ヘルメットをかぶった君に会いたい

 1965年生まれの人なら三島由紀夫事件は5歳の時で、その重大さをできたとはとても思えない。けれども7歳の時に起こった連合赤軍による浅間山荘事件だったら、札幌オリンピックと前後して派手にテレビ中継されていたこともあって、覚えている可能性は案外に高い。

 後になって振り返れば、巨大な鉄球が雪に埋もれた山肌にある別荘の壁を打ち壊していくシーンは、学生たちを中心にした勢力が社会や政治に対して反抗していた熱い時代の終焉を、象徴するものだったのかもしれない。いずれにしてもそんな記憶を持つ1965年生まれの人間が、大学に入った1984年にはすでに学生運動の余波はほとんどの学校から消えていて、熱さの欠片も感じることは出来なかっただろう。

 これが1958年生まれの鴻上尚史の場合、東大闘争が起こり安田講堂での闘いが行われた時代にはすでに10歳前後になっていた筈。74年の三菱重工ビル爆破事件や日本赤軍が関与するハイジャック事件が起こった時は高校生になっていたから、より強く印象に残っていただろう。

 それでも過激派による活動であって学生運動とは別の次元の出来事。同じ境遇にある学生たちが集まり徒党を組んで、権力という仮想敵と戦っていた運動はすでに学校から消え去っていたらしい。残り火のよーにちろちろと燃える活動家たち姿を見かけ、シンパシーを抱きながらもそれに染まることはなく、鴻上尚史は演劇へとのめり込んで「第三舞台」を旗揚げして一世を風靡し、そして今へと至っている。

 とはいえ影くらいしか残っていなかった7歳下の世代に比べれば、形も多少ながらまだあった時代の空気を吸った鴻上尚史の場合には、より強い”取り残され感”というものがあったようだ。だから「ヘルメットをかぶった君に会いたい」(集英社、1700円)という、体裁上はフィクションとなっている一種の私小説を書いて、そんな時代に対する自分の感情って奴を吐露して見せた。

 最近になってテレビに流れるようになった、懐かしのCD選集だかの通販番組でバックに流れる映像に、ヘルメットをかぶって微笑む女性が映っていた。その女性に半ば一目惚れした鴻上尚史は、今は相当な歳になっているだろう彼女が何をしているのか、普通の人になって普通の暮らしをしているのか、それとも今なお熱い時代を引きずっているのかを知るために、その消息を訪ねて歩く。

 何故一目惚れしてしまったのか。演出家ならではの人を見る目で女性の笑顔に惚れたという指摘をする人もいた。多分それもあるのだろう。けれども、その後に巻き起こった凄惨な内部対立から受ける、暗くて厳しい学生運動への印象とは相容れない、まるで厳しさを感じさせない少女の表情の明るさというものに、どうしてそんな顔を出来るんのかと不思議に思った方が、執筆の理由としては大きいのかもしれない。

 あるいはそんな笑顔がこぼれるくらいに、あの喧噪の時代にだって人を引きつける何かがあったのかもしれず、自らは立ち会えなかったその時代への憧れめいた感情が、鴻上尚史の意識の根底に今もあって、ヘルメットの女性が気になってしまったのかもしれない。そんな様々な感情が重なり合って、老いらくの恋さながらの執着心で鴻上尚史は少女の今に近づこうとあがきもがく。

 とはいえ当時の学生が会社員生活を経て地位も得て、そして定年を迎え始めるこの時代に、自分の過去をさらけ出すことにもつながるかもしれない、学生運動でヘルメットをかぶっていた女性との繋がりを公言できるものではないらしく、消息を訪ねても、写真を編集者経由で配ってもなかなか良い反応は得られない。そんな中でぽつりぽつりと集まってきた情報から、鴻上尚史は女性が今も存命な上に、いろいろと厄介な立場にあることを知る。

 同時に匿名の手紙やファクスも届くようになって、自分にとっては懐かしさと憧れの感情を持った当時の喧噪が、当事者たちにとっては今も続く闘いの一幕であって、決して興味本位で取り上げて良いものじゃないのだと脅される。それでも、というよりだからこそ学生運動をやってた女性の居場所を突き止めたい、一言でも良いから話したいという鴻上尚史のこのスタンスは、傍目にはどこまでも興味本位にしか映らない。

 かといってそこに現在の学生達の不甲斐なさを指弾し、政権や権力の強引さに対する反意を示す言説を延々と書き連ね、翻って当時はってやって理解を求めたところで説得力は生まれない。当事者ですらない世代による空想の学生運動への憧憬に、上の世代は反発を抱くし、下の世代は無関心を貫く。

 そこに美貌の女性に一目惚れして、彼女と話しがしたいんだという極めて私的な動機を付けることによって、鴻上さんがあの時代を探求する理由が生まれて来る。どうしても会いたいんだという想いの強さが前面に出ることによって、政治的だったり社会的だったりすることにあまり興味のない人でも、この本が紡ぐストーリーに関心を抱くことができる。

 その上で、自分のあの時代への感情を描き、今の状況への苦言を盛り込んだストーリーの中で、読む人はじんわりと今の状況への懐疑を育むことになる。声高じゃない、低い目線から過去を斬り今を衝く啓発の書。それでいて映像の女性に恋心を抱いた中年男の、彼女を訪ねる心の旅っというラブストーリーでもある不思議な書。それが「ヘルメットをかぶった君に会いたい」なのだ。

 エンディング。諫早湾の干拓に怒り、接触してきた壮年の男と連れだって湾を仕切る堤防の爆破に向かう鴻上尚史の様を合わせて描くことによって、本当の鴻上尚史によるノンフィクションではない、想像の鴻上尚史による小説なのだということを改めて示している。のめり込んで呼んできた人も、空想の中で願望を充足させようとした中年男の戯れなのだと気付いて、そのみっともなさに我に返って現実へと戻っていける。

 けれどもひとり、鴻上尚史だけはこれからも引きずり続けるのだろう。まだ間に合う。敵はいくらだって転がっている。そう思いたいけれども踏み出せない、地位も名誉も得てしまって身動きのとれない今のどうしようもない気持ちに歯がみしつつ、ぽっかりと開いた心の穴を、ヘルメットをかぶった彼女を追いかけ続けることで埋めようと足掻くのだろう。

 みっともない奴だと、あの喧噪の時代の残り香すら嗅いだことのない下の世代が笑い、鬱陶しい奴だと、あの燃えるような時代をくぐり抜けて来た上の世代が誹ろうとも。


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