「物語」だったらたとえ作為的な筋立て道具立てが盛り込まれてていて、「さあ笑え」「さあ泣け」と強要されている気持ちになっても、作家のそんな大見得の切っぷりを承知の上で、共犯者として「ああ笑おう」「ああ泣くぞ」と受け止められるものだけど、これが「物語論」になってしまうと、感動している、あるいは感動してあげている読み手の思考のメカニズムを、頭の中に手を突っ込んで調べようとしているんじゃないかという思いが上に立って、ついつい身構えてしまい、「感心」は出来ても「感動」には至らないことがままある。

 だから、作家が登場して「物語って何だろう」と悩み続ける姿が描かれ、それが1冊を貫き通す主旋律になっているように見える瀬名秀明の「八月の博物館」(瀬名秀明、角川書店、1600円)も、あるいは作家・瀬名秀明による「物語」の体裁を借りた「物語論」の色濃い小説で、小説家個人への俗な興味を掻き立てられる面白さはあっても、感動には縁遠いもになるんだろうかと想像しつつ、身構えながら読んでいた。

 1859年のエジプトにおける考古学者、オーギュスト・マリエットによる盗掘者との大追跡劇に幕を開けた「八月の博物館」は、ナイルの景色、船の仕様、盗まれようとした発掘品の形から登場している人物が抱く当時を踏まえた感情の機微に至るまでが、完璧なまでの調査力、そして果てしない想像力によって描き上げられ、19世紀の熱情たぎるエジプトの様子を見せてくれる。

 それが一転して「1」と打たれた章に入ると、「ときどき、気になることがある。なぜ物語には始まりと終わりがあるのだろう」という、本編の主人公らしい作家によるエッセイとも私小説ともとれそうな独白が始まる。「理科系作家」として紹介されることが多いらしい彼に、ある評論家が「もっと勉強しろ。この作者にいいたいことは結局ただ一言、文系を甘く見るな、である」と週刊誌に書いていた話も挟み込まれ、ここに登場する作家と、作者である瀬名秀明が重なって見えて来て、「物語」の形を借りた心情の吐露、みたいな空気が立ちこめて戸惑う。

 それが「2」に入ってまた変わる。一学期が終わり、小学6年生の亨は明日からの夏休みを友達と「雑誌」と作る計画で頭がいっぱいになっている。図書館の当番を終わり、正門を出たその時、亨はふと気になって左手の方を見て、いつもと同じなのにに関わらず、どこかいつもと違っているような気がする景色の中で、「THE MUSEUM」とだけ書かれた”博物館”を発見する。そして「物語」は一気に本編へ、クライマックスへ、「感動」のエンディングへと向かって走り出す。

 実は作家志望だった少年の亨は、迷い込んだ博物館でミウという名の美少女と出会い、博物館の不思議な力を借りて万博が開かれているパリや、マリエットによって発掘が行われているエジプトへと時空を越えた旅をしては、好奇心から甦らせてしまった脅威による世界の危機に立ち向かう。

 希望にあふれ、何だって出来ると信じていた小学生の時に気分を引き戻され、亨に気持ちを乗せて時空を旅する「物語」的な高揚感もさることながら、そういった高揚感を生み出すためにはどうすれば良いんだろうと苦闘する作家の「物語論」、それ自体が少年の成長という「物語」の中に組み込まれて行き、読み進むうちにいつしか身構えも解けて、「感心」を越える「感動」が心の底からわき上がって来る。

 それすらも「物語論」に挑んだ作家の”釈迦の手”の上で踊っているだけなのかもしれない。”釈迦の手”の上で踊っている自分を認識しつつ、そんな作家の思考実験すらも「物語」なんだと理解して「感動」してしまう、出来てしまうのが今の手慣れた読み手と言う人もいるだろう。いや違う、作者はそんな読者の心理状態までお見通しで「物語論」を仕掛けているんだと言われるかもしれない。”釈迦の手”は無限に広がって収集がつかない。

 難しいことは考えず、すんなりと読めば立派に優れた少年の成長物語。小学生らしい恋とも興味ともつかない感情が行き交う亨と同級生でポニーテールの少女・鷲巣との関係なんかは、そんな経験がまるでなかった身にもあったかもしれない、というよりあって欲しかった思い出を刺激してくれるし、”猛牛”と戦う場面のスペクタクルなイメージは、冒頭の大追跡激も含めてエンターテインメントとしての楽しさを存分に感じさせてくれる。

 何より綿密な調査に裏打ちされた描写は、エジプトでもパリでも博物館でも博覧会でも、眼前に浮かび上らせてしまうほどの濃さを持つ。小説の中で鍵になる過去を見せるテクノロジーがあるけれど、もしかすると人間の書く言葉、それによって喚起されるイメージの方がよほど確実に過去の世界へと人を誘ってくれるような気がする。

 「ツタンカーメン」で有名なハワード・カーターの前の前に活躍したら考古学者にしてオペラ「アイーダ」の作者でもあるマリエットへの興味を掻き立てられて、そこから誰かによって「別の物語」が引き出される効果も生み出しそうな予感もある。本編ではわずかな登場ながら、「想い」を貫き通すことの大切さを体現する存在として登場するシュリーマンも「物語」への扉を開く存在として資格がある。渋沢篤太夫のちの渋沢栄一も同様。子孫にあたる稀代の碩学、澁澤龍彦へとつながれば「別の物語」へと開く扉はさらにその数を増す。

 1つの「物語」に終わりは避けれない。けれども作者がいて、作品があって、それを読む読者がいれば「物語」は無限に広がっていく可能性を常にはらむ。これは「生」にも当てはまる。いつか必ず来る「死」という終わりは避けられなくても、そこへと至る道筋は1つではないし、周囲の人との関わりまで含めれば可能性は無限すら越えてしまう。

 そう考えた時、「八月の博物館」は「物語」の形を借りた「物語論」でもなければ「物語論」による「物語」でもないと気づく。「八月の博物館」は「世界」を浮かび上がらせようとしている。1人の人間が悩み苦しみながら過ごしていく「生」、さまざまな可能性を選び取りながら進んでいく「生」の時間的、空間的な重なりの上に浮かび上がる「世界」の在り様を見せようとしている。そんな気がしてくる。

 これもやはり”釈迦の手”の上で踊る読者の操作された「感動」の賜かもしれないが、そこまでの意識的な広がりを経験させてくれたのだから反抗はしない。身構えも解こう。そしてひたすらに脱帽しつつ、無限の広がりを意識しながら目の前の「物語」の中に身を浸し、心たゆたわせることにしよう。

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