とある飛空士への夜想曲 上・下

 命はとても儚くて、けれどもとても強靱で。

 たとえひとつの命が潰えたとしても、そこから多くの命が生を延ばし、新たな命が生まれ育まれる。命の価値を軽んじるな。命の尊さを見誤るな。命あってこそ生があり、個があり、皆があって社会が世界がある人間に、そんな言葉を知らず放っている物語が、犬村小六の「とある飛空士への夜想曲 上・下」(小学館、上・571円、下、667円)だ。

 発端は、とある飛空士が次の皇妃となる少女を偵察機に乗せ、飛び地となった神聖レヴァーム皇国の領地から、海を渡り大瀑布を越え、敵対している帝政天ツ上の戦闘機による掃討をしのいで、見事に次期皇妃を皇国へと送り届けたこと。その際に、ビーグル犬の絵を機首に描いた天ツ上のパイロットの、他を寄せ付けない攻撃をも退けたことが、後に皇妃となった少女による、皇国と天ツ上との間の和平をもたらした。

 それは「とある飛空士への追憶」という物語となって、後生に語り継がれている。皇妃は救世の英雄となり、英明な指導者として名を残した。とある飛空士によってつながれた命は、皇国と天ツ人との間でさらに長く戦争が繰り広げられていれば、散るはずだった多くの命を未来へとつないだ。

 命が命を呼んだ。しかし、そうなるまでに散った命もまたあった。機種にビーグル犬を描いていた帝政天ツ上の飛空士、名を千々石武夫という男は次期皇妃を取り逃がし、海猫のように空を舞う皇国の飛空士に敗れても、そのたぐいまれなる腕前を買われ、いまだに天ツ上の海軍で最前線に止まり、撃墜王の冠をほしいままにしている。

 まだ未来を決めかねていた14歳の時に、2歳下の吉岡ユキという少女から、貧しい身でも立身出世が可能な予科練のことを聞き、不得意だった勉強を教えてもらい、150倍もの難関だった試験を突破し予科練に入った千々石武夫。そこでも努力を重ね才能を発揮し、主席で予科練を出て軍に入り、今は22歳の男となった。

 戦うことが本能であり、本望であるような日々。上官の命令すら必要ならば曲げるような身勝手さから、たとえ撃墜王の称号を得ても、出世には縁遠い生活を送っていた。そんな千々石武夫にも、水守美空という天ツ上きってのスター歌手のレコードを聴く趣味があった。なぜならその美空こそが、かつて共に栄達を誓い合った吉岡ユキだったからだった。

 共に成し遂げた夢。けれども、戦争は2人の間を大きく隔ててしまった。今もタケちゃんと慕ってくる美空ことユキに対して、千々石武夫は明日死ぬかもいしれない飛空士としての身を思い、また、ライバルと認めた海猫との再戦を願って、ユキとの安寧に浸ろうとしなかった。すれ違い。そして離別。千々石武夫は戦場に止まり、神聖レヴァーム皇国との激化する戦いに何度となく身を投じる。

 圧倒的な物量を誇る神聖レヴァーム皇国を第2次世界大戦時の米国に見立て、帝政天ツ上を大日本帝国に見立てたように繰り広げられる戦いは、日本が大敗北を喫したミッドウェー海戦での過ちを改め、どうすれば虎の子の空母を沈められる愚を免れたかを示して、指導者に決断の聡明さを問う。一方で、硫黄島での激戦から玉砕はそのまま継承し、無駄に散る命の儚さも示してみせる。

 勇猛さを敵に示せたとしても、それは何の慰めにもならない。むしろそうして儚く散った命たちが、敵の侵攻を遅らせ、和平への道をもたらし、多くの命を救ったと考えるなら、大いに意味はある。恥だの外聞だのといったもののために、無駄に散らせる命などない。退くべき時には退き、そして向かう時には向かって散らすことによって命は、儚さを超えた意味をもたらす。

 千々石武夫も、ただ己の名誉のためだけに、海猫との決戦を望んだのだとしたらそれはただの愚挙であり、蒙昧であり阿呆だ。好いてくれているユキへの愛情を袖にしてまで、挑むべき戦いではない。誰かを悲しませて、自分だけが至福にひたってそれで人間か。命はそんなことのためにあるのではない。そんなことのために生み出されたのではない。

 千々石武夫の命の行方。それによってもたらされた実に多くの命を思った時に、人は命の価値の重さを知り、命の尊さを強く感じるだろう。皇妃がとある飛空士によってつながれた命が和平をもたらし、千々石武夫が持って生まれた命によって延ばされた命が未来を開く。その過程で失われた幾万もの命を無駄にしないためにも、そして現実に日々損なわれている多くの命を未来に延ばすためにも、生きて育まれている多くの命たちに、ただひたすらの精進をこいねがう。

 「とある飛空士への追憶」では隠密行動ゆえに数は多くなかった空戦が、「とある飛空士への夜想曲」には小さな格闘戦から大規模な空戦までが描かれ、空で戦うスリリングさと悲惨さを教えてくれる。そうした方面が好きな人なら、呼んでいて常に手に汗が滲む興奮を味わえるだろう。

 もっとも、千々石武夫のように、あるいは海猫のように圧倒的な技量を持って戦えば勝てる局面でも、物量対物量となった時にもはや技量は関係ない。ロマンをリアルが押し潰す瞬間の虚しさを覚えて退くか、それでもロマンに身を投じるか。ここでも命の意味が問われる。答えは各々が考え導き出すしかない。


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