くじらの潮をたたえる日

 くじかれて立ちすくんだ心に映る世界はとても不条理だけど、あきらめないで立ち向かった先にはきっと優しい世界がひらけている。進め。進め。さえぎる波を割り砕いて泳ぐ、巨大なくじらに導かれて進むのだ。

 高村透の「くじらの潮をたたえる日」(早川書房、1500円)はそんな、荒波にあふれた世界を乗り越えていく力をくれる物語だ。

 店舗で食中毒を発生させた責任を問われ、レストランチェーンの本部で店舗を管理する立場にあった59歳の男が左遷される。彼自身が重大なミスをしたというのではない。むしろ何もしていなかった。ルーティンと化した仕事の流れに乗って、現場に任せるままにしていたら、事件が起こってしまった。

 それでも責任は問われる。というより誰かに責任を問わせなければ、世間は納得しなということで、男は矢面に立たされ、メディアへの謝罪も行い、そして倉庫へと左遷されていく。老人ばかりが集められていることから、「養老庫」と呼ばれていた場所。そこで男は、ただ数を数えるだけの乾いた日々を送り始めた、そんなある日。

 嵐が来て倉庫が水浸しになりそうになって、男は他の老人たちとともに荷物を台車に乗せ、別の倉庫へと運ぼうとする。そして扉を開けると、外は荒れ狂う海。台車は船となって波風に揉まれ、巨大な手が迫って男や老人たちを飲み込もうとする。

 まるで非現実。まるで非日常。けれども男にはそう見えた。そう感じられた。もしかしたらそれは、拒絶され挫折して虚ろな世界へと追いやられた人間の目に映った現実であり、日常そのものだったのかもしれない。箱を開けたらパスカルがいたり、ウィシュトゲンシュタインがいて語りかけてくるのも同じ。立て続けに繰り出される不条理な描写が、追いつめられた人間の酷く歪んで、けれども切実な心境を見せる。

 そんな展開は、左遷された男がどん底から戦いの果てに返り咲く、世間に良くある経済小説や企業小説を望んで手に取る人をおおいに驚かせるだろう。「養老庫」を抜け出して、今度は食中毒を出した店に配属されることになってそこで、やっさんや三塁手といったやはりリタイア間近の男たちと一緒に働かされることになっても、シュールでスリリングな展開はまだ続いく。すんなりとは再起と復讐のストーリーには向かわない。

 主人公の男を店舗へと送り込んだ、本社のエリア統括部にいる冴島という30歳くらいの男はとてつもなく饒舌で、意味ありげなことをまくしたてて反論も異論も認めない。なおかつ裏でいろいろと企みをめぐらせている様子。そんな冴島を相手にするだけでも一苦労なのに、送り込まれた先は食中毒事件で非難を浴びた店舗。男への視線には厳しものがあった。

 はるか年下のコックからは見下され、店舗を仕切る女性マネジャーからはひたすらマニュアルに従うように強要される男ややっさんや三塁手たち。戸惑いの中で普通だったら心は折れ曲がり、潰されてしまうだろう。再起や復讐へと向けたエールなんてない。むしろ絶望と諦観をもたらすための物語。そう感じないでいられない。

 なおかつ、手ひどい裏切りもあって、もはやこれまでと思わされれながら、男は投げ出さず逃げ出しもせずに、目の前の壁の隙間に一筋の光明を見いだして、そこから自分を取り戻していく。

 香奈恵という自分の娘に自分でどうにかしてみると誓い、足が不自由なのに歪まず明るく生きているやっさんの娘にも励まされるようにして、男は追いつめられた場所から1歩づつ、外へと踏み出していく。不条理で不思議なのは自分ではなく世界の方なんだ。そんな歪んだ世界に臆さず、惑わされないで進むのだ。そんな気持ちが浮かんでくる。

 今まさに人生の岐路にさしかかっている人々にとって、過去に引きずられず未来を怯えないで生きるための道を諭してくれる物語。空っぽで何もない状況に、絶望すら通り過ぎて虚無を覚えて堂々巡りをしている若い世代も、冴島という男の空虚な叫びが共感を呼び、そんな彼の行動に同意するか反発するかは別にして、代弁者としての姿を見て自分ならどうするかを考えてみたくなるだろう。

 老いも若きも男性も女性も、子供ですらも読めば確実に何かを得られる物語。演劇のようにシュールなシチュエーションの連続が醸し出す、不思議なビジョンも有り体の物語のセオリーを外してくれて、目新しさを感じさせる。どこに連れて行かれるのか、どんな風に連れて行かれるのかが、こんなに見えずドキドキとさせてくれる物語はなかなかない。

 まずは手にとって確かめよう。新しい書き手の繰り出す新しいビジョンを。そこから浮かび上がってくる、世代を超えて届き広がる再生へのエールを。


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