冬の巨人

 「ついに650マイルの歳になった」という言葉で始まる物語に出会った人が普通の人だったら、距離を測るべき単位のマイルがどうして歳になるのかと訝るだろう。しかしSFに慣れ親しんだ読者だったら、そこに何かの意味を見出すに違いない。

 クリストファー・プリーストの「逆転世界」(創元SF文庫、安田均訳、750円)という作品の、こんな冒頭の言葉が意味したのは、レールに載って移動する巨大都市という設定であり、且つ移動した距離が年月と重なり、歳になぞらえられるくらいに人間の感性が変容しているという事実だ。

 そこに至るまでにいったい何があったのか。変えられた完成の中で人間はどんな生を送っているのか。今ここにある現実とどう違っているのか。と、いった疑問から人が未来の姿をうかがい、そうなってしまう可能性の是非を考え、今をどう過ごすべきかを思考する。SFの楽しみがそこにある。

 古橋秀之の「冬の巨人」(徳間デュアル文庫、648円)では、年月は「歩」で示される。歩とはすなわち歩んだ単位。「逆転世界」の年月がレールに載って移動する巨大都市の進んだ距離だったのに対し、こちらは巨人が歩んだ数が年月になる。

 巨人とは、文字通りの巨人。名を「ミール」と呼ばれるその巨人は、人間の10万倍とも言われる巨大な体の背に都市を載せて、厚い雲に覆われ止まない吹雪の中を止むこと無しに歩んでいる。その期間すでに1000年。雲に覆われながらも感じられる昼夜を14、重ねた間に1歩を巨人は1000年重ねてきた。

 どうして巨人に乗って人類が移動しているのか。それは極寒の地で巨人だけが熱源を持っていて、人間を温めてくれるからだ。だからどうして巨人の姿で移動しているのか。熱源があるなら巨人の姿にせずとも、都市の形にして一所に留まらせれば良いのではないか。説明はない。運命なのだ。都市が巨人の背にあって、巨人とともにひたすらに歩き続けることは。

 主人公の少年オーリャは、そんな巨人の背にある都市でも下層に生まれ育った。熱源を優先的に得られる上層の人々とは違い、明日をも知れぬ身の上だったが、縁あって巨人を科学的に研究している学院の教授ディエーニンに誘われ助手となり、どうにか日々の糧を得ていた。

 変わり者のディエーニン教授は、誰も使わなくなっていた通路を使い巨人の外に出る調査を敢行していて、オーリャも教授について外に出て、都市が巨人の背にある事実を事実として知っていた。もっとも、それがオーリャに革命的な変化をもたらした様子はうかがえない。

 1000年を都市の中に閉じこめられ、巨人の背に載り移動していたら、もはや外の存在など一顧にしない人間が生まれて不思議はない。年という概念が完全に歩に置き換えられていても当然だ。けれどもそうではないオーリャやディエーニン教授の姿、時間を測る単位から、制度や環境がもたらす人間の、社会の変化をうかがい考察することは難しい。1000年程度では人は変わらないのか。分からない。

 オーリャはまた、調査のために巨人からグライダーで雲の上に行った時にそこを漂う少女と出会う。どうしてそんなところを飛んでいたのか。人間なのか。違うのか。やがて見えてくる不動だったはずの巨人の限界。人類にとって死を意味する事態に、けれども人類は凝り固まっているはずの思考を変転させて対峙する。

 半世紀前から続く程度の常識を覆せない人間が、1000年の間に行き渡った宗教にも近い観念を、あっさり変えられるものだろうか。なるほど地道な活動によって人々の間に来るべき週末への“覚悟”が出来ていた、という説明は分かる。分かるけれどもそれがどのように成されたのか、知れないのは残念だ。知れば今なお蔓延る観念を変えるきっかけを掴めるのだから。

 そもそもどうして地表は冬なのか。そこをどうして巨人は歩いているのか。巨人はどこに向かっているのか。やがてたどり着くだろう果てに待つのは何なのか。そこにこそ理詰めの説明を見たいという読者に対して、「冬の巨人」は明確な答えを与えてくれない。アイディアの爆発を見たかった身には、肩すかしを食らった気分が残る。

 もっとも、シチュエーションの変化が生むだろう、人的社会的世界的な影響への思弁こそが、こうした物語にといって中心であるのだと構えなければ、「冬の巨人」から得られるビジョンにも有意義なものは多い。いずれ尽きる資源。人によって荒らされる環境。地球の現実を巨人に仮託して、人類の進むべき道を考えさせる寓話的な意味がある。

 いつか訪れるかもしれない危急存亡の時に、慌てずしかりと足下を見据えて対処する力も得られる。ただ。やはり欲しかったのは、冬に歩く巨人の背、そこでしか生きられない人類が、1000年の時を重ねることで変容した意識や、習慣や、宗教や、恋愛の様であり、且つそこからどのようなプロセスを辿り、次のジェネレーションへと脱していくかという、冒険の物語だ。

 あと1歩。さらに1歩。思考を加え筆を進めてあれば、歴史に刻まれ読み手を震撼させる物語になっていた可能性は低くはない。かなうならば同じアイディアを土台にして、新たなる大長編へと発展させてもらいたいものだが、果たして。


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