神様のパズル

 100年くらいは生きられても、人間は200年は生きられない。50万年くらい人類は栄えて来たけれど、これから50万年栄え続けられる保証はどこにもない。太陽系だってあといったいどれだけ保つのやら。いつかきっとすべてが塵となり雲散霧消してしまう。

 すべてが消える。すべてが無になってしまうのだとしたら人間が、生命が、存在がこうして何かを生み出し続けているのだって、空しく虚ろなことではないのか。と、そう考えて悩み悶える人は今に限らず過去にもいくらだっていて、だから現世とは違う来世の存在なり、極楽往生といった考え方が生まれ、人々を納得させてきた。

 もっとも厳密に言えば転生も往生もしょせんは慰めに過ぎない。死ねば無になる。宇宙もいつかは無に帰する。これは厳然として変えられない事実だ。だからといって今、すぐにでも世界がなくなってしまって果たして良いものなのだろうか。死ねば無に帰する肉体を持っていて、いつかは無へと還る宇宙に住んでいるからとって、すべてを終わりにしまって良いものなのだろうか。

 人が物事を考えるようになり、死を恐怖として意識するようになってこのかた、幾万幾億と考えられて来た問いかけに、宗教くらいしか答えを与えられなかった人が、世界が、宇宙が存在する意味に、SFの力で挑もうとしたのが、「第3回小松左京賞」を受賞した機本伸司の「神様のパズル」(角川春樹事務所、1700円)だ。

 大学生の綿貫基一は卒業を1年後に控えた大学生。決して優秀な学生ではなく、特定のテーマをもって学業に勤しんでいる訳ではない彼だけに、素粒子物理研究室を卒業ゼミを選んだもの、憧れていた女性がそこに入るからという不純な理由で、あわよくば単位も彼女も獲得して、両手に花で卒業したかったようだけどそうは問屋が下ろさなかった。

 割に人気のゼミに成績がギリギリの彼が入れた裏には、どうやら学校の広告塔にもなっていた天才少女の面倒を見る人が欲しいという事情があった。「むげん」と呼ばれる研究施設の基礎理論を9歳でうち立て、大学には飛び級で入学してきたまだ16歳の穂瑞沙羅華がこのところ”登校拒否”になっていて、それを綿貫に引っ張り出して来てもらおうという意図が、ゼミの教官たちにはあったのだ。

 それでも卒業のかかった綿貫は、否も応もなく申し出を受け入れることになり、沙羅華の家へと出向く。部屋にいた沙羅華はなるほど美少女ではあったけど、同時に天才少女でもあって、口を開けば直裁的で歳ならはるかに上の綿貫をたじろがせ、自分に分からないことはないといって卒業ゼミへの出席を拒否して来た。

 ところが突然風向きが変わる。聴講生として来ていた老人から、宇宙が無から生まれたなら、人間にだって作れるのではないかと聞かれたことがきっかけとなって、沙羅華はゼミに出るようになり、綿貫といっしょに宇宙の作り方について研究を始めることになる。そして以後、、物語は「宇宙の作り方」に関して、相対論に素粒子論に量子論といったものを駆使した丁々発止の議論が繰り広げられながら進んでいく。

 ともすれば暗号と外国語の羅列にしか思えない物理の理論が頻発する議論だけど、稀代の天才少女と、どちらかといえば劣等生の綿貫を対置させて、天才が劣等生に説明するような形をとっているため、読んでいて理論の難しさに大きく悩むことはない。物理に詳しければ、彼らのうち立てた理論のどこがどう、現実から飛躍しているのかも分かって面白いだろうけれど、そういうものだと思って読めばそれで面白い。

 それよりも「宇宙の作り方」に関する議論から浮かび上がって来る、人は何のために生まれてきて、生き、死んでいくのかといった古来より続く命題への、思考と懊悩の描写に人間として興味を抱かされる。ひとり田圃を守り死んでいった老婆の生き様を一方に置き、文明を発達させては滅び消え去っていく、沙羅華の作ったシミュレーションの人工宇宙の知的生命体を一方に置いて、その狭間で生きる意味を探り惑う沙羅華たちの様に、いつか死ぬ身を抱える人間として興味を覚える。

 量子だ粒子だと言った割には妙に哲学的で人間くさい結論で、悩みをすっかり解消させっれるまでには至らない。それでも、さまざまな妄想や想像が入り込む余地があるんだということも含めて、科学や物理の可能性と影響力と限界を考えさせてくれた意味はあった。天才少女の沙羅華が、宇宙の作り方に自分が知らないことだから、という理由以上に興味を抱いた原因に当たる、天才少女故の悩みめいたものにも人間らしい俗っぽさが見えて好感を持てた。

 延々とした議論の果てに事故が起こって新しい1歩、といった話の果たしてこれがSFか、という問題もあるけれど、想像と妄想とが紙一重となった理論で、新しい”世界”を創造し、想像してみせた上で影響や反応を提示して見せてる部分は、紛うことなきSFと断言できる。異色作と見るか直球と見るかは人それぞれ。世界への意識と同時に、SFへの意識も試される作品なのかもしれない。


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