口語訳古事記完全版

 「古事記」を研究しています、と言われてまず思い立つのが皇統皇室といったものにセンシティブな方々。日本が寄って立つものとして神話的な基盤を挙げ、それを認めることで現在までいたる日本の統治システムをも是認しようと意識している関係で、思想行動その他もろもろに信念めいたものが漂って、浮ついた人間には近寄りがたい雰囲気があったりする。

 そんなイメージを想起させる「古事記」を、現代語訳してひろく一般にも広めようなんて考えている人だ。どれほどの偏りを思想行動風体に持った生真面目な人かと思っていたら、そんな「古事記」を老人が誰かに語り聞かせるという文体で、時折自らの解釈なり考え方も折り込み老人に語らせる形で著した「口語訳古事記完全版」(文藝春秋、3333円)をひっさげて登場した三浦佑之は、折良く開かれた講演会で見る限り、どちらかといえばフランス文学でも研究していた方が似合っていそうな風体の、語り口は実にソフトで思慮深そうな人物で、なるほどイメージで人は計れないのだということを思い知る。

 話す内容を聴いててさらに納得。「古事記」を研究しているからといって、また「古事記」を口語になおして読みやすくして広めようとしているからといって、決していわゆる皇統がどうといった右方向に強い意識を持った立場ではなく、むしろ「古事記」が「日本書紀」とは違って持っている反権力、反国家な意識への目配りを、汲み取り浮かび上がらせようとしているんだということが分かった。そしてもちろん左方向に気持ちを傾けている訳でもない。反権力・反国家といった部分をことさらにフレームアップして、簒奪やらだまし討ちやらを繰り広げてきた、記紀の時代の天皇家を貶め批判するという感じもない。

 右だ左だといったイデオロギーとはまるで無関係。そうした思考様式から切り放された部分で、ヤマトタケルがクマソタケルやイズモタケルをある意味卑怯なやり方で倒したことも、兄弟親戚の血みどろの争いを経てワカタケルが即位したことも、それが権力に就くということの重さであり、凄さなんだということをニュートラルに読み取り、そうしたことを余さず描く「古事記」の魅力を、率直に伝えたいってのだということを、「口語訳古事記」の刊行に意志として込めている。

 「日本書紀」の表記を採り入れヤマトタケルを「日本武尊」と記述してその英雄ぶりを紹介する「新しい歴史教科書」に対して、友達になったフリをして刀を交換しようと誘って模造刀を渡し、相手が刀を抜けないでいるところを斬り殺した知恵あるいは狡猾さにあふれたヤマトタケルの行為をそのまま記した「古事記」の方をこそ、紹介すべきというのが三浦佑之の主張。同じアメノウズメのストリップぶりを喜ぶ立場でも、神話の豊饒性をあくまで国家への愛着に結びつけようとする意識がそこにある勢力とは、明確に一線を画したものだと言える。

 「日本書紀」が当時は唐だった中国に向けて正史の帝紀的なニュアンスで編まれたのに対して、「古事記」は逆に内側の日本という国の、それも朝廷がかつてさまざまな滅ぼし埋め消して来た存在に対して一種鎮魂のニュアンスを込めて書かれた部分があると三浦佑のは主張する。なるほど「日本書紀」にはない出雲でのオオクニヌシの冒険譚が「古事記」には書かれ、出雲という地域にあっただろう大和とは違う勢力を示しつつ、今はないそうした存在への意識を読む人に抱かせ、滅ぼされた恨みを鎮めていたりするのかもしれない。ワカタケルこと雄略天皇によって討たれることになる目弱王のエピソードを細かく拾い、目弱王を助ける葛城氏を忠臣として描くことによって、雄略以後に滅ぼされていった葛城氏の御霊を鎮めようとしているのかもしれない。

 漢文をそのまま置き換えたような文体では表記としては無理のある、句点のまるで存在しない西郷信綱の言うところの「重層列挙法」が使われている「古事記」をどう口語的したかは注目のしどころ。ヤマトタケルが食事に出てこない兄貴をちぎって包んで捨ててしまったエピソードでの、「泥疑(ねぎ)」という言葉の解釈の違いをめぐる親と子との間にどんな時代も横たわる断絶めいたものへの指摘など、豊富に付けられた脚注を読んでいるだけでも「古事記」の持つ豊穣さが伝わり、往事の文化や言語や風俗への関心が浮かんで来る。歴史好き、物語好きなら読んで損なしどころか読まずにはおかれない1冊だろう。

 日本の古代を舞台にしたファンタジー小説を書いている人、そうした小説が好きな人だったらなおのこと。本に丁寧につけられた注釈で得られる知識は百科事典を繰るより素早くそして的確に頭に入る。何より巻末の皇室の系図が素晴らしい。史実をテーマにした古代史物の作品を書くなり読むときにとてつもなく役に立つ。神話ファンタジーに古代史ロマンを楽しむなら傍らに1冊は是非に。


積ん読パラダイスへ戻る