ぐいぐいョーはもういない

 “ぐいぐいジョーなんてもうどこにもいないんですよ”。

 映画「卒業」の中で、サイモン&ガーファンクルがそう歌った1967年に、“Joltin’ Joe”、すなわちぐいぐいジョーとあだ名された不世出の大打者、ジョー・ディマジオが何をしていたのかは知らない。

 1951年に引退してからもう16年。引退後に結婚したものの、9ヶ月で離婚したマリリン・モンローが、1962年に急死してからも5年が経って、世間では、数々の栄光や流した浮き名も、すでに過去のものとして扱われていたのだろうと想像できる。だからポール・サイモンが歌詞にして歌ったのだとも。

 引退してからも長く野球界に関わり、指導者として、あるいは解説者として、豊富な野球の経験を活かして、野球界を面白くしようと働く偉大な元選手たちも少なくない。なかには過去の偉大さをひけらかし、尊大さばかりを見せて、逆に野球の価値を貶めている元安打王もいたりもするが、いずれにしても、1度でも栄光をつかめば、野球の世界では、長くその名前を見せ続けられる。

 けれども、“ぐいぐいジョーはもうどこにもいない”と歌われた。なぜか。それは、野球こそが、それも選手としてグラウンドに立って見せるプレーこそが、ジョー・ディマジオにとってのすべてだったからだろう。

 引退して、野球をできなくなった身に興味を抱いてもらう必要などない。それこそ野球への冒涜だ。あるいはそうした考えが、生真面目すぎる嫌いのあった彼をして、ただ記憶の中にのみ姿を残し、大勢の前から消えゆく道を選ばせたのかもしれない。

 ジョー・ディマジオが抱いた、そんな野球への強い思いを、言い表すような言葉をタイトルに選んだ以上、樺薫の「ぐいぐいジョーはもういない」(講談社BOX、1400円)もまた、野球への強くて、激しくて、熱い思いにあふれた物語であることは必然だ。

 熱く激しいといっても、そこは麗しくも可愛らしい女子高生たちが、硬式野球に挑むという物語。飛び散る汗の匂いにも、どことはなしにかぐわしさが漂う。なおかつ野球の1球、1打席の描写がとことんまで細かく、読み進めるたびに眼前に、投手がいて捕手がいて、打者がいる場面が現れてくるような感覚を味わえる。

 ダスティン女学院なる、アメリカのアカデミー賞俳優とは特に関係のない名前の学校に入学した小駒鶫子(こごま・つぐみこ)は、入部を希望する硬式野球部をたずねていき、春休み中の練習を見学する。そこにいたのが、上級生のような顔で立っていた、長身の美少女。実は同級生の城生羽紅衣(じょう・うぐい)だと先輩から教えられ、何様といった目でにらみつける。

 そんなささくれ立った出会いも、羽紅衣が投げた球を見て一変する。スラリとした身から繰り出される直球はどこまでも速く、スライダーは激しく曲がって、打者はもとより捕手すらも悩ませる。出れば最強。けれども受けられる捕手がおらず、いても打撃に不安があってチームの戦力をそいでしまう。

 諸刃の剣のような羽紅衣を唯一、輝かせられる存在。それが、中学時代にキャッチャーをやっていて、打撃も得意な鶫子だった。座りっぱなしの目立たない守備を嫌気して、三塁手へと転向を画策していた鶫子も、チームのためと諦め、羽紅衣の球を受け始める。

 こうして始まったガール・ミーツ・ガールの関係は、我が儘で奔放で、けれども投球にかけては自信たっぷりの羽紅衣の姿勢を受け入れていく鶫子との間に、どことなく微妙な恋愛的な感情を漂わせ、読む者たちの心をざわつかせる。一方で、試合ともなれば投げる1球1球と、迎える1打席1打席のすべてに意味を持たせ、語り上げる。

 その時の心理。その時のシチュエーション。すべてを勘案してこそ見えてくる野球というスポーツの奥深さを、言葉によってくっきりと浮かび上がらせる。なおかつ、そうしたスポーツにいそしむ少女たちが抱く、スポーツへの熱い思い、そして仲間たちへの情愛をドラマに描いて、青春に戸惑う若い人を引き込み、青春を振り返りたい大人の追憶を蘇らせる。

 ジョー・ディマジオのあだ名が歌われた、サイモン&がーファンクルの「ミセス・ロビンソン」が使われた、ダスティン・ホフマン主演に映画「卒業」もモチーフに取り入れられた物語。キャラクター描写でも、羽紅衣が我が儘いっぱい、百合いっぱいに振る舞って、鶫子をキリキリとさせるかわいさを描いて、読む者たちを引きつける。

 球を取れる捕手がおらず、文句を言って捕手を変えてくれと直訴して、監督に叱られ正座している羽紅衣の姿は、文字で読んでも絶妙な可愛らしさ。もしも映像で見たならきっと、誰だって何とかしてやりたく思うだろう。鶫子もその仕草にやられたのか? 考えられない話ではない。

 出会いこそとげとげしさがあっても、やがてかみ合い理解し合い、ちょっぴり愛すら漂わせるようになった羽紅衣と、鶫子が高校野球の最後のシーンでかわす肉体的な接触。これも、映像で見ればきっと、誰もが野球というスポーツを通じて育まれる友情、ならぬ愛情の素晴らしさを感じるはずだ。

 それとも、女子野球だからこそ見て目に麗しさを抱けるのか? 男子の高校野球をテーマにしていて、同じシチュエーションで同じ展開を見て、同じ感情を抱けるか? そこは、同様に緻密な野球の描写で知られる、樋口アサの漫画「おおきく振りかぶって」が、男性の野球ファンよりもむしろ、女性のキャラクターファンに人気となっているところを見れば、十分にあり得る話だ。需要はそれぞれにある、ということだ。

 そして「ぐいぐいジョーはもういない」。女の子たちはマウンドを降り、1人は怪我を抱え、結婚も控えて野球人生の大きな岐路に立たされる。タイトルに従うならば、ここで話はおしまい。“城生羽紅衣はもういない”と言われ、やがて埋もれていくだけの物語となりそうなところだが、せっかく生まれた画期的なキャラクターを、ここで失ってしまうのは実に惜しい。

 希望はある。女の子はいつまでも女の子ではない。そこに未来を見いだせる。花の命は短くても、女の子の日々は一瞬でも、そこから女の長い人生が始まる。そして野球の人生も。ならばあるいは再び、マウンドに立つ羽紅生が剛球、そして超速スライダーを投げる姿を、そして受ける鶫子の姿を、それこそぐいぐいジョーの本場、アメリカの女子プロ野球を舞台に、見られる時がくるかもしれない。

 そうなってこそ、未だ希薄な、見せ物でしかない女子野球への深い理解が生まれてくる。そして、いろいろな意味でのハッテンが生まれてくる。だから願う。マウンドで投げる彼女の姿を。城生羽紅衣はここにいると、その身で示す時の再来を。


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