今日の早川さん

 やや背丈的に大きめで、ボディラインは起伏に富んでいて、というおり少しオーバースペックの側へと脚を踏み入れかけていて、性格的はやや狷介で口調も皮相的で、扱いづらそうな雰囲気を放ちながらも、そんな自分のイメージを自覚していて、脱却したいと思いつつ踏み出せない迷いから来る可愛さが、ちらりとのぞいて身を引きかけた周囲の関心を誘う眼鏡っ娘。

 そんなプロフィルがありそうというだけで、登場している女子では岩波文子を1番人気と断じる人の数の多さを想像してみたりする今日この頃。まさかそんな扱いづらそうな人間を好む人などあり得ないと、断言したくなる人もいて当然だけれど、過去にあずまきよひこの「あずまんが大王」で、似た外見と似た性格を持った水原暦が登場するや否や、他の美少女たちを圧倒して、強力な存在感を放ったことを思えば岩波文子が一押しされても不思議はないと、理解してもらえるはずだろう。

 だからウェブ上での連載から大出世して、そのまんま早川書房から単行本化されるという奇跡のような出来事に見回れたCOCOの「今日の早川さん」(早川書房、1000円)がもし仮に、テレビでアニメーション化された暁には、その声はよみと同じ田中理恵がベストであると断じつつ一方で、生天目仁美や甲斐田裕子でも間に合いそうだと考えたりしてみたくなるのも当然過ぎるくらいに当然だ。

 とはいえ現実的には、SFなどという狭い世界に尊ばれているジャンルのそれも、本格的なSF小説のみをもっぱら中心に取り上げる4コマ漫画がアニメ化される事態など、想像するのもおこがましいというか分不相応というか。同じく同人などという狭いカテゴリーを取り上げた4コマ漫画の「ドージンワーク」が、堂々のアニメ化を成し遂げていたりするから「今日の早川さん」だってと、希望を抱きたくなる気持ちの存在は認められても、50万人を集めるイベントをがある同人と、集まってせいぜい数千人のSFを同じ土俵で考えることこそ身の程知らず。ここは諦めひたすらに、書籍とネットで見て楽しむより他はない。

 実際問題、分からないことだらけ。初っぱなから本好きですねと言ってアレステア・レナルズなる著者の「啓示空間」(創元SF文庫)なる文庫本を手渡すことが、どうして男を退かせるのかが分からない。1039ページなんて広辞苑や「現代用語の基礎知識」に比べればまだ薄い方。

 全集をいきなり手渡されるよりずっと心穏やかなはずなのに、見て男はすっと退くらしい。つまりはだからそれが文庫本であって文庫本にしては異例で驚異的な分厚さなんだと知っていて、初めて愉快さが分かる4コマ漫画なのだということを冒頭から「今日の早川さん」突きつけている。何と高い入り口だ。せめて京極夏彦の新書版のどれかにしておいた方が一般性は高かった。

 いやしかし京極はSFなのか。「姑獲鳥」は違うだろう。せめて「魍魎」なら。などと定義論争に入るとさらに見ず知らずの人はさらに退いてしまうだろうから、ここはさらりと触れるに止めておく置くべきか。でもやってしまうのがSF者の性というもの。「今日の早川さん」によれば、あのカフカの「変身」ですら、SFかどうかが論じられてしまっている。SFだろう? 普通に考えれば、などとこぼす“普通”の範囲がすでにして違っている本読みたちの日々をつづった漫画に普通の人たちが共感を示せるはずもない。

 おまけに将来あるいは、自分たちのフィールドへと来てくれるかもしれないイトノベル読みたちに対する態度にも、激しくて厳しいものがある。読書数自慢。SF者がいて純文学好きがいて猟奇マニアがいる。そんな場所で仮に月にライトノベルを50冊くらいは読んでいるなどと言おうものならこう返されてぺしゃんこに潰される。「思い上がるなよちびすけ」。「ラノベは長編とは呼べん」。「本は量より質だぞ」。恐ろしい。とてつもなく恐ろしい。

 もっとも、ラトノベル読みだったら、スイスで療養中の難病の青年が、自分のクローンの金髪碧眼の美青年と出会い、恋に燃えながらも周囲に入れられず、心中してゾンビになって復活する話にだって簡単にオチを付けられる。2人は地獄から来た美少女の死神の使い魔になって、日々腐れていく容貌に悩みながらも、いつか揃って転生できる日を夢見てぬとぬととし始めた肌と肌をすりあわせるのであった、とか。教条的で形式主義的なSFでは不可能な自在さ。ライトノベル好きの富士見延流も自慢して良いだろう。決してSFが認めようとしなくても。

 開けばあらゆるページにSF読むの生態が、嗜好が、感性が染み渡った漫画たち。せいぜいがSF読みと対を成す、あるいは重なり合う部分を持つホラー読みと純文学読みに範囲を限定して受け入れられる素地を持った本が「今日の早川さん」だと言えるが、そんな中にもひとつ事に熱中するあまりに、浮いた話とは無縁に過ごすマニアの生態という意味では、本好きに限らずあらゆる事象のマニアに共通するエピソードもある。クリスマスにすることがない、とか。

 もっともSFにだってかつてはクリスマスに集まり、大元帥を讃えていた時代があた。同じひとつ事でも関わる人数の多さをバックに、同好の士を見つけやすく、カップルも生まれやすいジャンルのマニアも増えている。対してSFは、もとより人数が限られている上に年々と平均年齢が上がっている。それはもう確実に上がっている。ひとりかふたり、せいぜいが数人でつぶやき合って過ごすクリスマスの絶望感にも、ひとしおのものがあるだろう。

 「今日の早川さん」を手に取るSF者たちも同じ絶望感を味わうのだがしかし、巻末に掲げられた漫画で岩波文子が選んだ進路には、さらなる絶望を味わうべきなのかそれとも、類例として希望を見いだすべきなのか。類例ならばあるいは普遍へとつながる扉と見て、アニメ化への期待もいささかながら浮かぶのだが、果たして。


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