悲しい話は終わりにしよう

 父親がいて母親がいて、双子だけれど弟がいる家庭に生まれて暮らし、普通に就学して成人して就職して今へと至り、親戚にも周辺にも早世はあっても不慮といえる死はあまりなかった身には、家族や友人が災厄と呼ばれるくらいの不幸な事態に見舞われて覚える感情といったものを、なかなか理解しづらかったりする。

 それでも、想像するならその心情はやはり厳しく、慟哭から絶望へと至りやがて諦観を絵ながらも傷心を引きずりながら、下へ上へと行ったり来たりするのだろう。小嶋陽太郎による小説「悲しい話は終わりにしよう」(KADOKAWA、1400円)を読んまず浮かんだのが、そういった思考だ。

 冒頭、雨の降る日に図書館にこおり、ソファで眠りながら友人と未来とか希望について話している夢を見て目覚め、そしてもうあの場所には戻れないと自覚する誰かの言葉がプロローグとして綴られたあと、「市川」という章題を得て物語りは動き始める。それが名字らしい市川は、長野県の松本市に育ち、そのまま地元の高校から地元の信州大学に進んで自宅から自転車で通い始めて、そこで広崎という男子と知り合い、吉岡という女子とも知り合う。

 サークルに入って活動を始めることはしなかった市川は、東京出身の広崎が暮らすアパートの部屋に上がりこんで漫画を読み、ビールを飲んでいろいろと語り合って過ごしていた。やがて広崎はフォークソングを歌うようになり、ライブハウスにも出入りするようになってファンもついてくる。市川は自動車の運転免許を取ったり、在庫をカウントするアルバイトに勤しむようになる。

 ひとり女子の吉岡は快活で明朗で、市川や広崎と会えば話していっしょに飲みもしていた。最初はそこに恋仲といった関係はなかったけれど、少しずつ惹かれたり惹かれられたりする状態になっていって、男子2人に女子1人のトライアングルに起こりがちな崩壊への予兆が漂い始める。

 いかにも大学生の青春といった雰囲気で進んでいく、そんな市川のパートと入れ替わるように、「悲しい話は終わりにしよう」では「佐野」という章題のパートが綴られていく。そこでは中学生の佐野という少年が、印刷機を売っていた父親に家で自殺されるという不幸を得つつも、鬱屈はせずに日々を過ごす中で奥村という同級生の少年と仲良くなり、彼がひとり続ける放課後勉強クラブで集い、語らうようになっていく。

 中学生にしてはともに達観したような奥村と佐野の会話は、ちょっとませた中学生の日々といった雰囲気だけれど、父親が自殺した市川と似て、奥村にも母親から暴力をふるわれ続け、その母親が壊れたように事故で死んでいった過去があった。もうひとり、クラスメートとなった沖田という少女にも、母親が水商売で働いているという事情があった。

 3人とも両親がそろい、会社員なり公務員なり自営業といった家庭に生まれ育った子供たちといった“定型”に収まらない。だからといって現実にも存在する境遇に生きている少年少女の日々。それが次第に壊れていく。浮かぶ恋情。抱く嫉妬。そして憤り。それらのぶつかり合いの先である種の悲劇とも呼べそうな状況が訪れる。

 戻って市川のパートも、思い思われる複雑な関係が市川の心情を揺らし広崎の決断を促す。吉岡は抱えていた揺らぎに苛まれて関係が壊れかける。そこに佐野のパートが至った悲劇的な状況がつながって、ひとつの道となって見えてくる。どこか虚無的で達観したような生き様を見せていた市川が、心に何を思って大学生としての日々を生きていたかを、読み返して考えてみたくなる。

 経験のない身に佐野の苦しみや奥村の葛藤は感じづらいし、市川のような青春の迷いも記憶の彼方に忘れられている。それでも連ねられた2つの時間に生きた少年少女の物語から、その時に逃げず立ち向かえば良かったと知り、だから今こそ逃げずに立ち向かったのだと知れるだろう。

 傷ついたのだからまた傷ついたって平気なはずはないし、傷つけたって良いということもない。振り返りかみしめて立ち上がり、迷っても失敗してもその都度に心身を改め這ってでも前へ進むのだ。そう諭されたような気持ちになれるだろう。

 綴られた物語が実録か虚構かは分からない。それはどちらでも良い。読めば小嶋陽太郎の「悲しい話は終わりにしよう」は迷う心を何処へと導くはずだ。何処かへと。確実に。


積ん読パラダイスへ戻る