ぼくは彼女のふりをする

 止められず、後戻りができない時間の中で、もう前には進みたくないと思ってしまうことが人にはある。たとえば、ずっと傍らにいた大切な誰かを失ってしまった時。喪失の苦しみを抱えたまま、生き続けることはとてもとても心に苦しい。それだけではなく、時間が流れていった先でもしかしたら自分は、大切に思っていた誰かのことを忘れてしまうかもしれないと考えると、それは絶対に嫌だと足を止めてしまいたくなる。

 変わらない今がずっと続けば良い。嬉しかった時間にずっと浸っていたい。そんな思いにとらわれて時を止め、歩みを止めてしまった人を果たして責められるのか。いっしょになって時間を止めてあげるのではないか。そんな想像を、内田裕基による「ぼくは彼女のふりをする」(主婦の友社、1000円)を読んで心に浮かべる。

 ひかり、という名の双子の姉が、目の前で車に跳ねられて死んでしまった。自身、衝撃は大きかったはずなのに、残されることになった弟の朝陽は、姉の不在にだんだんと壊れていった母を安心させようとして、姉の制服を着て母の前に立つ。すると、弟の存在はすっかり忘れてしまっている母が、なぜか姉はいると認めて話しかけてくる。

 双子のうちで、決して姉だけがひいきされ、弟がないがしろにされ続けていた訳ではない。アクティブな姉はけれども勉強の方はうまくなく、弟が通っていた私立の中学校にはいっしょに通っていなかった。体が強いとは言えず、それでいて成績優秀な弟の方にこそ目をかけても不思議はない状況だったけれど、母は死んだ姉にとらわれ続けてその死を認めようとせず、生きていた時間に心を止めようとする。

 だから弟は、家では姉の服を着て母と話した。そのまま外にも出て歩いていたら、野球少年から一目見て気になった、逃したくないと思ったと言われて話しかけられた。立花尋という名の少年は、野球部では結構なスラッガーで、女子からも関心を持たれていたけれど、中身が男であるにも関わらず、きゃしゃな姿態に姉の服を着ていた弟にたぶん恋心を抱いて、野球をしている場所に立ち寄ったらそれまでやる気を見せていなかったのが、代打を買って出て格好良いところを見せようとした。

 自分はほんとうは男だと明かさず、尋といっしょに出かけたりメールをやり取りするようになった弟。勘違いしている相手は別にして、弟の方に何か尋に恋情めいたものを覚えるということはなく、壊れたままの母とのコミュニケーションが可能な手段として、姉の服をきて姉のふりをし続ける。もっとも、多感な中学生は体も成長していく。声変わりが始まり、朝陽との息抜きのような時間はいつまでも続けられなくなっていく。

 そして朝陽に起こったひとつの事態。それは、ただ母を安心させようとして身を削ったから起こったものなのか。実は自身も喪ってしまった誰かを感じ、何かを感じて変わっていこうとする日常を先へは進めたくないと踏みとどまっていたのではないか。単身赴任したきりで帰って来ず、連絡も入れてこない父親も含めて、誰もがひとつの喪失をきっかけにして、心を虚ろにして漂わせていた。

 それでも、時は止まることはないし明日が訪れないこともない。成長によってつかの間の逃げ場所から追われそうになり、限界にきていた肉体も悲鳴を上げ、そして母に認められない心も悲鳴を上げたように朝陽を苛んだ先。時間が動き出して心も揺らいで朝陽は自分という存在を確認する。姉のふりをし続けることから卒業する。

 悲しみに沈み、痛みから逃げていた人たちが、何かを与え何かを与えられることで自分たちを取り戻す。「ぼくは彼女のふりをする」はそんな物語だ。

 通りすがりのように、姉の服を着た弟に心を惹かれてしまった尋にとって、突然に目の前から消えてしまった少女のことは、ずっと心に引っかかっていたのだろうか。それともどこかで感じ取って、事情もくみ取って納得をしたのだろうか。エンディング、思わぬ場所で“再会”を果たした尋が向けてきた言葉の意味を、朝陽はどう受け止めたのだろうか。考えなかったという朝陽に代わって考えてみることで、人を思うことの喜び、喪うことの悲しみ、背かれることへの憤りに迫っていけるかもしれない。


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