風の名前

 その世界では「あなたのお名前なんてーの」と算盤のリズムに乗せてトニー谷がたずねたところで誰も答えてなんかくれない。その世界では「名を名乗れ」と問われて「赤胴鈴之介だっ」と答えた途端に勝負は鈴之介の負けとなる。キーワードはそう「名前」。その世界では名前が力の源であり、名前を知られた存在は支配すら甘んじて受けねばならない。

 名前を聞き出せないトニー谷にも名前を名乗れない赤胴鈴之介にも大変に暮らしにくい世界だが、トニー谷にも赤胴鈴之介にも別に無理に住んでくれとは言ってないので、彼らは彼らの流儀が通じる、名前など個人を識別する記号でしかないこの世界で、芸風なり剣の腕を磨いてもらおう。もっとも妹尾ゆふ子の「風の名前」(プランニングハウス、800円)を読んで、名前が呪術的だったり神秘的だったりする力を持っていたことが知れ渡ってしまったら、この世界だってトニー谷や赤胴鈴之介が暮らしにくい場所になってしまう、かもしれない。

 物語は闇の中で目覚めた母なる女神の蠢動に近い描写で幕を開ける。我が子を喰らうその姿はギリシア神話の巨神にも似て後の絢爛たる神話世界への進展を想起させるが、本編は一転して砂塵の吹きすさぶ不毛の荒野を舞台に、1人の美しい少年が、堂々たる体躯の馬にまたがって旅する場面から始まって、炎に燃える神殿へと足を踏み入れ1人の少女と出会う場面へと続いていく。

 少女、といってもそれは見かけだけの事で、中身は代々すべての生命の母にして守護者なる生命の女神に仕え、その神殿を護って来た大巫女だった。もともとは神殿に使える巫女の1人でトゥーリヒアと呼ばれていた少女の体には、先代の老女と化した大巫女の体から魂と記憶が移り入っていた。大巫女は巨大な幻獣、長虫に襲われた神殿を守ろうとして果たせず、燃え盛る神殿でまさに死の淵にあった。

 そんな神殿を訪れた少年は、大巫女に自分を長虫を追って旅する者と告げ、妖魔使いのようなものだとも告げた。世界にひそむ妖魔の名前をからめ取っては使役する妖魔使い。だが少年は名前が力を持つこの世界にあって、何故か自らの名前を不要と言い切る謎を秘めた存在だった。大巫女世界の果てへと突進する長虫を倒すために、本来ならば相容れない存在である少年と連れだって、長虫を追って旅立った。

 不思議な少年の力によって、大巫女の体に大巫女と重なり合って甦ったトゥーリヒアの魂が見せたのだろう、彼女と同じ巫女仲間の3人が長虫の襲来前に交わした言葉が綴られ、大巫女は肉体が生まれながらに持っていた名前の少女の記憶を魂の片隅に宿らせたまま、少年との旅と続ける。向かった先で見かけたのは、かつて彼女が一緒に神殿から脱した巫女仲間の1人、エウテシュ。そしてエウテシュは果敢なのか無謀なのか、巨大な長虫を御してその力で世を支配しようとする領主の望みを叶えようと近づく長虫に挑もうとしていた。

 地響きの聞こえて来そうな大巫女と長虫の対決が描かれるクライマックスのシーンで、ようやく明かされる長虫の秘密と少年の正体、そして大巫女たちが代々執り行って来た祭り事の訳によって、目前のスペクタクルなどほんの些末な出来事でしかない、人間世界のレベルに止まらない長い時間と壮大なスケールを持った、ある意味では謀略と言える物語の構図が浮かび上がって来る。名前が力を持つに至った訳も、およそ人間では計り知れないスケールを持った「対立」に、記憶と知識と魂を器が変わっても代々受け継がれるようにすることで、人間を手ゴマの1つとして加えるための手段だったからなのかもしれない。

 だからと言って「すべては神の思し召しの中に」などと、人間の卑小さをのみ嗤う物語では決してない。受け継いだ責務を果たすために命を投げ出す代々の大巫女たちがいて、母なる女神の歪んだ愛情終局に開かされる我が身を奉じてまで女神を祭ることを忌避する娘がいて、俗世の男へと寄せる想いに身を滅ぼして幻獣と化したりする娘がいる。踊っているように見え、結局は踊らされているに過ぎない人間であっても、それぞれが信念を抱き、愛し合い、想念に燃え、憎み合って生きているその様を、どうして嗤うことなど出来よう。

 なにしろその人間たちの生き様は、世界のどこにも属していなかった名無しの少年すら動かしたのだから。そして世界を「あたらしい時代」へと導いたのだから。「あたらしい時代」でも名前が力を持って肉体を支配し続けるのかは解らない。だがおそらくは、名前などという肉体を識別するための単なる記号ではなく、肉体と1つになった魂こそが力の源となって人々を導く時代が開けていくのだろう。またそうなるべきなのだと、係累肩書き学歴といった魂とは無縁の「名前」が力を持って幅を利かせる現代において強く願う。

 だから望む、トニー谷も赤胴鈴之介も安心して芸を披露し、剣を取れる世界を今も、そしてこれからも。


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