クズが世界をかにする
 YouTubeから見るインターネット論

 気にするから気になるのであって、気にしなければ気にならないとは言うものの、気にしてしまうし気になってしまう対象が増えてしまっているのが、ネットというメディアの発達した現代ただ今の状況だ。それでも気にしないようにしたところで、気にしてしまう周囲の大勢の動勢から、我が身を隔絶して生きる訳にもなかなかいかず、いつの間にか気にする人の動きの中に引きずり込まれ、巻き込まれてしまう。

 顕著な例が、動画投稿サイトのYouTubeであったり、つぶやきの連鎖を作り出すTwitterといった、ネット上の情報伝達プラットフォームの急激な普及で、前者についてはそこで話題になった映像が、かつては接続されたネットの界隈だけで面白がられていたものが、今や新聞テレビといったマスメディアに取りあげられ、ネットで面白がられていますという情報として紹介されるまでになった。

  エロスと文化につていの探求を続けるライターの松沢呉一が、新著の「クズが世界を豊かにする YouTubeから見るインターネット論」(ポット出版、1600円)で書いているのも、そうした新しいネットメディアが醸し出す、存在感の急激な高まりについてだ。

 決して美麗とは言えない顔ながら、唄えば万人を感動させる歌声の持ち主だったポール・ポッツが、テレビ番組のオーディションを勝ち抜き世に出た時の注目度より、同じ番組でやはり美麗とは言い難い表情ながら、歌の巧さを讃えられたスーザン・ボイルが出演した今年の注目度が、はるかに激しいのは何故なのか。この2年で起こった、ネットメディアに対するマスメディアの認識の強烈な変化がそこに見える。

 「クズが世界を豊かにする」で松沢呉一は、情報が伝播する早さと伝わる範囲の広さは革新的なものだと見ていて、イランで起こった様々な事件が、YouTubeを通して世界に届けられ、Twitterによって動画が存在する情報が世界に広められているような状況の訪れに、もはや商業メディアすら追随するしかなくなっていることを指摘していている。あのCNNですらネットの映像をそのまま流し、さらに日本のメディアがCNNの番組をそのまま長す。検証も警鐘もそこには存在しない。

 これはメディアの弱体化を招くという懸念があり、また利用すれば利用できるという心配もある。イランではかけられなかった規制が中国ではかけられている、権力者の思惑の中で情報が選別され、伝播されている可能性がるという。ネットだからと全面的に信じて良いというものではない。

 そうした規制の有無を見分けず、ただ面白いから、興味深いからと流した結果に起こる事態への恐怖を人はもっと知るべきなのだろう。けれども、そうした恐怖を省みる余裕すら、あるいは省みなければならないという意識すら人は失いかけている。

 面白ければそれでいい。そうした意識は劣化コピーのスパイラルを生み出し刹那的な態度の横行を招いて、せっかく生まれて高い有用性を持っている動画配信サービスのパワーを減退させる。Twitterでも誤情報の歯止めが利かない伝播によって発生する被害への懸念が叫ばれ、問題が起これば一気に信用を失いかねない瀬戸際に来ていたりする。「クズが世界を豊かにする」では、そうした部分への指摘もしっかりと行われている。

 ネット上に散らばるおもしろ画像を紹介するだけなら、他にいくらだって書き手はいる。松沢呉一が「クズが世界を豊かにする」でやろうとしたことは、そうしたおもしろ画像が生まれ、広がる状況から、どうしてなぜ人は面白がろうとするのかを探り、そこから起こり得る素晴らしい可能性と、恐るべき懸念とを両方とも指摘して、ネットメディアを使う人の判断力を喚起すること、だったのかもしれない。

 振り返って、ポール・ポッツが世に出た時はそれは衝撃だった。けれども2年が経って現れたスーザン・ボイルは、テレビメディアのネットへの着目もあって、より広く知られたものの、驚きの質ではポッツの二番煎じの域を出なかった。

 ポッツの時には歌の上手さよりウエートがかかっていた関心が、スーザン・ボイルでは容姿のどうしようもなさへと傾いていた。このまま続けば生み出される芸の素晴らしさではなく、芸を生み出す存在の意外性だけがピックアップされて賞揚されることになる。それで果たして幸せなのだろうか。

 「クズが世界を豊かにする」にも紹介されている、外国で大勢の人が突然止まるパフォーマンスが大阪で行われた映像も、その面白さの質に二番煎じ以外のものはなくなってしまっているという。むしろ、多くの人に迷惑をかけていることが指摘されていてる。松沢呉一が、単にネット上のおもしろ映像を面白がる態度を賞賛するのではなく、面白がり方の本質がどこにあって、それにはどういう問題があるのかを見極めようとしているのだと分かる。

 では、もはやネットメディアは劣化コピーの温床なのか、デマを媒介するだけのメディアなのかというと、決してそれだけではな。使い方によっては有用なところも多くあるし、情報を伝達する速度なり、範囲なりの有効性があるとの認識は残る。つまりは、そうした伝えられる情報をどう理解し、どう活用していくかが重要なのだ。

 つまりはメディアリテラシーの重要性という、半ば月並みの結論へと至ってしまうものだけれど、現実はやはり大きな流れに流されてしまうのが、人間の心理というもの。「クズが世界を豊かにする」で投げかけられた警鐘は、省みられることなく、貪欲なまでの好奇の目線の中で埋もれ、排除されていくのだろう。

 素材として置かれた動画像から、松沢呉一が紡ぎだした思索や言葉を読み込んでおけば、これから現れる映像が、どういった仕組みから生まれたもので、どうして面白がられていてこ、れからどう展開されていって二番煎じがどう生まれるのか、といったところまで想起できてしまう。その上で、既成概念を超えて驚かせてくれるような映像は出て来るのか。来ればそれこそ世界はさらに豊かになっていくのだが。

 気にしないで生きて行ければ良いのだけれど、ひとたび気にしてしまった存在を忘れられるほど、人間は起用ではない。これからも莫迦騒ぎは続き、エスカレートすらしていくことになるのだろう。せめてもの抵抗がしたいなら、「クズが世界を豊かにする」の賞揚と警鐘を共に噛みしめ、見極めた上で楽しむ術を学んでいくのが良さそうだ。

 この気にしたくなくても気にさせられてしまうメディア時代を、気にしたとしても気にならなくていられるような度胸や技術を与えてくれるバイブルとして「クズが世界を豊かにする YouTubeから見るインターネット論」は読み継がれていくことになるだろうし、そうあるべきだろう。


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