ほんたにちゃん

 人生はキャラ作りとの戦いだ。勝利できれば人気者としてチヤホヤされる素晴らしい毎日に耽溺できるし、負ければつまはじきにされ鬱々とした暮らしに沈没する。その差は決定的にして絶対的。だから誰もがキャラを作って競い合う。

 でも要注意。そこには大きな落とし穴が待っている。無理してキャラを作ったことが、永遠に消えない傷を心に刻んで激しい痛みをもたらして、ひとり暗闇の中でのたうち回る羽目となる。

 東京に出てきてひとり暮らしを始めた女の子。通っているのは写真の専門学校だけど、別にジャーナリストとして紛争地域に突入したいとか、ファッション雑誌のグラビアを飾るフォトグラファーになりたいといった意欲で選んだ訳じゃない。

 HIROMIXに蜷川実花。最近だったら花代あたり? ブームになってるガーリー系のフォトグラファーに憧れたて、そうなれたら良いかもって思っただけの進路選び。だから誰かの助手になって重たい機材をかついで現場を走り回っていることはない。

 学校では「新世紀エヴァゲリオン」のヒロインの綾波レイを気取って、無口な美少女を自己演出。「別に」とか言って近寄りがたい雰囲気を醸し出しては、そうした趣味の人から注目されたいとでも思ってた。

 でもそんなの時代遅れ。クールをこえて寒い奴だと思われて、すぐに脇へと追いやられる。だからといって変えられないと、飲み会の席にカリスマ・イラストレーターがやって来ても、サインをねだらず横を向く。

 ちょっと良いかも。初対面の人に最初はそう思わせることに成功しても、しょせんは上っ面だけの付け焼き刃。カリスマ・イラストレーターにモデルになって欲しいと誘われ、内心、「やった!」と叫びながらも表では興味のないふりをして最初は断る。何というツンデレ。

 それでもチャンスを逃すかもしれないという不安にかられてカリスマに電話。のこのこと出かけていったら今度は怖さが先に立ったか、裸になるのを嫌がりTシャツを着たモデルになって、妙なポーズで部屋に立つ。

 もしかして大成功? 甘い、甘い、甘すぎる。あれでもカリスマ。人は見る。スタンリー・キューブリックの映画なんて眠ってしまったのに見たふりをして受け答え。ビートルズなんて世代でもないのに知ったかぶりで生返事。さらにはアーンダー“ザ”ワールドなんて名前を出しては、底の浅さに中身のなさを見抜かれ見透かされて、「救いようがないね」と嘲笑を浴びてカリスマの部屋を後にする。

 痛い、痛い、痛すぎる。上滑りする過剰な自意識が鋭い槍となって身に何百本も突き刺さる感覚に、少女はしばし呆然としながら部屋に帰ってのたうち回る。でもここで負けては一生敗北者。ふっきれなければ壊れてしまうと感じたか、カリスマに対して全身全霊をこめた反撃に討って出る。

 そしてたどり着いたひとつの境地。天然になりたかったんだ。綾波レイになるなんて間違ってたんだ。ようやく至った悟りの境地。でもそれから彼女はどうなった?

 「本人本」というシリーズの1冊なだけに、本谷有希子の「ほんたにちゃん」(太田出版、1300円)は、劇作家となり演出もして数々の賞を獲得し、小説を書いても三島由紀夫賞に芥川龍之介賞と、純文学の最高峰にノミネートされる出世ぶりを見せる著者本人の懺悔と告白と転向を描いた自伝かもって思わせる。

 ちなみに著者は「ほんたに」ではなく「もとたにゆきこ」。だから完全に架空の話だなんて可能性もある。どっちだろう?

 どっちだっていい。過剰な自意識を自覚しながら抜け出せない奴が、この現実の世界にはいっぱいいる。空気を読めだの場を乱すなだのといった風潮に覆われた世間で居場所を得るには、そこに居ていいキャラにならないといけない。

 ハマれば安心、ハズせば地獄の大都会。だから過剰なまでに自分を意識し、そうあらねばと疾走する。

 でも全員が全員、演技者になんてなれるはずがない。キャラと実際の間に生じるギャップに引き裂かれては、真っ暗な闇へと消えていく。そしてそのまま引きこもる。嫌だそんな生活は。だったらどうすれば良い? 天然で居続けろ。ありのままをさらけだすんだ。

 本谷有希子が「ほんたにちゃん」であろうとなかろうと、ほんたにちゃんが沈みくぐって境地へとたどりつくプロセスは、悩める自意識過剰な者にとって、何事にも代え難い天啓だ。

 少女は気づく。「痛々しさで死んだ人間なんていないよ」。しょせんは無理なギャップがもたらす痛み。埋めれば鎮まり消えていく。はじめからギャップなんて作らなければ、痛みにのたうち回ることもない。

 綾波レイを気取って無口を決め込むような自意識過剰が、読めば最初は絶望する。でも最後に希望が開かれる。そうだと気づいた。あとは立ち直るだけ。綾波レイなんてやめちまえ。天然キャラで進むのだ。


積ん読パラダイスへ戻る