神曲プロデューサー

 わがままでも気まぐれでも傲慢でも、才能があればすべて許される、というのは少し違う。

 わがままなのは自分自身を貫こうとする強い意志の現れであり、気まぐれはあふれ出るアイディアを間断なく世に届けようとして起こる煌めきがそう見えるだけ、傲慢は自分自身にはすべて見えていることが、他にはまだ見えていないことから浮かぶ戸惑いと焦りが形になったもの。

 つまりは、才能というものが土台にあって、それを表現しようとする時に生まれる世界との確執のようなものだと考えられる場合だけ、わがままや気まぐれや傲慢は許される。あるいは許されないまでも仕方がないと受け入れられる。音楽家なら音楽であり彫刻科なら彫刻であり、パティシエならスイーツであり小説家なら小説が、人を驚かせ楽しませてその価値を、意味を、存在を認めさせてはじめて、才能は万能のジョーカーたり得るのだ。

 だから奢らない。そして惑わない。時にわがままととられ、気まぐれと見られ、傲慢と思われても、才能は裏切らないと確信し、その結果がすべてをねじ伏せるのだと決心して突き進むしかないのだと、そんなことを杉井光が音楽業界を舞台に連作で描いた「神曲プロデューサー」(集英社、1300円)から思わされる。

 音楽ライターの仕事を通して音楽業界に足を踏み入れ、最初は趣味から楽器を扱うようになり、やがて本格的にスタジオミュージシャンとなって作曲にも手を染め始めた蒔田シュンという青年が、ようやく最初のアルバムを作って世に出した。3000枚。まるで無名の彼の楽曲が、なぜかシングルの配信チャートで1日だけ1位に躍り出る。

 楽器をコマ撮りした自作のプロモーションビデオがネットで受けて、楽曲の人気を押し上げたものらしく、その効果も翌日には消えててしまい、1位にはずっとその位置に居続けた海野リカコという人気シンガーソングライターが返り咲く。圧倒的な才能の持ち主で、世界からも注目されている彼女の位置を、たった1日だけでも奪えたことでシュンは気分が良いと思い、けれども受けたのはPVで音楽ではないと思って落ち込んだりもした。

 いずれにしても、それで終わりだと考えた。ところが。たった1日でもその座を奪ったシュンの曲に、海野エリコが興味を持った。シュンが仕事をしていたスタジオを訪ねてきて、PVの出来を讃え何度も聴いたとまくしたてた。天才アーティストの気まぐれにしか見えなかった言動けれど、その後もエリコはシュンと会い、話し、過去に大ヒットした大御所ミュージシャンの曲とそっくりなところがあると、シュンの曲が問題になってネットから自主的に削除された時は、哀しみ憤ってそしてシュンの味方をし、背中を押し、復活への道をつける。

 音楽に対するとてつもないエリコの才能。それは、自分の音楽を世にだすことにも使われれば、自分が好きだと感じる音楽が世に埋もれてしまいそうな時にも使える。強引で積極的な言動は業界の常識から逸脱して、周囲にいる大人たちを戸惑わせることも少なくない。けれどもエリコは才能を信じて、というより自分の感覚だけに従って行動する。才能がいたずらに虐げられない方へと向かって。

 そんなエリコに関わる音楽業界の才能たちも、エリコに負けず自分の世界をしっかりと持ち、自分の才能を最大限に発揮させられる場所を求めて超然と振る舞う。名ベーシストとして知られながらも体を壊し、余命も幾ばくかという状態になってミュージシャンから足を洗い、海を回ってサーフィンをしていた男は、彼を気に入って起用したいと直談判にまで行ったエリコを袖にする。かつてエリコと結婚していたことがある映像プロデューサーは、奔放過ぎるエリコを相手に家庭を営むビジョンを見いだせないで彼女と別れる。

 チャンスを逃してもったいないといった発想はそこにはない。才能の使いどころがそこになければ目もくれないだけのこと。だから、自分の才能が今もなお必要とされ、そこに加わることで自分にとっての最高が描ける場があると知らされて、ベーシストはエリコとのセッションを認めた。自分がPVを付けたシュンの作った楽曲が、たった1日でもエリコの位置を奪える可能性があるならと、映像プロデューサーは年若いシュンのアイディアを受け入れ、全力を尽くして画期的なPVを作って願望を果たした。

 結果がすべて。結果こそがすべて。それが才能というものに免罪符を与えている。

 シュンが担当することになった、英国帰りのダンサーで音楽にも関心を示している男性アーティストのとてつもない振る舞いは、才能があればどんなことでも許されるという限界を外れ、ただのわがままで気まぐれで傲慢なだけのように見られるかもしれない。商業作品だということを考え、その枠内に押しこめようとするシュンに徹底的に逆らい、強引に事態を勧めようとしたシュンに反発してアーティストはデビューすらも取りやめる。どれだけの損害を与えたかも考えず。

 ただし、その才能は本物だったし、それが本当に発揮された時に世界が受ける衝撃にはとてつもないものがあった。シュンはそのことを分かっていた。分かっていながら常識に従ってしまった。シュンが凡人だったからか? 違う。何千枚ものCDを聴いた中からアーティストはシュンの楽曲を選び、その才能を信じてプロデュースを依頼した。シュンもまたひとつの才能の持ち主だった。けれどもわがままに振る舞えなかった。きまぐれを起こせなかった。傲慢になれなかった。

 そんな弱さが、シュンの元からエリコを去らせて彼を迷わせる。どうすれば良かったのか? 何が本当に必要だったのか? 信じること。自分を信じること。自分の才能を信じること。自分の才能が生み出す結果を信じること。すべてを信じ切る勇気があってはじめて人は才能をフルに発揮し、結果を残して世に認められ、恐れられ、讃えられるのだ。

 嫌われても臆さない。失敗するかもと迷わない。結果に向かってわき目もふらずに突き進む。そのことだけが才能を人に認めさせ、才能なのだからと許され、そして多くに喜びをもたらす。だから挑め。音楽家は音楽に。彫刻家は彫刻に。パティシエはスイーツに。そして小説家なら小説に。そうやって生み出されたものが素晴らしければ、贖罪は果たされ、すべての非難も憶測もねじ伏せられるのだと信じて。


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