グッバイ*チョコレート*ヘヴン
GOOD−BYE CHOCOLATE HEAVEN

 岡崎京子を読んだことがない。まったく、という訳では決してないが、ハマって読み込んだという作品がひとつもない。それは多分、いくつか手に取った岡崎京子の作品が描いていた、都会的で先鋭的な恋愛の物語と縁もゆかりもない暮らしをしていたことや、我が身に引き寄せて憧れようにも憧れられるだけの条件を備えていなかったことが理由にある。ほかに流行って流行りすぎていた関係で、意地からわざと目を背けたという天の邪鬼な理由も。

 だから荒木スミシが岡崎京子への「偉大な作品に対する敬意と愛情で書」(あとがき)いたという「グッバイ*チョコレート*ヘヴン」(幻冬舎文庫、600円)を読んでも、そこに岡崎京子の匂いや影を見出すことは困難だった。小説を読む限り、オタクとは違う都会の最先端で生きてる男の子たち、女の子たちの先鋭的な暮らしぶりが描れいていて、そこが岡崎京子の漫画の世界に似ているのかもしれないとは思ったが。

 「グッバイ*チョコレート*ヘヴン」の主人公はヒロミという名の平凡な少女で、同居している母親はプール通いが忙しく子供にはそれほと構わず、別居している父親はネット絡みの仕事でそれなりな地位にある。あとヒロミには姉がいて、イオナという名前でモデルとして活躍していて、広告を飾ったりグラビアに登場しては世の男たちの気をそそり女たちの気を煽っている。

 ヒロミはそんな姉が自慢かというとそうではなく、学校に行けば聞かれるのはイオナのことばかりで少々億劫になっている。最近のイオナには噂があって、太って二目と見られない体になっているそうで、グラビアや広告に出ている写真は昔のものをデジタル加工したものだという。実際にテレビへの出演も無くなっていて、噂の信憑性を高めている。

 そんな折りもおり、ヒロミたちのところへイオナが突然自殺未遂を図ったという連絡が飛び込んでくる。太っていたか、美しかったかは不明。別居していた両親が病院へとかけつけ、ヒロミも家を出てイオナの病院へ向かおうとしたが、途中イオナのファンらしい少年に拉致され監禁されてしまい、家へは殴られるヒロミの姿を移したビデオテープが送りつけられる。

 自らを映画「サイレント・ランニング」に登場するロボットになぞらえヒューイと名乗り、ヒロミのことをデューイと呼ぶ少年の存在が世間に明るみに出て、イオナという偶像を生みだしたシステムへの反抗心を唄うヒューイを支持する勢力と、イオナを信じる勢力とがネットの中で、やがて現実の世界でも抗争を繰り広げるようになる。

 一方でヒロミの姉として存在した現実のイオナはますますその実在が希薄になっていく。現実のイオナを知るマネージャーの探索も奏功せず、偶像のイオナだけが巨大化していき現実を飲み込もうとする。

 重ねて言うが岡崎京子をよく知らない。ゆえに「グッバイ*チョコレート*ヘヴン」のどこが岡崎京子なのかは分からない。「あとがき」によればどうやら「ヘルター・スケルター」という、未だ単行本にはまとまっていない、作者にとって未知の傑作があって、伝え聞いたあらすじから妄想し、「リバーズ・エッジ」ほかの作品を読みながら作ったのが、この「グッバイ*チョコレート*ヘヴン」らしい。

 その是非はともかく、また真否はともかくひとつの作品として見た「グッバイ*チョコレート*ヘヴン」は、現実のアイドルが架空のアイドルへとすり代わってもなんら不思議のない、誰かに作られ操られた社会の中で、同じように誰かに作られ操られなが生きることへの違和感が、痛みをこらえて生きるヒューイとデューイという少年と少女の姿を通して浮かび上がり、読む人の足下をゆるがす。ヒューイとデューイがたどったのと同じように、黒い穴からの脱出を夢見させる。

 「青春トリコロール」と銘打たれ、赤白青のフランス国旗になぞらえたカラーで青春を語るシリーズの「赤の青春」とある「グッバイ*チョコレート*ヘヴン」。ここで言う「赤」が燃え盛るヒューイの魂か、それとも流れるデューイの血をあらわしているのかは分からないが、現実への憤りでも、逃避行への憧れでも構わない、動く心があったらそこにはまさしく「赤の青春」、情熱と躍動感の象徴であるトリコロールの「赤」に重なる青春があったということだろう。

 ならば「青」は何を描くのか。「白」では何が描かれるのか。岡崎京子へのリスペクトだと言いながらも、独立して楽しめる「青春」のひとつの形を描ききった筆が挑む「青の青春」そして「白の青春」の形がどんなものなのかを、期待して今は待ちたい。


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