グーグー
チキタ★GUGU

 地球の上で食物連鎖のてっぺんに立ってしまってしまった人間にとって、動物はたいていが食べるか愛でる対象でしかない。なかに「これは数が少ないから食べただめ」という動物もあるけれど、過去の山ほどの動物を絶滅に追いやった人間が吐くセリフだ。「可愛い」とか「珍しい」といった、これまた人間の事情による判断でしかなく、食べられる、あるいは保護される動物の身になって考えている訳では絶対にない。そんな気持ちがカケラもあったなら、夕べのステーキも今朝のハンバーガーも食べられないからね。

 けれども仮に、人間にも天敵が現れたならいったいどんな気持ちになるだろう。自分たちがどれだけ身勝手な存在で、食べる動物、愛でる動物を恣意的に決めているかが分かるだろうか。自分たちだけを絶対唯一の存在かのように錯覚して、ほかの動物たちの”権利”を無視していたかが見えてくるだろうか。TONOの「チキタ★GUGU」(朝日ソノラマ、760円)では、そんな仮定の話を現実のように感じさせてくれる設定の下で、人間の身勝手さと傲慢さ、そして脆さが描かれ漫然と生きて来た気持ちに釘をさされる。

 両親が妖怪に食べられてしまった家で、なぜか一人、生き残っていた少年がいた。名前はチキタ・グーグー。彼は今、両親を食べてしまった当の妖怪で、女性にも男性にも動物にだって化けてしまえるラー・ラム・デラルと一緒に暮らしている。本当はラーは、両親たちといっしょにチキタも食べようとしたんだけど、苦くて不味くて食べられなかったというのが事の真相。だったら殺してしまえば良かったのに、チキタは生かされラーと一緒に暮らす羽目になってしまった。理由は、とてつもなく不味い人間でも、100年経つととてつもなく美味になるから。ラーはそんな日を待ってチキタを飼育してるのだった。

 食物連鎖のてっぺんにいる人間の、さらに上に立って人間を家畜扱いする妖怪たち。けれどもチキタは続々と登場して来る妖怪たちと接するうちに、自分をエサとしか見ない妖怪たち以上に、人間が人間も含めてほかの生物たちを、単なる道具や食物としか見ていないことに気づいてしまう。妖怪を退治する能力がありそうだからと、人喰い妖怪の出る原っぱにチキタを放り出す人間。妖怪に飼育されるのは恥だと言って、だったら人間の手で殺してあげると言ってくる人間。そんなエピソードの中から、人間の奢り高ぶる気持ちがじわじわと浮かび上がってくる。

 水玉模様をして人間の着た服を食べる熊の妖怪シャルボンヌ。実はかつてサーカスで人気者だった熊が、ちょっぴり下がった人気を回復をしようとする人間によって体に派手な水玉模様を、毒のペンキで塗られ、挙げ句に弱って放り出されたものの、それでも人間を恨みきれずに、人間の匂いがする服を求めてさまよう妖怪になってしまったものだった。あるいは人間の赤ん坊をさらって木にくくりつけて助けることを許さない鳥の妖怪。実は前に人間によって切り倒された木に巣を持っていて、そこで育てていた3羽の小鳥が人間によって殺されてしまった逆をやっていただけだった。

 たとえ100年後であっても、いつかは食べられてしまうんだという怯えの気持ちから、本当は妖怪が大嫌いになって構わないはずなのに、チキタはなぜか妖怪の方に親しみを抱いてしまう。シャルボンヌを妖怪に追いやってしまい、鳥に残酷な振る舞いをさせ、同じ人間である自分を何度となく殺そうとした人間の、他の動物が、生命があるんだという事実に気を配らないエゴイスティックな面を知ってしまったことが大きい。

 染まりすぎた挙げ句なのか、妻が殺した妻が化けて出て夫を殺そうとした場面で、若くして殺されてしまった妻の無念を差し置いて、どうせいつかは死ぬ人間なんだ、謝れば許してくれるよなと妻の幽霊に言ってしまう達観ぶりが出てしまうのが悩ましい。「死んだらそれまでよ」な生命にはちょっと通用しない論理だから。やぱり何であれ殺してしまうことはいけないことなんだ、謝って済む問題じゃ絶対にないんだということを見せて欲しい気はした。

 それでも人間社会の上に妖怪社会を作ったことで、人間の傲慢さ、残酷さ、エゴイスティックぶりを見せてくれる点は評価したい。不気味な人間と優しい妖怪たちという、一般的な常識からは正反対にある環境の下で、チキタがいったいどんな大人に育っていくのだろうか。結末は2巻以降へと持ち越しで、不安と同じかそれ以上の期待に、今は胸がいっぱいに膨らんでいる。


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