本の雑誌血風録


 たぶん81、2年ごろだったと思う。FM愛知で夜の11時台に流れていた「ソニーデジタルサウンド」という番組に、「こんばんわ、しいなまことです」と名乗ってから、ぼそぼそと低い声でしゃべるDJが、毎日レギュラーで登場していた。

 「しいなまこと? 誰?」。民放ラジオがつぼイノリオに兵頭ユキにコボリカツヒロといった名古屋ローカルな面々と、東京からは中島みゆき、タモリ、ビートたけしといったオールナイトニッポンな面々の、楽しくも賑やかな番組を流していたなかで、およそDJには似つかわしくない声音でしゃべる、この「しいなまこと」が気になって仕方がなかった。

 やがて「POPEYE」だかのブックレビュウで、「しいなまこと」が「椎名誠」という名前のエッセイストで、なかなかの人気だといった記事を見かけるようになった。家の近くの図書館で、椎名誠の本を探すと、「さらば国分寺書店のオババ」や「気分はだぼだぼソース」、そして「哀愁の町に霧が降るのだ」といった、アヤシゲなタイトルのエッセイ、それもただのエッセイではなく「スーパーエッセイ」と銘打たれた本を、何冊か手に取ることができた。

 そこでノメリ込んで熱狂的なシーナ教信者となっていれば、後に続々と刊行され始めたアウトドアーなシリーズに感化されて、キャンプや山登りや凧上げなんぞを楽しむようになり、外向的で野性的な人間として生きてこれただろう。だが、時を同じくして本格的に「SF」と「コミック」と「アニメ」の道へとノメリ込んでいってしまったため、今にいたるまでキャンプにも凧上げにも無縁の暮らしが続いている。

 学校を出てとある業界紙に入り、悶々とした日々を過ごしていた時、椎名誠もかつてとある業界紙にいたんだという話を本で読み、椎名誠に対する見方、感じ方を大きく転換したのだが、時すでに遅かった。染み着いた「ヲタク」な体質が、椎名誠のアウトドアーな作品を受け付けようとはしないのだ。

 ただ唯一、椎名誠への見方、感じ方を変えるきっかけとなった「新橋烏森口青春編」と、これに前後する「哀愁の町に霧が降るのだ」「銀座のカラス」から成る「自伝的大河青春小説」のシリーズだけは、忌まわしくも懐かしい業界紙時代を思い出させてくれる話として、決して心穏やかとはいかないものの、読みかつ次作を待ち望むことができる。

 ”実録編”と銘打たれたシリーズ最新作「本の雑誌血風録」は、そのタイトルが示すように、「本の雑誌」創刊までの経緯がすべて実名で綴られていて、小説という感じがまったくしない。「新橋烏森口青春編」と「銀座のカラス」が、新社会人として苦闘してく若者の甘酸っぱくもホロ苦い「恋の物語」だったことと比べると、「本の雑誌血風録」は、”サラリーマン”椎名誠が歳を重ねて、会社のシガラミと社会のアツレキに押しつぶされそうになりなが苦闘する、ある種の「企業小説」だと言えないこともない。

 始まりは70年、まだ26歳だった椎名誠が編集長を務めていた雑誌「ストアーズレポート」には、ソウル大好きな菊池仁と、その大学の後輩という目黒考二が編集部員として在籍していた。だが間もなく、目黒は自身が著した「本の雑誌風雲録」にも書かれているように、「本が読めない」ことを理由に「ストアーズ社」を退社する。

 退社後も「SF」という共通の話題が縁となって、目黒考二は椎名誠と酒を呑みながら「SF」談義を続けていた。ときどき菊池仁や沢野ひとしが加わって、ブンガク談義などをしていた酒呑み会が、1カ月半ほど途絶えたある日、レポート用紙で20枚ほどの分厚い手紙が、目黒考二から椎名誠のところへ送られて来た。やがて読者が増えて50人ほど読むようになった「SF通信」を、本格的な(といってもミニコミの)雑誌としてえいやっとばかりにしてしまったのが、かの「本の雑誌」という訳だ。このあたりもやはり、目黒考二の「本の雑誌風雲録」にくわしい。

 目黒考二の「本の雑誌風雲録」と、木原ひろみこと群ようこの「別人「群ようこ」のできるまで」を読むだけでも、「本の雑誌」がマイナーからややメジャーへ、そして押しも押されぬ大メジャーへ(といっても本人たちはそうは思っていないかもしれないが)と進んでいったプロセスを知ることができるが、これら「本の雑誌前史」に「本の雑誌血風録」を加えて読むことで、入社前だった木原ひろみが「別人「群ようこ」のできるまで」では語ることの出来なかった、最初は文芸批評誌っぽかった「本の雑誌」が、今あるような娯楽路線へと変わった「石の家のクーデター」の真相を、椎名誠自身の文章から知ることができる。

 椎名誠が流通業界誌の名門である「商業界」からヘッドハンティングされかかっていたということも、「本の雑誌血風録」で初めて知った。そして引き留めを受けた椎名誠が、ストアーズ社の役員に引き立てられていたことも初耳だった。椎名誠の本の中では数少ない絶版本で、これからも2度と再刊されることはないであろう「クレジットとキャッシュレス社会」執筆のエピソードも、たぶん初めて目にできる。

 「本の雑誌」の仕事ではない、本業である「ストアーズレポート」の仕事で追求して来たテーマを集大成したものとも言えるこの本に、会社の役員たちは冷ややかな反応を示した。部下が本を出すことへの嫉みが、年輩の役員たちの心にあったことは想像に難くない。会社の仕事とはまったく関係のない「さらば国分寺書店のオババ」に、「読む必要の書く必要もない本」と言ってのけた専務の言葉にも、部下が有名になって行くことへの、祝福とは正反対の妬みの気持ちが込められているようで、やるせない。

 そんなやるせなさを感じ、けれども会社に対して、家族に対して、そしてなにより自分に対して責任感の人一倍強かった椎名誠が、板挟みになって悩みもだえ、ついには神経症になってしまったところで、「本の雑誌血風録」は仮の結末を見る。80年、椎名誠36歳の冬だった。

 間もなく「ソニーデジタルサウンド」の放送が始まり、本屋には椎名誠の本が山積みとなり、SF作家として賞を受け、映画監督として毀誉褒貶な扱いを受けるに至るのだが、そうした経緯はもはや「自伝的大河青春小説」のシリーズとして書かれなくても、たいていの人が知ってしまっている。それでも当人が「本書はまだ未完であるから、話は続くのである。いずれ書くことになると思う」(あとがき)と言っている以上は、中身はどうあれ、いずれ続きが書かれることになるのだろう。

  あるいは外には出ていないフクザツな大人の世界があるのかもしれず、「本の雑誌血風録」で明かされた数々のエピソードを上回る、各方面がわが身と震撼するような、激しい内容の本になるかもしれないと、そんな期待も持っている。また、椎名誠が全国的に有名になっていった後を襲って、目黒考二もやはり「北上次郎」の名前で評論を書き、やはり全国的に有名になっていった過程を、椎名誠の手による「別人「北上次郎」のできるまで」として読んでみたい気もしている。

 椎名誠が「本の雑誌」を創刊した歳に間もなく達する。椎名誠がサラリーマン生活に終止符を打った歳が5年後に迫っている。神経を病むほどに真摯だった椎名誠の仕事と趣味への没頭に、圧倒されつつも何か学ばねばならない、何か始めなければならないと、心ばかりがただただ焦る。決断の時、なのかもしれない。


積ん読パラダイスへ戻る