傷物語 涜葬版

 「我が名はキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード、瀉血にして喀血にして献血の吸血鬼じゃ」「出してばっかじゃん!」「間違えた。我が名はキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード、鬱血にして貧血にして潜血の吸血鬼じゃ」「医者いけよ医者!」

 などという会話は特になかった、西尾維新の小説「傷物語」を原作にした劇場アニメーション映画「傷物語1 鉄血篇」は、冒頭から直江津高校前で羽川翼が白の大三角をぶわっと見せてくれて、これは絶対にTCXの巨大なスクリーンの前目の席に座って、見上げるように浴びるように見なくてはいけなと、同じ日の夜の上映を予約させてしまうくらいに、、強烈なエナジーを放つ映画だった。

 そんな阿良々木暦との恥ずかしさも混じった出会いから、一気に友人関係へと持って行くところに、羽川翼のタダモノならぬ雰囲気といったものも見て取れたけれども、そんな出会いで羽川翼から見せつけられた白の大三角が、阿良々暦を文字通りに突き動かして、夜の銀座……ではないけれども、そうした感じの場所へと向かわせ、そして地下鉄の奥の奥で瀕死のキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードに出逢わせる。

 不穏な空気が漂う中、地面に転々と続いているのを見かけた血痕を辿った地下鉄の構内で、出逢ったキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードの、手足をもがれた姿で悲痛な声で泣き叫んだりするシーンを目の当たりにすれば、阿良々木暦でなくても貧相な人間のその命など、捧げても良いと思うものなのか。たぶんそうなのだろう。

 そしていったんは逃げたものの、戻って自分を捧げると言った阿良々木暦の言動に、何か心打たれるものがあったのか、血を吸い尽くしはしても命は奪わず眷属へと変え、自らは現れる小さくなったキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード。その可愛らしさに心動かされて、白い三角のことも記憶の彼方へと後退し、眷属となって赴いた先で出逢った3人の吸血鬼狩りたち。そして現れた忍野メメが、自分を元に戻す代わりに200万円を支払うといった阿良々木暦の言葉に、「まいどあり」と商売っ気たっぷりな笑顔で答えて、映画はひとまずのエンディングを迎える。

 そんなアニメーション版「傷物語1 鉄血篇」で、高いところか飛び降りて登場した忍野メメの空中をかっとぶアクションも、阿良々木暦が太陽に焼かれて火だるまとなってのたうちまわるアクションも、見て作画として凄い上に、そうではない場面の風景を淡々と流して、そこに人間を最小限置いて語らせ物語を進めていく技も、テレビシリーズでいつもどおりといった感じで、さらに映画ということもあって、やや過剰さもあって目を釘付けにさせる。小説を読んでいるだけでは感じられない迫力といったものが、映画にはある。

 物語はいったこのあとどうなるんだろう。それが気になって仕方がない人は、地下鉄のホームで血まみれになって転がるキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードの表紙絵が、眼にも戦慄の西尾維新「傷物語 涜葬版」(講談社、2300円)を買って読むと良い。映画と小説ではシチュエーションにおいて違うところがあったことに今さらながらに気付かされるはずだから。

 というか、テレビアニメーション「化物語」の完全版で「ひたぎクラブ」の始まる前にキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードと阿良々木暦が出逢った場面がふわっと描かれているけれど、そこでは道端に立ってる街灯の下にもたれかかるように妖艶なキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードがいて、じっとした眼差しで阿良々木暦を誘っている。それは小説版でも同様だったけれど、映画ではどこかにある地下鉄のホームにしたことで、そこに至るまでのドキドキとするような雰囲気が醸し出される。

 いったん逃げ出した阿良々木暦にキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードが叫びわめき、絶望感を覚えて涙する姿に心底からの同情というか、憐憫といったものを感じさせる。それをいったん、ホームから離れてエスカレーターを駆け上がり、地下道の入り口付近まで後退した阿良々木暦の、葛藤とも懊悩とも言えそうな施策と重ね合わせて、自分のことのように捉えさせては、戻り自分を諦めながらもキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードを救おうとするその意気に、自分を移入してああ良いことをしたかもしれないなあと思わせるようになっている。

 それは単純に、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードの悲痛な叫びのたまものなのかもしれないけれど、いずれにしてもあの空間の移動が心に感情を溜め込み、こね混ぜる時間のゆとりを与えている。そう言えば言えるかもいれない。そういう原作にはない加工が他の場面でも結構ある。閉鎖された学習塾を山梨文化会館をモデルにしたことで、人間といったものから離れ、荒涼として寂寞とした中でひとりぼっちになってしまった感じが、テレビシリーズの雑居ビル的な舞台よりもよく出ていたような感じがした。

 あそこに例えば羽川翼が紛れ込んでも、同じような雰囲気が出るか、っていうとそこは映画を作る人の腕前か。吸血鬼でも怪異の専門家でもない彼女にはあそこがどう見えているのか。それが知れるのは次の「熱血篇」かそれとも最後の「冷血篇」か。付き合っていこう、最後まで。小説版に描かれた、羽川翼が次に自ら見せるシーンがどう描かれるのかがとりあえず、最も気になるところだろうか。


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