鍵穴ポエム

 いくら世界に絶望したとはいっても、10代が思い描ける世界なんて身の回りの一部のこと。その外に広がる世界にはまだ、抱ける希望がいくらだってあるし、そんな希望に近づくだけの時間だってたっぷりある。夢なんて捨てて真っ当な社会人として身を整え、真面目に健全に生きていく道だって選択できる。

 でも、30歳になったり迫ってきたりしてもまだ、描きながらもかなっていない夢がかなう可能性は、10代の頃より小さくなっている。真っ当さを装いながらも技術とか、人脈とかお金を作っていたのなら別だけど、そうでもなくただ夢だけを描いて時間を過ごして来てしまった人が、30歳くらいの壁を越えようとして越えられそうもないと抱く絶望は強くて深い。

 そうじゃない、まだ大丈夫、人生は長いんだ、50歳からだって60歳からだって一念発起できるんだ、と、言って実例を並べ上げることだってもちろんできる。カーネル・サンダースがワゴンにフライドチキンとレシピを積んでアメリカを回り始めたのは幾つの時だ、等々。それでも絶望にいったん覆い尽くされた心に、光を送り届けるのは難しい。

 努力だけでも、才能だけでも超えられない壁に当たって高みを見上げて、その場にうずくまってはいずり回る。のしかかって来る壁に息苦しさを感じ、のたうちまわりたくなる。桑島由一の「鍵穴ポエム」(ノーディスクレコーズ、400円)は、そんな切羽詰まった世代の気持ちがとっぷりと詰まり、じっとりとしみ出して来る物語だ。

 30歳を前にして定職を持たず、アルコール依存症で悶々とした日々を送っている青年が、心を安らげる場所にしているのが馴染みの娘がいるキャバクラと、ドラッグを渡してくれる絵本作家の家。名もある絵本作家は興味があっても自分で手を出しては拙いと、青年を実験台にしてドラッグがもたらす効果を観察していた。

 新しく手に入れたというドラッグは、体に穿った鍵穴状の傷口に、鍵の形をしたドラッグを埋め込むというもの。錠剤だから錠前の形をしているんじゃない、という冗談も飛びだしたそのドラッグを、青年が体の穴に押し込んだところ、どういう効果からか止めどなくポエムがその口から溢れ出した

 内容はと言えば、聞く人すべてを涙ぐませて感動させる。出会った人間を、電車に乗り合わせた人々をポエムで落涙させるその様に、気分を良くして1日1錠と言われていた錠剤を、鍵穴状の傷口へと間断なく放り込んでは、ポエムを吐き出し周囲を感動の渦に叩き込んでいる、と青年は思っていた。

 ところが、絵本作家に連れられて言った先で見かけ、気に入り好意を寄せていたキャバクラ嬢は、眼前でポエムを口ずさんだ時には涙を流しているように見えたのに、通い詰めて聞き出した携帯電話に出た彼女に、ポエムを口ずさんでも気味悪がられるだけ。背後にはキャバクラのボーイの声も聞こえて、自分がただの客でしかなかったことを知る。

 過剰な自意識にまみれ、夢に溺れた果てに行き着いた壁の下で、心を荒ませ歪ませながら地べたをのたうち回る青年の姿が、同じ境地にある同世代の絶望を煽る第1部に続いて収録の第2部も、やはり30歳を前にしたフリーター系の青年が、壁に当たって絶望に打ちのめさせる物語だ。

 デザイン会社に勤めると自称する女性から、自分よりも惨めな様を見せてくれれば家に住まわせてあげると言われ、ヒモになって怠惰な生活を晒して見せる青年。それで巧くいっていたはずなのに、インターネットで知り合った少女から、一緒に死んで欲しいと言われ岡山まで出向いていく。

 実際に会い相手の覚悟を聞いたものの、青年にはまだ躊躇いがあって死を選べない。来週こそはと約束して別れ、1週間後に再会した時は、一緒に付いてきた父親の介入で自殺を果たせず、かといって少女を抱こうにも拒絶されてしまう。少女は父親のところへと戻り、その晩にひとりで死に挑む。

 戻った青年も、ヒモとして居着いていた女性の正体も知ってしまい別れを切り出される。かつて一緒に死のうとした少女からも、一夜の夢が覚めたかのようにあしらわれ、青年は街にたったひとりで立ちすくむ。

 20歳を前に大人として社会に向かう暮らしに不安を覚え、大人になりたくないと怯える若い人たちだっているし、40歳を前に家族を養い資産を得て幸せな老後を送るだけの未来など、金輪際得られないと確信して苦しむ中年だっている。30歳前後にだけ高い壁がそびえている訳ではない。

 とはいえ社会に送り出される時期を不況で塞がれ行き惑い、ネット時代の訪れを掴み才覚と努力と偶然でのし上がっては巨万の富を得た少し上の世代を見上げて育った世代には、その世代に特有の絶望感が、とりわけ広く染みているのかもしれない。

 その世代だからこそ書き得る絶望の物語に、その世代だからこそ抱ける絶望感。いつしかそれは連鎖を招き渦となり、いつの間にかこの国に生まれていた格差の下側で、高い壁を見上げ深い谷を見下ろしながら立ちすくむ人たちを巻き込んで、怨嗟を生み世界を混沌に引き込み、虚無へと至らしめるのだ。

 沃野に退廃を招く険なバイブル。絶望に目を濁らせた紅衛兵たちを生み出す21世紀の毛沢東語録。「鍵穴ポエム」のもたらす影響力は計り知れない。今はまだ、1人の著者の個人レーベルとして、大海に一滴だけ落とし込まれた毒薬に過ぎないけれど、敏感な鼻に嗅ぎつけられた絶望の匂いは、やがて大勢の共感者を呼び世界を絶望のドームで覆うだろう。


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