ホテル・ファーイースト 〜裏切りの街のアリス

 イギリス料理の不味さといったら、散々っぱらジョークにもされていて、例えば幸福がアメリカの給料をもらいイギリスの家に住み、日本人の妻をもらい中国料理を食べることだとしたら、不幸とは中国の給料をもらって日本の家に住み、アメリカ人の妻をもらってイギリス料理を食べることだといった具合に、世界的な不味さを持った料理としてやり玉に挙げられる。

 アメリカの元駐英大使が、イギリスで食べさせられたラム・アンド・ポテトを取り上げて、もう二度と食べたくないといった話も伝わっている。アメリカの料理だって量は多いものの大味で、決して美味とはいえないけれど、それでもラム・アンド・ポテトよりはマシだと思っているのだとしたら、それは相当な味なのだろう。連日食べさせられたから飽きがきただけなのかもしれないけれど、ハンバーガーとステーキとチリビーンズとフライドポテトを、毎日食べても平気なアメリカ人が音を上げるのだから、やはり味にも問題があるのかもしれない。

 そうまで言われると逆に食べてみたくなるものだし、ラム・アンド・ポテトに限らずフィッシュ・アンド・チップスやローストビーフやスコーンやハギスといった、良く名前を聞くイギリス料理も、食べれば案外に美味しいかもしれない。そうでないかもしれない。本当のところはどうなのか。実際に食べることができないなら、イギリス風の食事をこよなく愛した老婦人が、故国を遠く離れて日本の地で営んでいたホテル「極東酒店」を舞台にした八重垣十束の「ホテル・ファーイースト 〜裏切りの街のアリス」(KCG文庫、630円)を読めば分かるかもしれない。そのホテルでは、数々のイギリス風料理がメニューとして出されるようだから。

 ホテルがあるのは横浜の中華街。といっても現実の中華街とは違って、ホテルの周辺は一種の無法地帯になっている。7年前に起こった隕石群の落下で首都圏は壊滅状態に陥り、比較的被害が少なかった中華街には生き残った人たちが押し寄せた。やがて闇市のような様相を呈し始めた中華街は、今は裏の支配者によって管理され、出入りが制限された世界有数の歓楽街になっている。

 魁という主人公の少年は、両輪と横浜方面に観光に来ていて隕石落下の被害に遭い、両親を失ってひとり中華街に取り残された。そこでレディー・ジェーンという女性に拾われ、彼女が経営していた「極東酒店」で働き始めた。レディー・ジェーンはどうやらイギリス生まれで、訳あって家を出て世界を放浪した果てに日本へとたどり着き、建物を手に入れホテルを営み始めた。そのレディー・ジェーンを、遠くイギリスからアリスという少女がホテルまで尋ねてきたことから物語が動き始める。

 アリスが言うには、レディ・ジェーンはイギリス貴族の家系の出身で、爵位や土地を継ぐ権利を持っているらしい。ただ行方が分からず、次の後継者になっていたアリスがレディ・ジェーンを探すことになって、日本にある中華街にいるらしいと知って海を越えてやって来た。もっとも、晴れてご対面とはいかなかった。それというのもアリスが来る数日前に、レディ・ジェーンは何者かによって殺害されていた。

 驚くアリスをさらに困難が襲う。いっしょに来ていたボディガードがアリスの持ち金を奪って逃げてしまった。ホテルには前金で支払っていたから宿泊はできたし食事も出してもらえた。ただ街から出られなくなった。支配者が決めた掟によって、街の入り口に立つ門から外に出るには、現金で100万円を支払う必要があった。それをアリスは持っていなかった。

 当面の間、暮らすところはあっても外には出られないアリスから連絡が途絶えたことを心配して、家族の誰かが使いを寄越すまでの約半月を、アリスは「極東酒店」に滞在しながら、魁とともにレディ・ジェーンが殺された事件の真相を探ることになる。そんなアリスをもてなすのが、魁が出すイギリス流の数々。こよなくイギリス料理を愛したレディ・ジェーンの口に合うように腕を磨いただけあって、どれもレディジェーンを喜ばせる。

 中身がとろとろのプレーン・オムレツと厚切りのベーコンに紅茶が添えられた朝食。焼き上がったばかりのスコーンをクロテッド・クリームとジャムで味わうティータイム。聞くとどれも美味しそうに感じられる。日曜の夜には伝統ともいえるローストビーフを焼き、それにわさびを添えてマッシュポテトやご飯とともに食べる。なんという至福。そう思うのはどうやら日本人だけで、生粋のイギリス人のアリスにはそれが受け入れられない。

 なぜマッシュポテトやご飯であって、ヨークシャー・プディングではないのか。なぜ日本のわさびであって、ホースラディッシュすなわち西洋わさびではないのか。イギリス料理のローストビーフなら、絶対にそうでなくてはならないというアリスの主張を受け入れるなら、それが最も美味しい食べ方ということになる。

 ただし、ヨークシャー・プティングを作ろうと考えた魁が友人に美味しい作り方を尋ねたら、「ヨークシャー・プディングは不味いもんだ」という答えが返ってきた。つまりはそういうこと。けれども伝統を尊ぶアリスにとって、味は二の次なのだろう。そうだとするなら、イギリス料理はやはり不味いのかもしれない。違うかもしれない。言えるのは、どういう場所で誰と食べるかによって、味なんて大きく変わるということだ。

 油断をすれば襲撃を受け、財産や命を奪われかねない元中華街で自分を守りながら、レディ・ジェーンを殺害した犯人を追う魁の姿にアリスが抱くようになった感情は、どんな食事でも美味しいものに変えてしまうだろう。レディ・ジェーンに鍛えられた魁の料理の腕前にも、相当なものがあった。そこに加わった愛というスパイスが、不味いイギリス料理でも至福の味に変えるのだ。何だやっぱり不味いのか。

 ストーリーではレディ・ジェーン殺害の裏にあった、彼女が遠く極東まで流れてきた理由を探り、鍵となる物を探す展開を一種のミステリー楽しめる。また、身分の違う少年と少女が出会い、惹かれ合っていくストーリーにはほほえましい思いも浮かぶ。そんな展開に花を添えるイギリス料理の数々が、不味くて良いはずがない。そう思えばイギリス料理も実は美味しいものだと思えるだろう。

 素晴らしい物語に言葉によって添えられるイギリス料理。それが想像の世界で最高の味をもった料理なのだと信じよう。


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