グランド・ミステリー
Grand Mystery


 歴史などという物を勉強してしまうと、1秒1日1年を積み重ねていくこの人生が、どうにもまだるっこしく思えてて仕方がない。結論は見えているのだから。「みんな滅びてしまうんだ」という究極にして絶対の結論が。

 古来あまたの勢力が勃興しては繁栄し、やがて衰退し滅亡していった、それの繰り返しが歴史なんだということくらい、王朝別国家別文明別に色分けされた歴史年表を見れば明々白々だ。どんなに回り道をしても、たどり着く地平が同じだとしたら、一足飛びに近道をして、この繰り返しに早いところ終止符を打ってやった方がいいのかも、などという物騒な考えすら浮かんで来る。

 「違うよ、誰かが生きていた証(あかし)が『歴史』なんだよ。そんなに刹那的にならずに、自分が生きていた証を未来の人に見て貰おうよ」。実に魅力的な誘惑も、時には歴史年表から聞こえて来る。けれども例えば6500万年、恐竜が繁栄した中生代から人類が栄華を極める現代までに消化した時間と、同じだけ未来に時を延ばしたその先で、記録をいったい誰が見てくれるのだろう。そして人類の歴史なんてものを感じてくれるのだろう。

 「人類じゃなくったって、別の人類に代わる種族だって、あるいは地球にやって来た宇宙人だって見て何かを感じてくれるさ」。なるほど、だがそれがいったいどんな意味を持つ? 紙に、ディスクに、建物として、化石として残された(6500万年を越える紙やディスクがあるとはとても思えないが)記録を見て、未来に生きるその”もの”たちが認識するのは、せいぜいが「あれは特別な緩和剤を注入した自然消滅に至る崩壊因子だ」「その変な物はよく動く、たいそう原始的な生物だ」って程度のことだろう。おや、どうやら刹那的になっているのは歴史を学んだせいばかりではないようだ。

 もちろん奥泉光は「グランド・ミステリー」(角川書店、2400円)の中で、歴史の無意味も人類の営みの無価値もあからさまには謳ってはいない。あるいはほのめかしてすらおらず、もしかしたらそれは、ただの厭世観に取り付かれた人間の見た、論旨とは全く正反対の勝手な妄想かもしれない。けれども通読した人ならば、少なくとも過去があって現在へと至りやがて未来へと進む、歴史というものの存在には気付くだろう。歴史の意味や人類の営みの価値を考えるのはそれからでも十分、まずは稀代の語り部が仕掛けた、歴史をめぐるミステリーに没入してみよう。

 1941年12月7日早朝、と言えばたいていの人なら歴史の本で翌日が「太平洋戦争」の戦端を切った「真珠湾攻撃」であることを知っている。その朝1隻の潜水艦の中で奇妙な事件が発生した。潜水艦から出撃して真珠湾にいる戦艦を攻撃する手はずになっている特殊潜航艇の乗員が、1通の手紙を持って艦長の元を訪れた。特殊潜航艇とはいっても出撃したら帰投はほぼありえない一方通行の特攻艇。死知におもむく兵士が遺書を持って訪れたのだと理解した艦長は、それをあずかり金庫に収めた。

 同じころ別の戦艦では、一人の整備兵が航行する艦上から身を投げて自殺した。理由は不明で横行する厳罰に耐えられなくなったとも、誰かによって突き落とされたのだとも言われつつ、結局は自殺という線で落ちついた。やがて真珠湾攻撃が始まり、潜水艦からは遺書を託した兵士も乗せて特殊潜航艇が出撃し、整備兵が消えた戦艦からも戦闘機が飛び立ち、次いで爆撃機が飛び立っていった。

 事件は潜水艦で起こった。金庫から兵士から預かった遺書が消えてしまったのだった。そして事件は戦艦でも起こった。帰投した爆撃機の操縦席で榊原という大尉が謎の自殺を遂げた。真珠湾攻撃が大勝利で終わった後、金庫が無くなった潜水艦に乗り合わせ、自殺した榊原大尉とは兵学校で同期だった加多瀬大尉は、未亡人の願いを聞いて榊原大尉の死の謎を追い、やがて無くなった遺書に書かれていた秘密、艦上から身を投げたとされた整備兵の死の真相の、すべてが1934年に起こったある事故に、端を発したものであることに行き当たった。

 終わってみれば「グランド・ミステリー」、すべてが合理的な解答を与えられる上等のミステリー小説としての醍醐味を、読者に存分に味わわしてくれる。けれども事件の謎を1人の海軍士官が鮮やかに解き明かしてみせる、ミステリーならではのカタルシスはエンディングからは得られない。事件の真相に迫る過程で、加多瀬はかつての同期生、今は紅頭柳峰と名乗って宗教がかった集まりの導師となった昆布谷に再開し、彼が語る、”2度目の現実”という言葉に強くとらわれる。

 1度経験した事を、繰り返してなぞっていかざるを得ないこの恐怖、1度読み終えた歴史の本を、我が体験としてたどっていかざるを得ないこのまだるっこしさ。細部は違う、真珠湾で死んだ大尉が1冊目ではミッドウエーで死んでいたり、戦時中に密かに暗殺されていた作家が、後の世で自殺に見せかけられて殺害されていたりと異なってはいても、日本は米国との戦争に負け、米国に占領されて後に未曾有の発展を遂げ、そして繁栄の現在へと至ることに変わりはない。

 歴史が証明していること、つまりは人は必ずや死に、繁栄はやがて滅びへと至る運命にあることに、気付いて加多瀬大尉は砂漠を歩く。それでも個として歩いていかざるを得ない運命を、風にかきけされようとも足跡を残して前に進まなくてはいけない運命を強く思う。意味はあったのかもしれないし、まったく無かったのかもしれないが、すくなくとも現在、あるいは過去、歩いている、そして歩いたという事実は永遠に残る。記憶として、歴史としてではなくただ事実として。

 自分の生き様が歴史として刻まれ後世に役立つことを願う人もいるだろうし、歴史なんて物がはるか後世においていかに無意味かを知って達観(それとも絶望)する人もいるだろう。どちらにしても生きていることへの肯定あるいは懐疑といった何らかの認識に、目覚めさせてくれることは間違いない。ページを閉じ、本を置いてのどが渇いていたのなら、ためらわずにコップ1杯の水を飲み、それから考えてみることにしよう。

 欲望を満足させた今の自分の幸福を喜ぶべきなのか。それともいずれは死ぬ自分の小さな幸福など、人類全体の繁栄への欲望と同じくらい、6500万年後の未来において全くの無意味なんだと達観(つまりは絶望)すべきなのか。重ねて言うが究極にして絶対の結論は見えている。見えていながらも個としての自分に訪れる、欲望からはやはり逃れ得ることはできない、人間の業にまた気付く。

 歴史の意味とか人類の営みの価値とかはこの際関係ない。今はただ欲望の赴くままに眠りたい。眠って後に再び考え、欲望に誘われてまた眠り、その繰り返しの果てに訪れる死を享受しよう。歴史という物は多分、そんな死の集積と堆積の結果として、厳然としてあり続けるのだろうから。


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