覆面作家の夢の家

 覆面作家として活動していた北村薫さんを、「覆面作家」シリーズに登場するその名も「覆面作家」と重ね合わせて見ていた時期がありました。間もなく当人が男性(それも相当に年輩の)であることを知って、その時はちょっぴり落ち込みましたが、現実に「覆面作家」つまりは「千秋さん」が存在して、編集者の「岡部良介」に口説かれるといった心配をしなくても良いのだと、安心したこともまた事実です。

 しかしたとえ現実の世界ではなく、架空の小説の世界での出来事だとしても、「覆面作家」つまりは「千秋さん」から、編集者の「岡部良介」がそこはかとない想いを寄せられている情景には、やはり沸々と怒りを覚え、めらめらと嫉妬心を燃やしててしまいます。「覆面作家は二人いる」、「覆面作家の愛の歌」と、過去二冊の単行本にまとめられてきた「覆面作家」シリーズの書き下ろし最新作「覆面作家の夢の家」(角川書店、1339円)では、そんな怒りが頂点に達して、思わず天を仰いでしまいました。

 最新作に収められているのは中編が三本です。最初の「覆面作家と謎の写真」は、岡部良介の双子の兄の岡部優介が、良介が所属する雑誌のライバル誌にあたる「小説わるつ」の編集者、歌って踊れる静美奈子さんと結婚する場面で幕を開けます。そこで昔の恋人なんかが乗り込んできたら事件ですが、披露宴は何事もなく無事に済み、良介は千秋さんからペンギンの風船をもらったり、いしょにディズニーランドへ行くことになったりと、ちょっと「怒」ですがまあ許容範囲の日々送ります。

 事件、といっても殺人とか誘拐といった大それたものではありませんが、ともかく千秋さんの頭脳が必要とされる事件が起こったのは、披露宴からしばらく経ってからのことです。優介の奥さんになった美奈子さんの元同僚で、今は披露宴の会場となったレストラン「イワトビペンギン」のオーナー夫人鳥飼さくらさんの家から、奇妙な写真が発見されるのです。そこにはアメリカにいるはずの、美奈子さんやさくらさんの会社の先輩の姿が写っていたのでした。

 もちろん千秋さんは即座に謎の解を見つけます。謎解きの途中で、「心が重なる」なんて言葉を発するものですから、一瞬ギクリとさせられましたが、外ではやんちゃな千秋さんも、家の中では恥ずかしがり屋のお嬢様になってしまいます。自宅で披露した謎解きの場面では、怒りで天を仰ぐような描写はありませんでした。

 第二話の「覆面作家、目白を呼ぶ」になると、ちょっとばかり「怒」の度合いが上がります。事件自体は他愛のないもので、懸賞小説に当選した女性の先輩社員が運転する車が、ガケ下に転落してしまった事故の真相を、千秋さんが相変わらずの思考力と実行力で看破する内容ですが、そうした本筋とは離れて、千秋さんが謎解きの場面へと参上するきっかけとなった、監督要請の電話の一件には、嫉妬心で額に青筋が立ちました。

 第三話の「覆面作家の夢の家」に至って、怒りは頂点を極めて天を貫き、宇宙を震わせます。大げさというなかれ。すべての千秋ファンが同じ思いを抱いて第三話のラストシーンを茫然自失の面もちでながめていることでしょう。ストーリーの中核を為していたドールハウスの謎かけと、それをあっさりと解いた千秋さんの活躍など、ラストシーンではすべて吹き飛んでしまいます。浮かぶのは「怒」の文字ばかり。あるいは「悲」の文字ばかり。三次元の千秋さんに見える可能性などとうに失われていますから、残されているのは二次元の千秋さんだけなのです。それがあんなことになるなんて・・・・。

 こうなると四冊目の刊行は怪しくなりますが、しかし絶対に四冊目は刊行されねばならぬ、そこで再び我々に希望の光を与えてくれねばならぬと、全世界1億3000万人の千秋ファンが、シュプレヒコールを上げることになるでしょう。さらにスケールアップされた「怒」や「悲」を巻き起こさないとも限りませんが、それでも良いのです。千秋さんに会えるのならば。

 高野文子さん描く千秋さんは、表紙ではパンツ姿にダブルのジャケット、ソフト帽とボーイッシュですが、裏表紙ではハイネックのブラウスにロングスカート、髪は束ねて前に垂らすという、典型的なお嬢様ファッションをしています。好みと聞かれればどちらも大好きと応えるだけのことですが、許せないのは表紙の岡部良介、出版社の編集者にあるまじきオールド・ファッションで、色の取り合わせも最悪ならばスーツの下に茶色のVネックのセーターなんぞを着込むセンスは完全に不惑のオヤジです。こんな男にと考えると、再び怒りが沸き起こってきます。今夜は眠れそうもありません。


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