暗闇に咲く

 憎しみはぶつかり合って増大し、この世界を怒りと憤りで塗り込め、繰り返される戦いを招き寄せる。果てに地は荒れ海は汚れ、空は煙ってこの星を誰も住めない不毛の球体へと変えてしまう。だから人は、憎まれても憎み返さず、憎しみを飲み込んで怒りと憤りを鎮め、繰り返される戦いの応酬を途絶えさせようと努力する。それが理性。人の知恵。

 けれども悲しみは止められない。繋がりあって波及し、世界を悲しみの涙で濡らす。失った悲しみを抱いた者が、失わせる悲しみを誰かに与える、その連環が止まることはすなわち、悲しむという行為の拒絶につながる。それは心を持つ人にとっては辛いことだから。不可能に近いことだから。

 ゆえに人は、悲しむことを否定しない。否定したくない。正面からしっかりと受け止めては、悲しみの涙に身を濡らし、やがて過ぎゆく時間の中で薄れさせ、訪れる新しい喜びによって上書きしていこうと務める。そのようにして人は生きてきた。この世界に誕生してからずっと。そして多分これからも。ただ……。

 幾原邦彦監督によるテレビアニメーション「輪るピングドラム」の小説を、幾原監督とともに手がけた高橋慶の初のオリジナル小説「暗闇に咲く」(幻冬舎コミックス、1500円)に描かれる世界で、悲しみは世界をひとつの終焉へと導こうとする。あるいは永遠の安寧へと。

 東京の青山にある店で美容師として働いていた雨森小夏という男性が、母親の死を受け母親が経営していた美容室を引き継ぎ、再開させる。そこにやって来たのが従姉妹の花之枝芙美という女性。以前は溌剌としたOLだったのが、今は髪を長く伸ばし手入れもしないまま、日々を漫然と過ごしている。

 どうやら会社は辞めてしまったらしい。さらに戻った実家も出てしまって、小夏の美容室へと転がり込んで来た。といっても別に小夏が好きな訳ではなく、おそらくは会社を辞めるこ要因にもなった、冬馬という名の恋人との別れが拭いきれないまま、悲しみを抱えてひとり悶々としていた。

 いっしょに暮らすうち、小夏は芙美にだんだんと心を引かれていく。けれども、そんな彼女の元に届いた冬馬からの手紙。読んで芙美は部屋の中、目からこぼした涙に包まれたまま、動かなくなってしまう。小夏は驚き、焦りウクライナにいるらしい冬馬と連絡を取って呼び寄せる。そして今、世界でとてつもない現象が起こっていることを知る。芙美もそんな1人になったことを含めて。

 それは悲しみが招いたこと。悲しみは芙美の身ひとつに留まらず、連鎖してとてつもない現象を起こさせ続ける。断ち切れないのか? それは出来ない。人だから。悲しみを感じる心を持った生き物だから。そして人はつながっている。誰も孤独なままではいられない。だから悲しみは繋がり会って、広がっていく。そして多くを引きずり込むような悲劇をもたらす。

 もっとも、それは悲劇であると同時に、人が誰かを思い、そして誰かに思われていることの証明でもある。不思議な現象で世界が満たされれば、それは世界が愛おしさの連なりだということの現れとなる。もし仮に、すべてが止まり生い茂った中で、自分ひとりがまだ人として立っていられたとしたら、それは幸せなのだろうか? 寂しいことなのだろうか? そんなことすら思わせる。

 「暗闇に咲く」が問いかけるのは、己が身の孤独と連なりへの渇望だ。淡々として的確な筆致によって風景を目に浮かばせる描写力と、移り変わり流れていく感情が見える会話の巧みさによって紡ぎだされた、相手を思い相手に思われる素晴らしさを浮かび上がらせた物語。まず読んで、その巧みさに感嘆しよう。そしてその巧みさが、次に紡いでくれるだろう感動の物語に、心からの期待を寄せよう。


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