クジラの子らは砂上に歌う7

 梅田阿比が2013年が描き継いでいる漫画「クジラの子らは砂上に歌う」が2016年4月に舞台化された。公演の場所は代々木体育館に隣、NHKの向かいあたりに建つAiiA 2.5シアター トウキョウで、名前にあるように2.5次元ミュージカルを中心とした、漫画やアニメ、ゲームといったカテゴリーの作品を舞台化して上演する、専門の劇場として使われている。

 「刀剣乱舞」や「戦国無双」「ハイキュー!」「NARUTO −ナルト−」といった広く知られ、絶大な人気を誇る作品が舞台となって上演されることが多く、人気の俳優も多く出演することから、チケットが売り出されれば即完売で、公演中も開場前から長い行列が出来て賑わう劇場となっている。もっとも、「クジラの子らは砂上に歌う」はこうした作品群と比べ、残念だけれど認知度は決して高いとは言えない。今のところは。

 「このマンガがすごい!」でオンナ編の10位は成績として上々ながら、それでは世間には広まらない。「マンガ大賞」で最終候補としてノミネートされたこともなく、知る人ぞ知る漫画と言えそうなこの作品が舞台化されたとして、是非に行ってみたいという人が、どれだけいるかを考えるとすこし億劫になってしまう。役者の名前で観に行く人も、こうした2.5次元系の作品では少なくないとはいえ、そこに高い認知度を誇る原作が乗る場合とでは、世間の関心に差が生まれるのも仕方が無い。

 そして原作を知っているなら知っているで、あのどこまでも続く砂の海が広がる世界が舞台となっているファンタジーであり、人類の進歩と進化を問うようなSF的な雰囲気も持った作品を、どうやれば舞台化できるんだろう? といった訝りが浮かんでも不思議はない。映画でだって再現が難しい砂の海。そして大勢の人を乗せて進む巨大な泥クジラという仕掛け。それこそハリウッドの大作映画でもなければ難しいビジョンを、舞台化できるのだろうかと誰もが思って当然だ。

 ここで改めて、「クジラの子らは砂上に歌う」のストーリーについて触れるなら、舞台は砂の海が広がる世界で、泥クジラという巨大な船、というよりもはやひとつの島といえるくらいの広大な地に、何百人かの人間が住んでいて日々を淡々と生きている。一部に情念動(サイミア)と呼ばれる一種の超能力を操れる印持ちがいて、一方にそうした印を持たない普通の人間もいるという構成。そしてサイミア持ちは強いけれども短命で、印のない普通の人間から出た首長が全体を統括する形で運営されていた。

 周囲に人が暮らしている形跡はなく、誰かが尋ねてくることもない中で、自給自足で生きていた泥クジラの住人たち。そのひとりで、チャクロという名の少年は記録係を仰せつかって、泥クジラで起こることを日々、書きためることに全力を傾けていた。そんな平穏で、別の意味では停滞の中を衰退に向かっていた泥クジラに異変が起こる。久々に見つかった島にいくと、そこにひとりの少女が倒れていた。泥クジラへと連れ帰って名を聞いても分からず、とりあえずリコスとつけたその少女を追うようにして、泥クジラに未曾有の危機が訪れる。

 見渡す限りが砂の海という物語の舞台、そして山のようでもあり森のようでもありなおかつ生きているような雰囲気すらある泥クジラという生活の場所を、ハリウッドの大作映画でも描くのにとてつもない費用がかかりそうなものを、固定されたステージでどういう装置を組んで再現するのか、どういう見せ方をするのかといった興味が、舞台化と聞いた時にまず浮かんだ。

 そんなステージ上にあったのは、奥にやや盛り上がった斜面で、そこを砂のような土地に見せかけつつ、ある時はそこを泥クジラの上であり、ある時は船で渡る砂の海であり、ある時は泥クジラの中であり敵の船の中でありといったさまざまな場所に見立てて、そこにさまざまな登場人物たちを的確に出し入れして、そのシーンが繰り広げられているんだと感じさせた。

 原作を知っている人には、ここはあの場面をその登場人物たちによってそこで描いているんだなあと分かっただろう。そうでない人も、この巧みな場面の?ぎ方によってしっかりと、ストーリーを追いながら物語について全身に感じていけただろう。それは、日常が変貌する驚きであり、最愛が奪われる悲痛であり、未来を閉ざされる絶望といったもの。それらが出演者たちによって言葉で紡がれ、体で表される。眼前で。これは凄い。とてつもなく凄い。観で思わず涙ぐむ。そして動けなくなる。けれども…。

 自分たちの運命を自分たちで掴み、自分たちが生きた証を残そうとあがく姿にああそうだ、立ち止まっていてはダメなんだと教えられた、そんな舞台になっていた。漫画に描かれたそんな流れが、しっかりと舞台で演じられていた。伝わってきた。漫画に描かれた悲嘆を思い出してまた泣いた。漫画を知らない人でも分かるその悲嘆を経て得られる自立であり、自覚にきっと誰もが今を諦めることなく、明日を頑張って生きていこうと思えてくるだろう。

 優しい日常が激しい戦いに突き進む原作のように、舞台上で繰り広げられる殺陣がまたすばらしかった。様々な場所での各人の戦いを入れ替わり見せて流れを作ってた。目を見張るのはサイミアという一種の超能力の表現で、サイアミガールズなる役者たちが肉体でその有り様を表現していた。それが1対1のバトルシーンを拡張しつつ、あちらが勝ちつつこちらも上回りつつと言った丁々発止までをも表現していた。よくあそこまで練り込んだ。そしてしっかりと間違えずに演じきった。感嘆するより他にない。

