黒人ダービー騎手の栄光
激動の20世紀を生き抜いた伝説の名ジョッキー

 芸は身を助ける。そして愛は人生に活力を与える。

 1901年と1902年の2年連続で、米競馬の最高峰「ケンタッキーダービー」を優勝した黒人ジョッキーがいた。名をジミー・ウィンクフィールド。強まる黒人差別に職場を追われ国外へと出た彼の名はほぼ1世紀、04年に米国の競馬殿堂に刻まれる時まで、競馬の歴史からほとんど忘れ去られていた。

 ジミーは不遇だったのか。差別に虐げられて苦衷の中に死を迎えたのか。そうではない。むしろ米国での差別がジミーに新たな栄光をもたらした。帝政時代末期のロシアへと渡ったジミーはジョッキーとして大活躍して栄華を極め、ホテルに住まい使用人を雇い貴族たちに囲まれ、キャビアを貪る絶頂の日々を送った。

 やがて上がったロシア革命の戦火にも命運は尽きることなく、ひそかにサラブレッドをオーストリアへと移送し、そこで事業を軌道に乗せた。さらに移り住んだフランスでも、騎手として数々のレースに勝ち、また調教師として成功を治めて土地でも馬の数でも財産でも、ロシアの時に負けない規模を得た。

 女性遍歴も華やかだった。最初の妻は黒人女性だったが、ロシアでは軍人の娘を妻にし続いてロシア人男爵の娘を妻にして子も成した。愛人もいて子供をもうけ、さらには浮気相手だったた別の愛人からは関係がもつれて銃で腹を撃たれる、男として“名誉”とも言えそうな傷を負った。

 やがて侵攻して来たナチスドイツにフランスの土地や馬をを奪われ、今ふたたびの窮地に陥ったジミーだったが、米国に戻り下働きに甘んじる日々を送りながらも、決して諦めてはいなかった。息子が仕事をしていた牧場に、馬を見極め競走馬として育てる腕前を見込まれ、職を得てその日暮らしの日々を脱した。

 調教師として雇われた彼は、次々と名馬を生み出し馬主に賞金を、ジミーに給金をもたらした。連れだって米国へと来ていた妻が、その馬に賭けて大もうけしたこともあって、程なくしてフランスへと戻り、前にも劣らない安定した暮らしを得た。

 そんなジミーの生涯に、名誉を奪われ名前を消され歴史の闇へと葬られる黒人たちの苦渋という、人種差別がもたらした悲劇のドラマといった趣はまるでない。

 というよりそうした型どおりの物語にはとても収まりきらない破天荒な人生。なるほど一芸に秀でることが、人生においてどれだけ大切なのかということを、その生き様が如実に語る。

 才能があれば卑屈にならずに済むのだ。自信をもって女性にアタックし、人生を充実させられるのだ。

 冒頭に添えられたエピソード。1961年にジミーの特集を組んだ「スポーツイラストレイテッド」に招かれ、訪れたケンタッキーのホテルで、ジミーはドアマンから中には入れられないと拒絶される。連れていた娘が雑誌社に聞いてくれと掛け合っても、黒人は白人の居場所に入れないという理由からドアマンは扉を開けなかった。

 娘は焦り憤ったが、ジミーだけは泰然自若と構えて成り行きを待った。やがて連絡が付き、中へと入ってパーティーの席に座れたが、たとえ入れなかったとしても、ジミーは憤りも嘆きもしなかっただろう。経た波瀾万丈の人生と、才能に対する絶対の自信によってもたらされた達観が、ジミーをその場に王として君臨させ続けただろう。

 自分の居場所に悩む者、人生に迷える者がいたならニューヨーク・タイムズの記者、ジョー・ドレイプが書いた「黒人ダービー騎手の栄光」(真野昭裕訳、アスペクト、2000円)を読むが良い。描かれたジミー・ウィンクフィールドの生き様に触れ、何もやらないうちから不満に鬱屈し、朽ち果てようとしている心を改め、自信を持つために必要な何かを見つけだせ。

 そうすれば誰でもジミーのように、ピンと背筋を伸ばして人生を歩いて行けるだろう。


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