銀扇座事件


 シリーズ物が厄介なのはある程度巻を重ねた後で容易に新しい読者を獲得し辛い点で、例えば今はいったいどれ位まで行ったんだろう栗本薫の「グイン・サーガ」を他人に薦められたからといって、1巻からじゃあ読んでみようかと思える人が全世界に100人も果たしているとは思えない。ましてや250巻の「ペリーローダン」を読めと言われても本屋で第1巻を見つけるだけでも大変なこと、その時点でなよなよと気力が萎えていく気配が感じられる。

 それでも時にひょんな機会でハマって一気にシリーズ制覇、という事態が起こらない訳では決してない。田中芳樹の「銀河英雄伝説」は10巻は行ってた辺りで一気にまくり、ピアズ・アンソニイの「魔法の国ザンス」も古書店で8巻あたりまでが束になったのを魔が指したのか買ってしまって偶然にヒマだったこともあって2日をかけて一気読み。ほかにも幾つか少ないけれども似た例はあって、つまりは偶然と気分の折り合いさえ付かせれば、気力を萎えさせずに新しい読者をシリーズ物でも途中から引っ張り込める可能性があるってこと、かもね。

 で、ここ取り出したのは太田忠司さんの「狩野俊介シリーズ」。たぶん「月光亭事件」に始まって「白亜館事件」で10作を数える著者を代表する人気シリーズだと言えるけど、さすがに新書で10冊ともなると1冊が平均で800円として8000円もの金額が必要、かつ1冊が200ページだとして2000ページものシリーズを買って読むのは不労所得が幾ら多かろうとなかなかに決断を有する。

 それが何故にいきなり第11作目の「銀扇座事件 上・下」(徳間書店、上・下各800円)を買って読んでみる気になったかと言えば、ぶっちゃけた話表紙の美少女が裸でかわいかったから、というのが理由の結構大切な部分を占めていたりはするけれど、それだと余りにも俗なんで本当の理由は作品の構造に何やら過去に類を見ない大仕掛けがありそうで、これは過去を飛ばしてもとにかく確かめてみなくては気が収まらないと考えたから、ということにしておこう。もちろん本当のことだけど。

 きっかけはまず上巻裏のこの文句。「シリーズ初の上下巻である。ただの長編というだけでなく、二巻に分ける『必然性』にこだわった太田さんが出した答えは……」と書いてある以上はおそらく何やら仕掛けがあると信じて間違いはない。そして下巻に収録の「あとがき」の太田忠司自身の言葉。「でもどうか、上巻だけで放り出したりせず、下巻も読んで下さい。このお話を上下二冊で刊行した意味が、それでわかっていただけると思いますので」。

 こうまで言われて読み上げないのは読書好きが廃るというもの、解ったよシリーズがどんなだかは知らないけれど少年探偵・狩野俊介が活躍する話だろうと、その程度の辺りをつけてまずは読み始めた上巻は、ファンなら周知の野上という探偵が狩野俊介という少年を手元に起きつつ開いている探偵事務所に、中垣という弁護士が現れ依頼をする場面から幕を開ける。聞くと中垣弁護士は20年前に謎の引退を遂げた絶世の美人女優・百嶋美也子の依頼を受け、彼女が町にある「銀扇座」で復帰後援を開こうとしていたところ、謎の脅迫を受けて舞台を開けない可能性が出てきたため、野上たちに身辺警護を頼みに来たのだった。

 実は美也子は20年前、同じ「銀扇座」で同じ演目「哀しみの聖母」を演じた直後に引退を表明、以来一切表舞台から姿を消していた。そこの何かあると睨んだ野上と狩野俊介だったが、身辺警護と謎の追究の努力も虚しく最初に美也子の相手を務めることになっていた、美形で演技力もあり美也子を尊敬してやまない俳優・水越蒋太郎が舞台の奈落で殺害され、さらに美也子を長く守って来た和田泉子も殺されて舞台は中止へと追い込まれた。

 美也子が20年前の舞台でいったんは降板した際に代役に起用されながら、美也子の復帰でスポットライトを浴びる機会を逸して失意のうちに死んだ女優の存在と、その女優と恋仲にあった脚本家の存在が解り事件はいよいよ核心へと迫る。懸命な野上に次第に惹かれる美也子の描写も織りまぜられ、最後はおそらくいつもどおりに少年探偵・狩野俊介の名推理によって事件は鮮やかにその幕を閉じる……はずなんだろうけれど、不思議なことにそれは文字どおりの一巻の終わり、というか上巻の終わりでしかなく後には同じ分量に近い下巻が残され片づいたはずの先を読めと誘う。

 あるいは蛇足? それとも別の物語? などといった考えの如何に愚かだったかに誰もがすぐに気付くだろう。そして読み進むにつれてこの「銀扇座事件 上・下」がどうして「上下2巻」だったかの理由も解るだろう。そしてもちろん2冊に分けて儲けようとしてたいんでは絶対にない、「必然」としての上下巻だったことを理解しかつ、その壮大な先入観を深く刺激し真実を見誤らせる仕掛けの意味に強い感嘆を覚えるだろう。

 理路整然として隙がなく、意地悪なくらいに冷静で、仕事仲間の欠点をあげつらうことも厭わない狩野俊介の言動と、近所の喫茶「紅梅」で働く女性・アキの、愚直というより半ば狂信の域に達するほどに、俳優・水越蒋太郎へと近づきリハーサル中であるにも関わらず花束を渡そうとする奇妙な振る舞い、そしてどうという活躍もなしに稀代の名女優から好意を持たれる野上探偵と、そんな描写を読んで過去の10巻をつき合って来たファンなら何かを感じたかもしれない。それはそれで良いだろう。

 だがむしろシリーズを過去に1冊も読まず、主要なキャラクターの性格も理解せずに上巻を読み、また下巻を読んだ”これが最初”の偶然と気分に支配された読者の方が、過去に多くの類を見ない大仕掛けに純粋に驚き、完全に騙されたのではなかろうか。これまで「狩野俊介シリーズ」を読まずにいたことを、かえって良かったとさえ今は思える。

 そして未だ「狩野俊介シリーズ」を手に取っていない人にでも、とりあえず解らなかろうとも「銀扇座事件 上・下」からでも遅くはないから読んでごらんと胸を張って言える。過去の10作はそれから読んでも遅くはない。むしろ読んで感じた事から改めて「銀扇座事件 上・下」へと至る道筋を辿り、多くのファンが感じただろう熟知の上での違和感を感じてみるのも悪くない。2回も楽しみを味わえる栄誉に浴することが可能な初見参の読者を、もがき苦しんだ上での快作をもって引き寄せてくれた太田忠司に感謝。


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