 原作があって、それが漫画でファンタジー調な世界が舞台だと、そこに暮らす人たちも独特の雰囲気になるけれど、舞台では役者たちが、それぞれの登場人物にしっかりとなりきっていた。赤澤燈が演じるチャクロは原作と違ってイケメンすぎる感じはあるけれど、迷いつつ優しく意固地で強いところがちゃんとチャクロだったし、前島亜美が演じるリコスは、失った感情を取り戻し仲間になっていく感じがよく出てた。山口大地演じるオウニと碕理人のリョダリは、見た目も、そして演技している姿もまるで漫画から抜け出てきたかのよう。強くてキレていて激しい感じがとても出ていた。

 再現度では、声優でもあってアクションも得意な小市真琴が演じるギンシュねえさんが実に高かった。漫画のとおりのカラリとした性格を見せていたし、何よりアクション凄かった。ステージにも多く立っているだけあって、流石の立ち回りを見せてくれた。佐伯大地のオルカ。原作のまんまにワルっぽい感じが出ていた。謎の美少女ネリの大野未来。声も振る舞いも小悪魔的。なるほど謎の美少女でその胸先三寸で泥クジラの運命も変わるといった感じを醸し出していた。タイシャさま。深く人々を愛し優しく見守る首長に中川えりかさんがなりきっていた。

 そしてサミ。可愛くて可愛そうなサミ。その天真爛漫で未来を夢見ていた少女が肉体を持って顕現し、舞台の上とはいえ損なわれてしまう寂しさを、強く感じさせてくれるくらい宮崎理奈は役になりきっていた。中盤に来るそのシーンは滂沱必至。どうしてなんだと胸が苦しくなるけれど、そうした日々を経て人は強くなり、そして歩いて行けるのだと思うしかないのだろう。忘れない。でも立ち止まらないで進んでいく。そうやって刻まれていく思いだけが、人を永遠にするのだから。

 役者的にも演出的にも、そして何より物語的にも見どころたっぷりにして驚きと感動を味わえるこの舞台が、パッケージ化されることはなさそうだというのがどうにも辛い。Yuによるオープニングの主題歌「スナモドリ」の、切なさも含んで響き渡る歌声やメロディがずっとリフレインするくらいにすばらしいけれど、それが舞台とともに聞けるのは舞台だけというのも寂しい。

 だから、観られた人は幸運だけれど、観られなかった人も大勢いるなかで、チャクロのようにせめて言葉にして残し、こんな舞台があったのだと後世に語り継ごう。やがて原作の漫画が大勢の知るところとなり、永遠に刻まれる傑作と認められるようになったとき、こんな舞台があったんだということを知ってもらうためにも。

 舞台で描かれていたのは、原作漫画では第4巻の帝国を相手に泥クジラの人々が、生き延びるために戦いを挑んで、運命を自分たちの手に取りもどすまで。そして漫画は第5巻、第6巻と積み重ねらるなかで、泥クジラが新しい出会いを経て、スィデラシア連合王国にあるアモンロギア領をめざすことになった、その旅程を描くシリーズへと進んでいる。

 「クジラの子らは砂上に歌う 7」(秋田書店、429円)でも泥クジラの上では凄絶な争いはなく、人の命も失われない平穏な日々が描かれる。けれども、その成り立ちに何があったのか、そして未だ明らかにされていない泥クジラの深部に眠る秘密が浮かび上がり、その強力すぎるサイミアのせいで「悪霊(デモナス)」と呼ばれるオウニの力の謎にも話が及んで、ちょっとした波乱を予感させる。

 泥クジラの面々はアモンロギアにたどり着けるのか。その先に何が起こるのか。すべてがチャクロによって書き記された記録によるものとされている物語は、チャクロの無事だけは確約されているけれど、それ以外の泥クジラの仲間たちの運命と、何より泥クジラそのものの行方については、まだ何も見えていない。

 チャクロが泥クジラの深奥見つけて読んだ記録にあった、オウニによく似た姿を持って、強力なサイミアを発動させて、泥クジラに恐怖をもたらすミゼンという存在と、そのミゼンを生み出したズィオという首長のその後が、チャクロたちが暮らし、帝国との戦いを経て安寧の地を求め進む泥クジラとどうつながっているのか。明かされる物語を待つしか無さそうだ。

 第7巻には別に1編、過去に描かれた「もうひとつの記録 光の隣 壁の空」が収録されている。父王が死に、後を継いだ新王の不興をかって長身の女の道化が牢獄に押し込められる。そこには、父王に道化として仕えながらもやはり、無実の罪を着せられ獄に押し込められて病死した道化女に王が産ませた少年がひとり、父王殺しの容疑をかけられ、捕らえられていた。

 長身では横になるのも難しく、膝を立て背中を壁につけた姿で、道化女は少年を抱えるようにして獄中での生活を始めた。狭い窓から空を身ながら少年と語り合い、何年もの日々を過ごした果てに訪れるものは? 人の猜疑心が招く悲劇を描きながらも、出会いが心の浄化をもたらす可能性も示される。掌編ながらも深くて重たい物語だ。

 長身の若い道化女とそれこそ膝をつき合わせ、何年も同じ空間にいる少年にどんな懊悩があったのか。そんな想像が浮かぶものの、ここはその出自を感じて清らかに、そして仲良く日々を過ごしたと思いたい。


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