CLONE SYNDROME

 自分の経験をもとに語るなら、二卵性とはいえ、当事者にとって双子というのはなかなかにやっかいなシロモノだった。誕生日がいっしょという人間が同じ家に暮らしている。当然、何をするにも比べられる。歳の離れた兄弟だったら、時代が違うとか環境が違うとかいってかわすこともできるだろう。だが、まったく同じ時間を生きている双子ではそれが出来ない。スポーツをやろうとテストを受けようと、そこで生じる差というものは、時代や環境を理由にはできず、そのまま純粋な実力の差として、白日のもとにさらされた。

 恋愛だってそう。一方がモテモテで女の子たちから山のように手紙をもらい、一方はスカスカで男の友だち一人作れない暗い生活。同じ日時に生まれて、よくもこれほどまでに違いが出るものだと我ながらあきれもしたが、同じ火山活動で生まれた石が、一方は風雨にさらされてそこかしこに穴を穿ち、一方は川の流れにもまれて丸くなりやがて砂粒となって海岸に蓄積されるように、双子だって時がたてばまったく別の人間になるものだ。というより生まれ落ちた瞬間からまったく別の人間として存在しているということ。たとえ一卵性で顔かたちまでがそっくりだったとしても、たとえクローン人間だったとしても、多分それは同じことだ。

 SF的な超絶設定を駆使するアクロバチックなミステリーで、いつも世間の話題を集める西澤保彦が、新作「複製症候群」(講談社ノベルズ、760円)で問いかけようとしたのは、まさしくクローン人間というものが持つ、その確固たる存在意義ではないかという気がする。姿形から記憶まで等しくして生まれたクローン人間でも、次の瞬間からまったく別の存在として生きていくという、当たり前だが忘れられがちなことへの注意の喚起ではないかと思う。

 ごくごく普通の街に暮らす高校生たちの上に、ある日とつぜん奇妙な壁が振ってきた。街の一部を切り取った、ストローのように円筒形をしたその壁の、内側に閉じこめられる形となった高校生たちは、近くに寄って来た犬が目の前で壁に触れたのを見て、壁が持つ機能を知ることいなった。生物が壁に触れると、その生物が姿形も記憶もそのままにコピーされてしまうのだ。

 その場に居合わせたのは、主人公の少年、下石貴樹とその友人の包国サトル、サトルが密かに憧れる美少女、草光陽子、ピアノも天才的なら勉強も学年トップの美少年、飯田篤志、そんな篤志につきまとって離れない少女、梅暮里志保の五人。壁のヘリに河川敷を切り取られる形で、壁と川とに挟まれてしまった五人は、壁が出来た反動か、悪天候で増水しかかって来た川に飛び込んで、酷くなる前に円筒形の中心部に当たる向こう岸へと渡ろうとする。ひとりサトルだけは、泳げないからと壁の向こうに飛び出すが、次の瞬間壁の中にはコピー人間が生まれ、大丈夫だと戻って来た瞬間にもう一人、都合三人のサトルが壁の中に存在する羽目となってしまった。

 川を渡るうちに、学生服を来ていたオリジナルのサトルは流されてしまい、後に残った二号と三号のサトルと、そして四人の生徒たちは、壁の内側にいた担任の古茂田扶美や砂男という男性に助けられて扶美の家へと参集する。そこでコピーと罵倒されて錯乱したサトル二号とサトル三号によって、草光さんにもコピーが生まれてしまい、さらに貴樹も誰かに突き飛ばされて一人は壁の向こうへと行き、もう一人は壁の中にコピーとして取り残されてしまった。

 ここから物語はコピーの、けれども主観的にはオリジナルの貴樹の視点で描かれる。尽きてしまった食糧を求めるために、壁の向こうへと助けを頼みたかったが、扶美の家はリビングが壁の向こう側に分断されていて、電話のある場所へとたどりつけない。そこで隣の古い邸へと出向き、電話を借りることにした一行を待っていたのは、吝嗇家でなる女主人の無惨な刺殺死体だった。

 さらに追い打ちをかけるように、篤志にぞっこんだった志保が篤志から何とも思われていなかったことを死って首を吊って自殺。コピーは処刑されるかもしれないという恐怖感からサトルたちは錯乱し、そして誰かの手によって壁の内側にいるオリジナルもコピーも、すべての人間が次々と殺されていく。殺したのは誰だ。オリジナルなのかコピーなのか。問いかけられる謎の向こうに、コピー人間が持つ己の存在への確信と、そして不安感が入り交じった複雑な感情が浮かび上がって来る。

 けれども。たとえ同じ顔を目の前にしても、自分は自分であるという確固たる信念を持てば、自らを律することはできないだろうかと考える。そっくりな一卵性の双子でも、たぶんそれぞれに自分という存在を自覚し、他人という存在を意識して暮らすようになるもの。たとえ同じ細胞から生まれ、同じ遺伝子を持っていても、時が刻む一瞬一瞬がそれぞれを違った生き物へと変えていく。そう思えば、クローンが持つ存在の曖昧さなど一辺に消し飛んで、新しいオリジナルの実存を信じることができる。

 しかし。人間の感覚とはそう簡単には割り切れないものらしい。助けようとして助けられなかった存在がオリジナル(コピー)として存命であり、殺されそうになって殺した存在がオリジナル(コピー)として存命だったこと、そして自分が助けようとした相手が自分を殺した相手であり、自分を助けようとした相手が自分が殺した相手だったこと。物語のラストで提示される、オリジナルとコピーとのそんな錯綜した関係は、オリジナルとコピーとの間に認めた格差を、再び雲散霧消させるだけの現実の過酷さと、そして甘美な魅力を醸し出す。他人もまた他人であるという信念をぐらりを揺さぶる。

 誘惑に乗るか。それとも蹴るか。過酷な現実を受け入れるか。それとも拒否するか。ストローの消えた街に残された登場人物たちのへの問いかけは、そのまま読者のクローンへの態度表明を促すだろう。現実の技術が未成熟な今はまだその時期ではないが、やがて近い将来、何らかの態度を表明せざるを得ない時期が来る。

 虐げられ蔑まれ続けながらも立派に(オタクとして)成人した二卵性双生児の兄としては、たとえそっくりな自分を見ても、自分は自分であるという信念を曲げずに生きて行けると信じているが、果たして他人もまた他人であるという信念を持ち続けられるものかと不安に思う。好きな人がいたら甦らせたいと願い、嫌いなヤツは生まれ変わっても皆殺しにしたいと願いはしないだろうか。安心させておいて、最後の最後で時限爆弾のように、遠くない将来に炸裂するであろう問題を投げかけるなんて、ホント西澤保彦は人が悪い。


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