小麦畑の三等星
The star of the third magnitude
above the corn field

 大きくなって、大人になって、お金を稼ぐようになって好きなだけ本が買えるようになって、毎日たくさんの本を読めるようになってそれはそれでとっても楽しいことなんだけど、でもちょっとだけ、おかしいなって思うことがある。

 たくさん読む本の、どれもがとっても面白くって為になって、読めて嬉しいって気持ちにさせてくれるんだけど、たぶん5年後、いいや1年後だって、たくさん読んだ本のどれかを読み返してみて、ああこのセリフ、ああこのシーン、ああこのストーリーに胸がわくわくしたんだ、心がじんじんしたんだって思えるかというと、あんまりそんな風にはなれないような感じがしてる。

 もちろん決して本がつまらなかったわけじゃない。たぶん圧倒的に面白かったに違いない。けれどもどうして心がわくわくしないのか。胸がじんじんしないか。それはきっと、まだ小さかったころ、子供だったころ、少ないお小遣いをやりくしてやっと買った本を、1カ月とか2カ月とか、なかには半年も1年もずっとずっと読み続けて読み返して楽しんでいた時ほどに、ひとつひとつの本に対する思いが、及ばないからなんだろう。

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 「服がのびます」−生徒のあまりの勉強の出来なさに、怒って帰ろうとした家庭教師の森之介を引き留めようとして、上着のすそをつかんだ生徒の碧穂(あお)にひとこと、森之介が放った言葉を読んだ瞬間に、20年近くむかし、それこそ毎日のように読み返しながら、描かれる物語のとっても悲しくってとっても嬉しかった記憶を、夜空の下でくろぐろと穂をたなびかせる麦畑のビジョンといっしょに、思い出してじんときた。

 「りぼん」という雑誌に連載されて確か3巻組みのコミックスにもなって、今また集英社文庫コミック版から2巻組みで再刊された萩岩睦美の「小麦畑の三等星 1・2」(集英社、各590円)は、どのページのどのセリフ、どのシーンを読んでも記憶がじわっといった感じで刺激されて、本棚のめだつ場所にならべてあって事あるごとに読み返していた思い出が、面白いことも面白くないこともいっぱいあった学生時代の思い出といっしょになって甦ってくる。

 子供のころから自分におへそがないことを友だちからいわれて気にしていた碧穂だったけど、それでも中学の2年生までは理科をのぞけばとくに勉強ができるわけでもないし、運動が得意なわけでもない普通の女の子として育っていた。けれどもあるとき、得意の理科で100点をとったことを同級生の康太朗にからかわれて、答案用紙をとられて追いかけて窓から落ちてしまった事件をきっかけに、碧穂の運命は大きくかわっていってしまう。

 康太朗におへそがないことと、頭にへんな模様があることをを知られてしまって、碧穂は体育倉庫にこもって置いてあった不良のアルコールに酔っぱらって、火事にまきこまれてしまう。身に迫った危険に碧穂はふしぎな力を発揮して、火事を消してしまうどころか焼けた倉庫までもとどおりにしてしまって、その場面をまたしても康太朗に見られてしまう。

 「ひっ ひつじっ こいっ こいっ」−もしかしたら自分は超能力者かも。そう思った碧穂が自分の部屋にあったぬいぐるみを呼び寄せようとして失敗する場面のおかしさが、さかだった髪型のときだけ超能力を発揮することに気づいていたにもかかわらず、前の日の事件を目にして問いつめてきた康太朗に向かって「なんであたしのいやがることばっかしすんの!?」「康太朗なんて死ねばいいのよ ばかーっ」といってしまった直後に起こった、康太朗の”死”というできごとの恐さをかえって募らせ、ほんとうはとってもシリアスな物語なんだってことを感じさせる。

 もてあまし気味の自分の力におびえている碧穂を、「くらいぶさん」という美しい外国人が日本にやってきて、心のことばで空港へと呼び出す。大きく腰をおりまげて碧穂を抱きしめる「くらいぶさん」の絵を見たとき、ひとりぼっちだと思っていた人が仲間に巡り会えたよろこびがそこからた立ちのぼって、碧穂という女の子が感じていた辛さが伝わって来る。

 それと同時に、「くらいぶさん」が自分に心をあずけている碧穂の力を使ってておこなった数々の裏切り行為への怒りと、それをやらせた者たちへの憤り、そしてどうにかこうにか終息した事態への安心感が甦ってきて、人を信じる気持ちの大切さにあらためて心うたれる。学校へと戻ってきた碧穂を、「ひしっ」と抱きしめがしっがしっと取りかこむ同級生たちの姿に、友だちって良いなあって感じたことを思い出す。

 ほとんどすべての場面の、ほとんどすべてのセリフがちゃんと記憶に残っているのは驚きだけど、それだけ食い入るように読んだってことだし、覚えるくらいに何度も読み返したってことになるんだろう。そしてそのうちに、自分はいったい人間なんだろうか、ふしぎな力を持っているというだけでどうして嫌われるんだろうか、大好きなお父さんとお母さんは本当のお父さんとお母さんなんだろうか、なんていった思春期にある少年たち、少女たちに共通の悩みを大きく広げたような運命に、ほんろうされながらも挑んでいく碧穂の姿に、引きつけられてしまったのだろう。

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 「くらいぶさん」との出会いと別れを経験しても、碧穂の力の秘密が根っこから解決されたわけではなくって、物語はいっそうの苦さと痛さをまして読む人たちの気持ちをきりきりとさせる。

 あきらかになった碧穂の正体。助けようとする康太朗。「おれがオホシサマになったら」「せいぜい三等星くらいかなあ」。タイトルに重なるキーワードの登場するクライマックス、愛情と慈しみにあふれたこの言葉を何度も読んで涙した記憶がせきを切ったように浮かび上がってきて、背中をお尻の方から頭の先へ、上へ下へと走り回って気持ちをいっきに高ぶらせる。

 さいごのさいご。笑顔の碧穂にかさなる「かつてこの子はかなしかった」というシーンをはじめて読んだときにほとばしった喜びの激情が、当時の記憶といっしょに甦ってきてやっぱり泣いてしまう。小麦畑に横たわる赤ん坊と熊のぬいぐるみの絵に、よかったなあという思いが浮かんで笑ってしまう。そして思う。たくさん本は買えなかったけど、気持ちのすべてを注ぎ込んで、ひとつの物語にひたれる時間があったあのころに、「小麦畑の三等星」という漫画に出会えて本当によかったと。

 いまはもう難しいけれど、それでもちょっとだけ、新しい物語ばかりを追い回しては右から左へを目の上を通過させていくんじゃなくって、ひとつの物語のすみからすみまでを読み込んで、なんどもなんども読み返して、心に刻みつけるようなこともしてみたくなった。5年たち、10年たっても記憶とともに生き続ける読書を、がんばってしてみよう。


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