I am

 書店で妙に気になった銀色を表紙の写真集を手に取り開いたらヌードがいっぱい。だが、はやりの若者系健康ヌード写真集かというとどうも違う。憂いというか確信というか沈思というか、ともかく様々な感情を内に押し込めつつカメラを見つめる女性たちと、男性たちの顔があって、そしてクローズアップされた女性の腕に、細かく走る何かの線が見えて気づく。

 ところどころ赤く開いた線は、まさしく自らを傷つける行為によるもの。つまりはリストカット、というより手首から肘の部分まで隙間なしに走る細かい線は、もはやリストという範囲にすら当てはまらい激しさを持ったものだ。1つ2つの傷を手首に刻んで、自分を確かめようとするリストカットのイメージを超えて、もはや行為そのものが何らかの意味を超越し、目的化しているような雰囲気があって、何がいったいそうさせたのかという推察を惹起させる。

 撮影者は写真家の岡田敦。「I am」(赤々舎、2800円)というタイトルが示すように、自分という存在への様々な思いが被写体たちに満ちている。それも、自分に対して覚える違和感をはらすべく、傷つけ痛みを覚え、自分がそこに居ることを内向きに確認する、といったものではない。激しい葛藤に身を掻きむしった様をさらけ出し、外へと開くことによって自分の存在を再確認せずにはいられない、激しくて深い心の様がそれらの姿からうかがえる。

 おそらくは、身をさらすことに恐怖を覚えていただろうモデルたちを、岡田敦はどうしてカメラの前に立たせることができたのか。それは長い時間をかけて培われた信頼があったからなのだろう。いや、そう簡単には信頼という甘やかな状態には至らいのかもしれないけれど、少なくともお互いを他者として排除し反発しあう感情を和らげ、薄れさせるコミュニケーションがあって、それならばとモデルたちをカメラの前に立たせたのだろう。

 それこそくっきりと性器まで写し出された写真たちに、いいたずらな好奇心を抱きたくなるのは無関係の読み手としては仕方がない。ただ手に取り眺めた後で、そこへと至った過程で積み上げられた、モデルの側の様々な感情の変遷と、そして撮影者の撮るべきか、撮らざるべきかといった懊悩を想起するべきだ。且つそういった諸々を超えて、外に見せるべきだという結論にたどりついた心のプロセスを想起して、境地へいたる道を心に刻むことが必要だ。

 モデルたちはきっと、一方的な共感や同情などは求めていない。敢えて身をさらした気概、そしてさらさせた写真家の写真として現れた結果から、何かを見いだすべきなのだ。

 帯には彫刻家の舟越桂が推薦を寄せている。「“キズを持つ彼ら”をわかろうとした人がいた……。というよりもその写真家の心に対してこの若者たちが示した理解と安らぎが、“寄り添えた時間”の証しと記録として現れたのだと思う」と語っている。

 人を模した人形を作り続けた果てに、人の内的な葛藤を自らの中で想起し、消化しつつ人形に形象として表すようになった結果、ゆがんだり、傾いたり、何かが生えたりと初期のシンプルさから大きく変わった、異形の人形たちを作るようになった舟越桂。彼にとって、外部に激しい傷となって現れた人々の心の様に、感じるところもあったのだろう。写真を見てこれからの舟越桂の作品に、い何が起こるのかが興味深い。

 と同時に、「I am」の写真を見た人たちも、ここに凝縮された時間をひもときながら、社会のあらゆる場所に生まれている、反目し内省し続けたあげくに陥り如何ともしがたくなったコミュニケーション的な断絶を、破りつなぎ合わせていくための方法を、探っていくことになるのだろう。そこから何かが生まれ、始まり、変化へとつながる道が見つけられれば素晴らしい。

 重ねて言うが、性器もあらわなヌード写真が大半で、且つ痛みにも溢れた写真たちだけに、心が発達していない世代には勧められない。しかしながら官能の対象に過ぎないと、大人たちまでもが両断するのは筋が違う。見て官能なんて浮かぶのは一瞬。それは標本めいた撮られ方が意図的になされたが故に、官能が飽食から諦観へと変わっていった五味彬「イエローズ」にも重なる。

 さらに言うなら、人間の今の体型を記録する意味を持っていたが故に、淡々とした境地へと至らされた「イエローズ」とは正反対に、懊悩と葛藤と理解と昇華が薄いページの中にぎゅっと詰まっていて、見る者の目を離さず心を捉えて逸らさせない。

 感じよう。生きることの困難さと、それを超えても得られる確かさを。


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