瞬間移動死体
THE DEAD MAN FLYING
 女性の一言に殺意を抱く瞬間があるとしたら、いったいどんなことを言われた時なんでしょうか。自らの一生を賭して殺人に及ぶほどの一言です。それはもうすさまじいばかりの悪意に満ちていなくちゃいけませんね。「短い」とか「小さい」とか言われたって、あるいは「髪が不自由」とか「体積が大きい」と身体的な特色を笑われたって、そんなことで殺そうと思った女性なんて・・・たくさんいますね。

 西澤保彦さんの新刊「瞬間移動死体」(講談社ノベルズ、800円)には、子供の頃から作家を夢見て、ずっと小説を書き溜めて来た男が一人、登場します。未だに小説家にはなれませんが、かわりに小説家の妻を持って、毎日家事に炊事に明け暮れています。学生時代からの流れで結婚した二人のうち、妻の景子が小説家になってしまったのには訳があります。まだ男が学生だったころ、応募しようと描き溜めていた原稿を景子に見せたことがありました。すると彼女、あろうことか「おもろない」と言い捨て、「多分あたしの方がコイケさんより、ずっとおもろいもの、書けるとおもうわ」と言ったのです。

 これが殺意を抱かせる言葉かというと、当時はまだまだ男の優越感の方がプライドに付けられた傷を上回っていたのでしょう。悠然と構えて、だったらおまえも書いてみろと景子を焚き付けてしまったのです。それが歯車の狂い始めでした。彼女の応募した小説は第1席を獲得、そのまま女子大生作家としてデビューして、あれよあれよという間に売れっ子になってしまったのです。一方男は一次予選通過止まり。そのまま結婚した二人でしたが、作家になったからにはロスに住んで愛人の一人も作らなくてはとはしゃぐ妻を見ながら、男は作家への道をあきらめきれずに、しこしこと原稿を書き溜めていたのでした。

 決定的な一言が出たのは空港でした。景子といっしょに景子の愛人の待つロスへ向かおうと(なんと倒錯したシチュエーション!)していた男のところに、一枚のフロッピーディスクが届きます。もしかして原稿が入っているの、まだ原稿を書いていたのと聞く恵子に、男は結婚した後もときどき小説を書いていたと答えます。もはや売れっ子小説家として地位も名誉も獲得した彼女が、男に向かって言ったのは、作家でも漫画家でもゲームデザイナーでもいい、ありとあらゆるクリエーターを目指す物に対して決して言っては行けない一言だったのせす。

 「どうせ無駄なんだから」

 小さくても短くても、痩せていなくてもふさふさしていなくても、それがどうしたオレの勝手だと開き直ることはできるでしょうし、オヤジになったらそんなこと言われてても、いっこうに気にならなくなります。しかしひそかに願い、いつかはかなうと信じてやまない「作家になる夢」を、当の作家様から、そそて自分の妻から公衆の面前であっけらかんと否定されては、男のプライドはもはやズタズタどころの騒ぎではありません。オヤジになればなるほど遠ざかる、けれどもますます強くなる夢。それをあからまさに踏みにじられたのですから、殺意を抱き即座に実行に移そうと考えても、全然不思議じゃありません。ね、不思議じゃないでしょ。不思議じゃないってば。

 でどうしたかというと、男は自分の特技を使ってアリバイ工作をして、景子を殺害することにしました。いっしょにアメリカに行った足でとんぼ返りして日本に戻り、しっかりアリバイ工作(だってパスポートに入国のスタンプが押されちゃうんだから)した上で、アメリカにちょっと戻って彼女を殺そうと考えたのです。

 ちょっと待ってよ、それじゃあまた出国のスタンプが押されちゃうじゃない、という人も、彼の特技を知れば納得できるでしょう。だって彼、テレポーテーションが使えちゃうんです。えっ、「SF」なのって思った人。うーん「SF」って言えないこともないんですけど、こんなシチュエーションの小説を書いた作者が、時間をしゃっくりのように繰り返し体験できる人が登場する「七回死んだ男」とか、人格が入れ替わってしまう不思議な建物を舞台にした殺人事件を描いた「人格転移の殺人」とかを書いた西澤保彦さんだということを思い出して下さい。「SF的設定」を用いた「ミステリー」を考えれば、「テレポーテーション」なんて突拍子もない設定も、きっと違和感なく受け入れることが出来るでしょう。

 さて、彼のテレポーテーション能力にはいくつか条件がありました。パッと飛んだ先から、彼と入れ替わるように、何かがパッと彼が元いた場所に転送されてしまうのです。それから彼は、お酒を飲んだ時にしか、テレポーテーションできないんです。あとテレポーテーションをする時は、身に付けているものは衣服でも下着でも、すべて置いていかれてしまうのです(体に刺さっている針なんかは良いみたい)。そんな決まり事を踏まえた上で、彼は自分の家の隣の部屋からアメリカへテレポーテーションして、目的を果たせずにまた日本へと飛んで帰ります。そして事件が始まるのです。

 景子の本宅(別荘じゃありません。ロスが本宅なんです)で、翌朝胸にナイフが刺さったままで死んでいる男が発見されたのです。殺したのは彼ではありませんし、アリバイも完璧で疑われる余地は微塵もないのですが、たとえ殺したいと思っていた相手でも、自分の妻が疑われるのはやはりまずいということで、彼は事件の犯人捜しを始めます。恵子の妹に事件のことを小説に書いて応募すればと焚付けられたことも理由の一つだったようです。

 あとは「西澤流SF的設定ミステリー」では毎度のお約束で、テレポーテーションという超常的な技がどういった条件で発動し、どういった効果をもたらすのかを織り込みながら、可能性を考え出しては1つひとつ潰していく展開が続きます。ややもすればあまりにアクロバチックな展開に、その上で動くキャラクターの内面感情がなおざりにされることもありますが、この「瞬間移動死体」では、「どうしてテレポーテーションなんか使えるんだ」というところを(そこが肝心とSFファンは言うかも)除けば、どうして彼は妻を殺したいと思ったのかから始まって、彼または彼女が犯罪に手を染めざるを得なかったまで、合点の行く理由付けがなされていて読んでいて腑に落ちます。

 それにしても独善を地で行くような景子ですが、深い部分ではきっと男のことが好きで好きで仕方がないのでしょう。愛人を作ったとはいっても彼と離婚して愛人といっしょになる気は微塵もなく、ほかでは決して口にしない悪口雑言を彼にだけははっきと言います。そんな部分が透けてみえるからでしょうか、一般には悪女の範疇に入り、彼に殺意を抱かせるまでの言葉を吐いた景子を、あまり憎むことができないのです。

 もっとも彼女の言った一言が、あくまでも愛情の裏返しから来る軽口であったと信じたいがために、そう思いこんでいるだけなのかもしれません。あるいは小説の中のコイケさんだけに向けられたものだと、無理矢理納得しているだけなのです。もし仮に、彼女の言葉があまねく読者に向けられたものだとしたら、そしてその中の一人である自分にも向けられていたとしたら。それはとてもとても恐ろしいことなので、今はとりあえず考えたくありませんね。


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