉体まで投げ出そうと迫る理由が今ひとつ見えない。なぜにそこまで尽くすのか。仕事だからかそれとも別の理由があるからなのか。

 意味などはなく主人公の心を揺さぶる段取りとして、そうした展開が用意されているのかもしれない。描きたいことのために状況が持ち出されるという点でやはり「救済の彼岸」は、仇討ちの復活した世界に起こるドタバタぶりを描く筒井康隆的なエンターテインメントではなく、異状から透けて浮かぶ人間の本質を観念的に描こうとした文学なのだろう。

 読み終えて人は孤独ではないと知るだろう。知れば引きこもっていた自分を恥じ、プラズマテレビを叩き割って街へと歩みだしたくなるだろう。


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