風が強く吹いている

川原泉が好きだ。スポーツを描いた川原泉の作品が大好きだ。

 バレエダンサーを父に持つ女と、スピードスケートのメダル候補と言われた男が、どういう訳かフィギュアスケートの世界で大活躍する「銀のロマンティック…わはは」。九州の田舎にある高校の弱小野球部が、女性監督の采配と選手の見えていなかった才覚で、甲子園に出場して決勝戦まで進む「甲子園の空に笑え」。女性ばかりのプロ野球チームが、偏見に負けず男性のチームに闘いを挑み、勝利を重ねていく「メイプル戦記」。みんなみんなお気に入りの漫画たちだ。

 同じスポーツを描いた漫画でも、「巨人の星」や「あしたのジョー」とはまるで違う。「ドカベン」「野球狂の詩」なんかともやっぱり違う。熱血にはほど遠い、のほほんとした空気を漂わせながらも、ところどころに努力がにじみ、頑張りが輝く描写があって、やればできるんだって思わせてくれる。後ろ向きに逃げることより前向きに、楽観的に臨んで突破していく楽しさを感じさせてくれる。

 そんな風にスポーツを描ける漫画家なんて他にいない。小説やドラマも含めたあらゆるクリエーターに範囲を広げても、存在なんてしないと思っていたところに、強力な作品が現れた。「まほろ駅前多田便利軒」(文藝春秋社、1600円)で直木賞を受賞した三浦しをんの「風が強く吹いている」(新潮社、1800円)を開き、冒頭のシチュエーションを目にするだけで、そこに川原泉の漫画に感じられる喜びと明るさと楽しさがわき上がる。

 箱根駅伝に大学最後の年をかけたいと思いつつも、長距離を走るメンバーはゼロという寛政大学陸上部に所属する4年生のハイジが、銭湯帰りに外を万引き犯だという叫びを背にして駆けていく少年を見かけ、その走りっぷりを気に入り、追いかけていく冒頭からして川原泉の漫画的。若くてギラギラとした表情に、パンを手にしてたったかたったかと駆けていく少年のその横を、ぬぼっとしつつも目は死んでいない兄ちゃんが、せっせと自転車を漕ぎながら「おーい」と声を出しつつ追いかけていく絵が目に浮かぶ。

 実は高校界期待の長距離ランナーと目されながらも、押しつけられる練習に耐えられず暴力沙汰を起こし、陸上競技から遠ざかったまま寛政大学に入学して来たのがパン食い少年の走(かける)。名前からして陸上選手のような彼の過去に気づき、また走る姿を見て才能を感じたハイジは、走をアパートへと引っ張り込んでそして1つの宣言をする。

 実は陸上部の合宿所だったアパート「竹青壮」に、それとは聞かされないまま暮らしていた、大の漫画好きだったり学生のまま司法試験に合格していたり、外国からの国費留学生だったり陸上経験はあっても煙草まみれで走れなくなっていたり、双子だったりクイズ王だったり田舎の神童だったりといった8人もメンバーに引っ張り込み、ハイジと走も合わせて箱根駅伝に必要な最低限の10人が揃った、さあ箱根駅伝に出場するぞと意気込んでみせる。

 もっとも陸上の経験なんてほとんどないか、あっても過去のことという面々。例えばアフリカからの留学生は、スポーツはからっきしなお坊ちゃんで、外見だけでスポーツが得意と思われる不本意から最初のうちは参加を嫌がる。漫画好きの”王子”に至っては、5000メートルを走るのに30分以上を要する運動音痴で、駅伝に出場する資格すら得られそうもなかった。ひとり走だけが、キャプテンのハイジより速い記録を持っているが、それだけに他のメンバーの体たらくに無理を早々と感じ取って、呆然とする。

 ところが諦めなかったのがキャプテンのハイジ。せっせと食事を作り面倒を見てきたことを理由に住民たちをなだめすかし、箱根を走ればテレビに映って就職にも有利だと煽り、拒否すれば膨大な漫画本ごと追い出すと脅してメンバーにやる気を出させ、どうにか箱根に出場できる記録を持ったランナーへと育て上げていく。未経験の2人にフィギュアをさせ、女性ばかりの球団にリーグ優勝を競わせるような無理がひっくり返る川原泉の漫画からも得た、落ちこぼれたちが頑張り輝きを増していく姿への共感が、「風が強く吹いている」の物語からも強くわき上がる。

 かくしてどうにか出場権を得て臨んだ箱根駅伝のレースシーン。ランナーたちのそれぞれの思いが描かれ、起こるアクシデントをひとりひとりが頑張り乗り越えていく姿が描かれるなかで感動が、1つ、また1つと高められていく。漫画だったら1話また1話とキャラクターの描写を積み重ね、感動の最終回へと向かっていくような畳みかけが、強い言葉によって現された名場面。その盛り上がりっぷりを、是非に絵なり映像によって見たくなる。

 そして迎えるエンディングの、何かを犠牲にしてでもつかむ栄光の座の素晴らしさに、「銀のロマンティック…わはは」の描いた悲しくて面白くて美しくて眩しいエンディングが重なり、「甲子園の空に笑え」の可笑しくて楽しくて面白いエンディングも重なって、心からの感動を浮かび上がらせる。挫折もあるけど鬱にはならず、明るく楽しく乗り越えていきたどり着いた幸福の地平。その前向きさが息苦しさに後ろをむいてしゃがんでしまっていた心に前を向かせ、最初の1歩を踏み出させる。

 才能のある選手たちが集まり、それなりの訓練を経て臨んでも出場すらおぼつかない場合だってあるのが現実世界の箱根駅伝。走った経験すらない選手たちが、1年も待たずにそれなりの記録を出せるようになり、出場権を勝ち取るなんて、「甲子園の空に笑え」の豆の木学園以上の強運が必要となるかもしれない。あるいは「メイプル戦記」のメイプル球団のようい、癖はあってもそれなりの力を持った人たちが、偶然に集まらなくては起こり得ない結果かもしれない。

 真っ当に考えればあり得ない話ではあるけれど、だからといって荒唐無稽さに目をそむけたくなるようなことはない。いくら現実から遊離した世界が舞台でも、漫画やアニメーションに描かれるドラマを荒唐無稽だからと拒否する人なんていない。「風が強く吹いている」のラストに味わえる幸福感の最高なこと。読めば眉をひそめる暇なんてなく、ハイジの叱咤に引っ張られ、走の蘇った熱情に押されて最後までを一気に走らされる。感動の風に浸らせてくれる。

 物語の面白さを味わった人ならば、必ず箱根駅伝を見たくなるこはずだ。そして毎年1月2日と3日のテレビ中継に映るランナーたちの走る姿に、「竹青壮」から出場した寛政大の選手たちを重ねてみたくなる。ゴール地点となる大手町へと行き、駆け抜けてきた奴らの凄さを讃えたくなる。

 「風が強く吹いている」が出たこれから数年は、そんな人たちで大手町もごったがえしそうだ。


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