金の国水の国

 ひとつの神話の誕生に、私たちは居合わせているのかもしれない。

 それは、作品そのものが話題となって、世に広く名を知られて長く語り継がれるようになるといったことでもあるけれど、別にとある世界、とある国と国とが対立から和解、そして共に手を結んでの繁栄へと至った物語を、奇跡と認めてその経緯を一種の国作りの神話として語り伝えていくという、そんな始まりに居合わせているということでもある。

>  岩本ナオの「金の国水の国」(小学館、593円)という漫画に描かれた物語は、たとえ架空であっても、たとえ漫画であってもそこに感銘があって教訓もあって、そして未来を示す教唆が見えるという意味で立派に神話としての価値を持つ。なおかつエンターテインメントとしての面白さも。

 A国とB国という、隣り合わせている国が戦争をしたことを神様が見とがめ、仲裁に入っては交易で栄えながらも、砂と岩ばかりで水資源に不安なA国と、森と水に恵まれながらも、なかなか産業が育たず貧乏なままのB国との間で、それぞれに人をやりとりするよう言いつける。

 内容は、A国からは1番美しい娘をB国に嫁にやり、B国からは1番賢い男をA国に婿にやれ、というもの。そしてA国では、国王の妾の末娘サーラがB国からの婿を迎えることになったけれど、着いた輿を開いたらそこに犬が寝ていた。そしてB国では、建築に通じた学者の息子ナランヤバルがA国からの嫁を迎えることになったけれど、こちらに来たのは猫だった。

 A国の王もB国の族長も、神様の言いつけを守らなかったということ。それで罰が当たらないところに神様の存在が疑われるけれど、結果としてもたらされた事態を考えると、もしかしたら神様は、そうした先々まで想定して、王や族長の不敬を見逃していたのかもしれない。ともあれ犬を迎えたA国の姫、サーラは騒動になるし犬も殺されてしまうからと父王に告げ口をせず、犬といっしょに暮らし始める。ナランヤバルも気にせず猫と暮らし始める。

 そんな2人が出会ってしまった。A国とB国の国境付近で、ルクマンと名付けた犬を連れて歩いていたらルクマンが山芋を掘った後の穴に落ちてしまった。困っていたところに通りがかったのがオドンチメグと名付けた猫を連れたナランヤバル。ルクマンを助けて親しくなったサーラから、家に来て助けてくれと頼まれ着いていって、そこで彼女がB国から婿を送られた姫だと知り、それが犬だったことも知る。

 けれども黙ったまま、ナランヤバルはサーラの姉たちが直して欲しいと言っていた時計の修理に赴き、そこに入り浸る元役者で顔立ちの良さから登用されたらしい左大臣とも知り合いになって、2人で水が枯れかかっているA国をどうにかしようと計略を巡らせる。一方でサーラも、迷い込んだB国でナランヤバルの父と知り合うものの、ナランヤバルに妻がいると信じてしまう。

 そこだけはちょっとすれ違った2人だったけれど、互いに才能を信じ優しさを信じていきながら、対立していたA国とB国の橋渡しをして2国が共に栄え続けるための道を探ろうとする。そして得られたひとつの奇跡。犬を送り猫を送った策略が、けれども心の綺麗な2人を会わせて国を近づけ平和と繁栄をもたらした。

 だったらこれから嫁は猫を送り、婿は犬を送るべきかといった教訓にはならないけれど、対立していてもわかり合える部分はあるといった教訓は得られそう。上に立つ者たちが暗愚でも、A国の第一王女のように国の行く末を考え、有閑を装いながらも優れた者を集め、ナランヤバルのようなB国の人間にも行動を許して王を牽制し、民を救おうというものもいたりする。そんな思いをどう広げ、叶えさせるべきなのか。勇気というものの大切さを教えられる。

 そんな姉も素晴らしいけれど、姉たちを動かしたサーラという姫の、誰よりも優しくて感性が豊かで開明的なキャラクターが良い。ちょっぴりふっくらしているけれどそこもまた愛らしい。ナランヤバルの方も風体は胡乱ならがも建築や土木に通じていて、左大臣らを図ってB国から水を引こうとし、妨害もはねのけて両国を立て直そうとする。才能は意外なところに眠っているのだなあと言うのも、物語から得られるひとつの教訓だ。

 ここに至るどこかに、あるいはすべてに神様の思惑があったのか否か。神様に聞いてみなければ分からないことだけれど、そうやって生まれた平和を繁栄を見るにつけ、相争う国々がちょっとした優しさの交流から繁栄を得るという神話の雛形として、「金の国水の国」は語り継がれることになるのかもしれない。


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